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黒い扉の向こうには、もうひとつの花園が広がっていた。
澪は思わず足を止めた。
先ほどまでの温室が華やかな祝祭の場だったとすれば、こちらはまるで夜そのものを閉じ込めたような場所だ。
天井は高く、硝子の向こうには星のない夜空が広がっている。
壁には蔓植物が這い、ところどころに咲く白い花が蝋燭の灯りを受けて浮かび上がっていた。
中央には大きな円卓がある。
深い色の木で作られた円卓には銀の燭台と七つの硝子の器が並んでいた。
器にはそれぞれ違う花が浮かんでいる。
薔薇、芍薬、椿、蘭、藤、蓮、ダリア。
どの花も水面に映る自分の姿を眺めているように静かだった。
花人たちは円卓を囲み、思い思いの席へ腰を下ろした。
澪は少し迷ってから蓮の女性の隣に座る。
「こちらへどうぞ」 蓮の女性は柔らかく微笑んだ。
その姿は相変わらず神聖でどこか妖しい。灰桜色のドレスが椅子の背に沿って流れ、白い首筋には蝋燭の光が淡く揺れている。
澪は彼女の横顔を見つめながら思った。
こんなに穏やかな女性は何を考えて生きているのだろう。
どうすればこんなふうに静かでいられるのだろう。
自分は何かあるたびに心を乱してしまう。
佐伯のこともそうだった。
菫と出会った時も、自分の言葉が誰かの人生に触れることが怖かった。
そして今夜は、他の女性たちの華やかさに圧倒されている。
その隣で蓮の女性は何ひとつ揺れていないように見え、澪は少し羨ましくなった。
その時、円卓の奥で魔女が立ち上がった。
黒いベルベットのドレスが燭台の灯りを吸い込むように揺れる。
「皆様、今宵もお集まりいただきありがとうございます」
魔女が微笑むと、それまで交わされていた会話が静かに収まった。
「花人夜会の第二幕へようこそ」
魔女は円卓をゆっくりと見渡す。
「先ほどは、それぞれの花を存分に愛でていただけましたでしょうか」
薔薇の女性が微笑んだ。
「ええ。目の保養どころではございませんでしたわ」
その言葉にあちこちで笑い声が上がった。
魔女も楽しそうに目を細める。
「それは何よりです。私たち花人は自分にもうっとりいたしますが、他の花にうっとりすることも大好きですからね」
澪は小さく頷いた。
今夜、確かにうっとりした。
薔薇の華やかさにも、蘭の妖しさにも、ダリアの濃密な色香にも。
しかしそのたびに自分の花を小さく感じてしまった。
魔女は続けた。
「ただし、花というものは咲いている姿だけを見ても、その花のすべてを知ることはできません」
魔女は円卓に浮かぶ七つの花へ視線を落とす。
「今宵は皆様がどのような季節を生き、何を失い、何を欲し、どのようにご自分の花を選んできたのか。そんなお話を聞かせていただきたいと思っております」
澪の胸が静かに高鳴った。
魔女は穏やかな声で付け加えた。
「もちろん、お話ししたくないことまで語る必要はありません。秘密を持っていることも花人の魅力のひとつですから」
ダリアの女性が喉の奥で楽しそうに笑った。
「それを聞いて安心したわ。私、秘密だらけですもの」
「まあ、ダリアさん。今夜も恐ろしいことをおっしゃいますね」
魔女が返すと円卓にまた笑い声が広がった。
澪もつられて微笑む。
この夜会には不思議な親密さがあった。
誰もが互いを知っているわけではない。 過去も、職業も、普段の暮らしも違う。
けれど、自分の花としてここにいるというだけで、どこか深いところで通じ合っているようだった。
魔女は円卓の一角へ視線を向けた。
「それでは、藤さん。今宵は貴女からお願いいたしましょうか」
薄紫のドレスを纏った藤の女性がゆっくりと顔を上げる。
藤の女性はしばらく自分のグラスを見つめていた。
「私、昔はひとりで食事をすることが苦手だったんです」
意外な言葉だった。
澪は顔を上げる。
藤の女性は少し恥ずかしそうに微笑んだ。
「ひとりでレストランに入れなかった、という意味ではありません。誰にも必要とされていない時間がとても怖かったんです」
彼女はグラスの縁を細い指でなぞった。
「誰かに頼られると安心しました。相談されるのも、誘われるのも、お願いされるのも好きでした。自分が必要とされていると思えたからです」
澪は藤の女性の横顔を見つめた。
今夜の彼女はあれほど優雅だった。
誰かに寄りかかる必要など、少しもなさそうに見えた。
「恋人ができると、相手の予定に合わせて生活していました。彼が会いたいと言えば会うし、会えないと言えば待つ。仕事の相談をされれば夜中まで話を聞いて、疲れていても彼の好きな料理を作りました」
藤の女性は静かに笑った。
「尽くすことが愛情だと思っていたんです。もっと正確に言えば、尽くしていれば捨てられないと思っていました」
その言葉に澪の胸がかすかに痛んだ。
藤の女性は続けた。
「ある日、恋人に言われました。君は僕がいないと何もできないね、って」
円卓が静まり返った。
「腹が立ちました。だって、彼が困らないように私がどれだけ動いてきたと思っているのかしら」
藤の女性は薄く微笑む。
「でも、もっと腹が立ったのは彼の言葉が少し当たっていたことなんです」
澪は息を呑んだ。
「私は彼がいなくても生きられました。仕事もしていましたし、お金にも困っていませんでした。でも、彼がいないと自分が何をしたいのか分からなかったんです」
藤の女性の声には、もう恥ずかしさはなかった。
「休日に何を食べたいのか。どこへ行きたいのか。どんな服を着たいのか。そんなことさえ、いつの間にか自分で決めなくなっていました」
彼女は円卓の藤の花を見つめる。
「藤は何かに絡まりながら伸びていきますでしょう。私はそれが自分の弱さに似ていると思っていたんです」
魔女が微笑んだ。
「今は、いかがですか?」
藤の女性は少し考えてから答えた。
「今は、支えがあることと、自分を明け渡すことは違うと思っています」
その声は静かだった。
「藤は何にも触れずに生きる花ではありません。支えとなるものがあって、枝を伸ばし、花房を垂らします。でも、支えそのものが藤の花を咲かせるわけではないでしょう?」
澪は頷いた。
「だから私は、人に頼ることをやめたわけではないんです。今でも誰かと一緒にいたいし、甘えたい日もあります。ただ、誰かのために自分を空っぽにすることはもうしたくない」
藤の女性は楽しそうに笑った。
「最近はひとりで食事をする時間が好きなんですよ。お気に入りのレストランで、誰にも遠慮せず好きなものを注文する。ワインも自分が飲みたいものを選びます」
そして少し悪戯っぽく付け加えた。
「誰かにご馳走していただくのも、相変わらず大好きですけれど」
円卓に笑い声が広がった。
澪も笑った。
その時、藤の女性が澪を見た。
「百合さん。私、先ほどから貴女の姿勢が素敵だと思っていたんです」
「私の?」
「ええ。ご自分の場所にすっと立っていらっしゃるでしょう。私は今でも、誰かが近くにいると少し身体を預けたくなるんです」
澪は驚いた。
「そんな……私は藤さんみたいな優雅さが羨ましくて」
藤の女性は目を丸くした。 それから、声を立てて笑った。
「まあ。私たち、お互いに何をしているのかしら」
その笑い声は藤の花房が風に揺れるように軽やかだった。
澪は思わず自分も笑ってしまった。
自分が羨んでいた女性が、自分の何気ない姿勢を羨ましいと言う。
こんなことがあるのだろうか。
しかし考えてみれば不思議でも何でもなかった。
澪が自分の中にあるものを当たり前だと思うように、藤の女性もまた、自分の優雅さを当たり前のものとして扱っているのかもしれない。
それぞれの花には、それぞれの見えない場所がある。
澪は初めてそのことを実感した。
次に魔女が声をかけたのは蓮の女性だった。
彼女は円卓の上に浮かぶ蓮を見つめていた。
蝋燭の光が水面に揺れ、その横顔に淡い陰影を落としている。
「私は、昔から静かな人間だったわけではありません」
その声は先ほど澪に挨拶してくれた時と同じように、低く柔らかかった。
「むしろ、いつも腹を立てていました」
澪は思わず顔を上げた。
蓮の女性は小さく微笑む。
「意外でしょう?」
「……少し」
澪が正直に答えると、蓮の女性は楽しそうに笑った。
「よく言われます」
そして静かに話し始める。
「私の家は、あまり穏やかな場所ではありませんでした。何かあるたびに誰かが怒鳴り、誰かが泣き、誰かが黙り込む。家族なのにお互いを傷つけることばかり上手になっていくんです」
蓮の女性はゆっくりと言葉を選んだ。
「子どもの頃は、早く大人になりたいと思っていました。大人になればきっと自由になれる。自分の家を持って、自分の好きなものを選んで、誰にも怒鳴られずに暮らせると思っていたんです」
澪は黙って聞いていた。
「実際に家を出た時は本当に嬉しかったです。静かな部屋でひとり眠れることが、あんなに贅沢なことだとは知りませんでした」
彼女は少しだけ目を伏せた。
「でも、家を出ても私の中はずっと騒がしかった」
その言葉が澪の胸に残った。
「誰かが少し不機嫌になると、私が何かしたのではないかと思う。返事が遅いと嫌われたのではないかと思う。誰かの大きな声を聞くと、もうその場にいないはずなのに、昔の家へ戻ったような気がする」
蓮の女性は水面を見つめた。
「いちばん嫌だったのは、自分も同じように怒る人間になっていたことでした」
彼女は小さく息を吐いた。
「私はあんな大人にはならないと思っていたのに、気づけば誰かを責めている。心の中でひどいことを考えている。相手が傷つけばいいと思うことさえありました」
澪は思わず彼女の手元を見た。
白く長い指。 落ち着いた仕草。 あれほど神聖に見えた女性の中にも、そんな怒りがあったのだ。
「それで私は、自分を清らかな人間にしようとしたんです。怒らない。憎まない。妬まない。いつも穏やかでいる。そんな女性になれたら、もう誰も傷つけずに済むと思いました」
蓮の女性は少し苦く笑う。
「けれど、無理でした」
その声はとても正直だった。
「嫌いな人は嫌いですし、腹の立つことは腹が立つ。許せないこともあります。どれほど綺麗な言葉を覚えても、私の中からそういう感情は消えませんでした」
魔女が静かに尋ねた。
「それで、どうなさったのですか?」
蓮の女性は顔を上げた。
「諦めたんです。清らかな人間になることを」
澪は息を呑んだ。 しかし蓮の女性はどこか楽しそうだった。
「私は自分の中に泥があることを認めました。怒りも、嫉妬も、恨みもある。そんな自分を、もう清らかではないと責めることをやめたんです」
彼女は円卓の蓮に視線を落とした。
「蓮は泥の中に根を張ります。でも花まで泥に沈めたままにはしない」
澪は静かに頷いた。
「私はずっと、泥をなくそうとしていたんです。でもなくならなかった。だったら、泥があっても咲けばいいじゃないかと思いました」
蓮の女性は澪を見た。
その眼差しは穏やかだったが、どこか鋭さもあった。
「今でも怒りますよ。許さない人もいます。二度と会いたくない人だっています」
澪は思わず小さく笑った。
「そうなんですね」
「ええ。しかも案外たくさんいます」
蓮の女性も笑った。 そして、その笑みを少し深くした。
「ただ、その人たちのことで私の人生を埋め尽くしたくないんです」
澪は言葉を失った。
「怒りが消えなくても、好きな音楽は聴けます。憎い人がいても、美味しいものは美味しい。過去を許せなくても、今夜こうして皆様と夜会を楽しむことはできます」
蓮の女性はゆっくりとグラスを持ち上げた。
「私の人生には泥があります。でも泥だけではないんです」
その言葉を聞いた瞬間、澪の胸が震えた。
泥だけではない。
菫が言った言葉を思い出した。
終わった恋だけでできている女性では、もういたくない。
それぞれが違う地獄を通ってきた。 けれど、どこかで同じものに触れている。
ひとつの痛みだけで自分の人生を決めないこと。
自分の中にある暗さをなかったことにしないこと。
澪は蓮の女性の横顔を見た。
神聖な女性。 清らかな女性。 そう思っていた。 しかし彼女の穏やかさは、清らかさから生まれたものではなかった。
怒りを知らないから静かなのではない。
怒りを知っていて、それでも自分の夜を楽しもうとしている。 その姿は、先ほどよりもずっと魅惑的に見えた。
澪は蓮の女性に小さく言った。
「私、蓮さんは何にも動じない方だと思っていました」
蓮の女性は楽しそうに微笑んだ。
「そんなわけありません。今でも、しょっちゅう心の中で大騒ぎしていますよ」
「そうなんですか?」
「ええ。ただ、顔に出さないのが上手になっただけです」
その言葉に澪は声を立てて笑った。
蓮の女性も微笑んだ。 そして少しだけ声を落とす。
「百合さん。静かな花にもいろいろありますね」
澪はもう一度彼女を見つめた。
清らかに見えた蓮の女性。 白く静かな百合の自分。
どちらも外側から見ただけでは分からないものを抱えている。
澪はそのことを少し嬉しく思った。
「さて」
ダリアの女性がゆっくりとグラスを置いた。
「次は私かしら」
その声にはどこか楽しそうな響きがあった。
魔女が微笑んだ。
「お願いできますか?」
「ええ。ただ、あまり上品なお話にはならないと思うわ」
ダリアの女性は赤い唇を指先で軽く押さえた。
「私、昔は本当に嫌な女だったの」
藤の女性がすかさず笑った。
「昔は、ですか?」
円卓に笑い声が広がった。
ダリアの女性は悪戯っぽく目を細めた。
「まあ。失礼ね。今はもっと嫌な女かもしれないわ」
澪も思わず笑った。
しかしダリアの女性が次に口を開いた時、その場の空気が少し変わった。
「私はね、誰かに勝ちたかったの」
その声は低く静かだった。
「何をしていても、いつも誰かに勝ちたかった。仕事でも、恋愛でも、容姿でも。自分より魅力的な女性を見ると、本当に腹が立ったわ」
澪の胸がかすかに痛んだ。 今夜の自分に似ている。
「誰かが褒められていると面白くなかったし、自分より目立っている女性を見ると欠点を探したくなった」
ダリアの女性はためらわずに続けた。
「ひどいでしょう?」
誰も答えなかった。
「でもね、それが私だったの」
彼女はグラスの中の赤い液体を揺らした。
「一番になりたかった。誰よりも美しくありたかった。男性にも女性にも、私を見てほしかった。誰かの記憶に残りたかった」
澪はダリアの女性の顔を見つめた。
あれほど堂々とした女性が、そんなふうに語ることが意外だった。
「それなのに、私は自分の欲望を認められなかったの。人と比べるなんて醜い、嫉妬するなんてみっともない、目立ちたがるなんて下品だと思っていたから」
ダリアの女性は皮肉っぽく笑う。
「だから必死に隠していたわ。私は別に興味ありません、という顔をして」
澪は思わず俯いた。 自分のことを言われているようだった。
他の花人が羨ましい。 自分もあんなふうになりたい。 そう感じているのに、そんな自分を恥ずかしいと思っていた。
ダリアの女性は続けた。
「ある時、私より若くて、才能もあって、華やかな女性が職場に入ってきたの」
彼女は遠い記憶を眺めるように目を細めた。
「本当に素敵な女性だったわ。仕事もできたし、人を惹きつける魅力もあった。私だって、彼女のことを素晴らしいと思っていたの」
ダリアの女性は少し笑った。
「でも、嫌いだった」
その言葉はあまりにも率直だった。
「彼女が褒められるたびに苦しかった。彼女が楽しそうに笑っていると腹が立った。男性たちが彼女の周りに集まるのを見ると、惨めになった」
澪は息を詰めた。
「それでも表面上は仲良くしていたわ。彼女も私を慕ってくれていたと思う。だから余計に自分が嫌になったの」
ダリアの女性は、しばらく黙った。
「ある日、彼女に言われたの」
誰も口を挟まなかった。
「貴女みたいになりたい、って」
澪は目を見開いた。
ダリアの女性は少しだけ視線を落とした。
「彼女は私の仕事ぶりに憧れていたそうよ。堂々と意見を言えるところが好きだって。自分も、いつかあんなふうに仕事ができるようになりたいって」
彼女は小さく笑った。
「笑ってしまったわ。私は彼女の若さも才能も華やかさも羨んでいたのに、彼女は私の中に、自分にはないものを見つけていたの」
澪は藤の女性の言葉を思い出した。
私たち、お互いに何をしているのかしら。
同じことがまた起きていた。
しかし、ダリアの女性の話はそこで終わらなかった。
「その時、私は自分が恥ずかしくなったの。彼女にではなく、自分の欲望に対してずっと卑怯だったことが」
ダリアの女性はゆっくりと顔を上げた。
「私は目立ちたかった。華やかでいたかった。誰かに憧れられるような女性になりたかった。なのに、そんな欲望を持つ自分を嫌って、他人を羨むことで誤魔化していたの」
魔女は静かに微笑んでいた。
ダリアの女性は続ける。
「だから、もう隠すのをやめたわ」
「隠すのを?」
澪が思わず尋ねた。
「ええ。私は目立ちたいし、魅了したいし、誰かの記憶に残りたい。そういう欲望がある女なの。それなら、堂々とそう生きればいいじゃない?」
ダリアの女性は深いボルドーのドレスを軽く広げてみせた。
「この色も、この唇も、この髪も、全部私が好きで選んでいるの。誰かに勝つためじゃない。私自身がこの姿にうっとりするためよ」
澪はその姿に見惚れた。
なんという凄みだろう。
自分の欲望を恥じない女性。 自分の中の嫉妬や攻撃性を知っている女性。
しかし、それを他人へ向ける代わりに、自分の魅力を磨くことへ使ってきた女性。
ダリアの女性は澪を見た。
「百合さん。貴女、今夜私たちを羨んでいたでしょう?」
澪の心臓が跳ねた。
「え……」
「分かるわよ。だって私もずっとそうだったもの」
ダリアの女性は楽しそうに微笑んだ。
澪は少し迷ってから頷いた。
「……はい」
「何が羨ましかった?」
「皆さん本当に魅惑的で。自分の魅力を知っているように見えて……」
「それで?」
「私には、あんな華やかさがないと思いました」
ダリアの女性は少しだけ目を細めた。
「華やかになりたいの?」
澪は言葉に詰まった。
なりたい。 そう答えかけて、少し考えた。
本当にそうだろうか。
薔薇のようなドレスを着たいのだろうか。
ダリアのような濃い色の唇になりたいのだろうか。
蘭のような妖しさを纏いたいのだろうか。
想像してみる。 どれも素敵だった。 けれど、その姿になった自分を思い浮かべると何かが違う気がした。
自分が本当にうっとりする姿とは少し違う。
澪はゆっくり答えた。
「……分かりません」
ダリアの女性は笑った。
「いい答えね」
「いい答え、ですか?」
「ええ。分からないならまだ決めなくていいのよ」
ダリアの女性は澪の白いドレスを見つめた。
「私、この白を選べないもの」
澪は驚いた。
「どうしてですか?」
「似合わないからじゃないわ。私がうっとりしないの」
ダリアの女性はくすりと笑った。
「この白を着ても、私は落ち着かないと思う。もっと濃い色が欲しくなる。もっと影が欲しくなる。もっと毒を感じたい」
そう言って自分の唇を指先でなぞった。
「でも、貴女はその白を選んだのでしょう?」
澪は頷いた。
「はい」
「だったら、その白に貴女の欲望があるんじゃない?」
その言葉が澪の胸に深く入った。
白に、私の欲望がある。
今まで澪は、白を静かな色だと思っていた。
祈りの色。 受け止める色。 誰かの痛みを置くための余白。 けれど、欲望という言葉とは結びつけたことがなかった。
白はただ優しくて清らかな色ではないのだろうか。
ダリアの女性は澪の表情を見て微笑んだ。
「百合さん。貴女はその白で何を誘惑したいのかしら」
澪は答えられなかった。
白で、何を誘惑したいのか。
その問いは今夜のどんな言葉よりも、澪の胸を激しく揺さぶった。
夜会の第二幕が終わる頃、澪はひとり温室の外へ出た。
夜風が火照った頬を冷ましていく。
花園には相変わらず濃密な香りが漂っていた。
薔薇。 蘭。 藤。 蓮。 ダリア。
それぞれの女性たちの声がまだ耳に残っている。
藤の女性は必要とされることで自分の価値を確かめようとしていた。
蓮の女性は自分の中の怒りを消そうとしていた。
ダリアの女性は華やかでありたいという欲望を隠しながら、他の女性を羨んでいた。
誰も最初から今の姿だったわけではない。
誰も生まれた時から自分の花を愛せていたわけではない。
澪は夜空を見上げた。
先ほどまで、自分はあの女性たちの完成された姿ばかりを見ていた。
けれど藤の女性は今も誰かに甘えたくなると言った。
蓮の女性は今でも怒りを抱えていると言った。
ダリアの女性は今も目立ちたい欲望を持っている。
彼女たちは弱さを捨てて魅惑的になったわけではない。
弱さも、欲望も、毒も持ったまま、自分の花として生きている。
澪は自分の白いドレスを見下ろした。
それなら。
私の百合にも、まだ知らないものがあるのかもしれない。
白い百合。 清らかで、静かで、祈りのような花。
今まで、澪はそう思ってきた。
魔女から白百合だと告げられた日から、その白さを大切にしてきた。
しかし、白百合は本当に清らかで優しいだけの花なのだろうか。
澪はダリアの女性の言葉を思い出した。
――貴女は、その白で何を誘惑したいのかしら。
誘惑。
その言葉に澪は少し戸惑っていた。
誰かを救うのではない。 誰かに選ばれるためでもない。 自分の花として咲く。
それは何度も学んできたことだった。
けれど花人とは本来、誘惑し、魅了する存在だったはずだ。
澪はそのことを思い出した。
私は、誰を魅了したいのだろう。
どんな世界を引き寄せたいのだろう。
そして私は、何にうっとりしたいのだろう。
その問いを考えていると背後から声がした。
「澪さん」
振り返ると魔女が立っていた。
黒いドレスが夜に溶け込み、赤い唇だけが鮮やかに浮かび上がっている。
「お疲れになりましたか?」
澪は少し笑った。
「いいえ。なんだか、胸がいっぱいで」
「それはよかった」
魔女は澪の隣に立った。
「素敵な花人さんたちでした」
澪が言うと魔女は頷いた。
「ええ」
「私、皆さんのことを羨ましいと思っていました。けれどお話を聞いて少し変わりました」
「どのように?」
澪はゆっくりと言葉を選んだ。
「皆さん、私にはないものを持っていると思っていました。でもきっと皆さんも、ご自分にないものを見つめてきたんですよね」
魔女は微笑んだ。
「ええ」
「それに、皆さんが持っている魅力は、ただ羨ましいと思って真似すれば手に入るものではないんだと思いました」
魔女は静かに澪を見つめた。
澪は続ける。
「藤さんの優雅さも、蓮さんの神秘性も、ダリアさんの凄みも、その方たちの人生と切り離せないものなんですね」
「その通りです」
魔女は頷いた。
「花の色や香りは、その花が生きてきた時間と無関係ではありません」
澪は夜の花園を見渡した。
「私にも、私の人生があります」
「ええ」
「選ばれなかったことも、傷ついたことも、誰かを羨んだことも。全部、私の中にあります」
魔女は黙って聞いていた。
「それなら私の百合にも、私にしか持てないものがあるのでしょうか」
魔女は少しだけ微笑みを深くした。
「もちろんです」
そして澪の白いドレスへ視線を向けた。
「しかし澪さん。私は今夜、ひとつ気になっていることがあります」
「何でしょうか?」
「貴女は、ご自分の百合をずいぶん清らかな花だと思っていらっしゃるようですね」
澪は驚いた。
「違うんですか?」
魔女は答えず、花園の奥へ視線を向けた。
そこには白い百合が数輪咲いていた。
大きく開いた花弁。 長く伸びた雄しべ。 黄金色の花粉。 夜の中でその白は驚くほど鮮やかだった。
魔女は静かに言った。
「百合は、決しておとなしい花ではありませんよ」
澪は百合を見つめた。
「おとなしくない……?」
「ええ。ご覧なさい」
魔女は白い百合へ近づいた。
「その大きく開いた花弁も、濃厚な香りも、すべては何のためにあるのでしょう」
澪はゆっくり答えた。
「送粉者を……引き寄せるためです」
魔女は微笑んだ。
「そうです」
そして百合の花弁に触れない距離で手を止めた。
「百合は清らかに見えるからといって、欲望を持たない花ではありません」
澪は息を呑んだ。
「花は清らかであるために咲いているのではありません。自分の生命を生きるために咲いているのです」
その言葉は澪の胸に深く響いた。
自分の生命を生きるために咲く。
清らかであるためではない。 誰かに優しいと思われるためでもない。
魔女は続けた。
「澪さん。貴女はこれまで、百合の白さを大切にしてこられました。それは素晴らしいことです」
「はい」
「しかし白さばかりを愛でているうちに、百合が持つ別の顔を忘れてはいらっしゃいませんか?」
澪は百合を見つめた。
別の顔。 大きく開いた花弁。 濃密な香り。 長く伸びる雄しべ。 黄金色の花粉。
その姿は今まで自分が思い描いてきた、祈りのように静かな百合とは少し違っていた。
もっと生々しく、もっと大胆で、どこか官能的だった。
澪は初めてそのことに気づいた。
魔女は静かに微笑む。
「百合もまた、誘惑する花です」
夜風が吹いた。
白い百合が、ゆっくりと揺れた。 その香りが、澪の胸元を通り過ぎていく。
澪は目を閉じた。 自分の中にまだ知らない百合がいる。
それは清らかで、静かなだけの花ではないのかもしれない。
欲望を持ち、官能を持ち、誰かを魅了したいと願う花。
その存在に気づいた途端、澪の胸の奥が熱くなった。
魔女はそんな澪を見つめていた。
そして最後に静かに告げた。
「次は、貴女の百合が持つ毒についてお話しいたしましょう」
澪は目を開いた。
「百合の……毒?」
魔女は微笑んだ。
その微笑みは、今夜見たどの花よりも甘く、そして妖しかった。
「ええ。百合は、ただ清らかなだけの花ではありません」
魔女は月明かりの中の百合を見つめる。
「貴女の白には、まだ貴女ご自身も知らない魔性が眠っているのす」
澪の胸が大きく鳴った。
自分の百合に、毒がある。
その事実はなぜか怖いだけではなかった。 むしろ、澪は少しだけ胸が躍るのを感じていた。
ずっと静かで、清らかで、祈りのような花だと思っていた百合。
その花にも官能と毒がある。
澪は夜の中で咲く白い百合を見つめた。
花弁の奥から濃密な香りが立ち上っている。
その香りは今夜初めて、澪自身を誘惑しているようだった。
第三話では、藤・蓮・ダリアの女性たちの過去が明かされました。
澪が羨ましいと感じていた優雅さ、神秘性、凄み。
それらは最初から三人に備わっていた完成された魅力ではありません。
彼女たちは弱さや醜さをなくして花人になったわけではありません。
自分の中にあるものを知り、それをどう生かしていくのか、自分の美意識で選ぶようになったのです。
また、澪はこれまで百合の白を清らかさや静けさ、祈りと結びつけてきました。
しかし花人は清く正しい存在を目指しているわけではありません。
花は清く正しくなくても美しい。
そして何より、花は送粉者を誘惑し魅了する存在です。
白百合も例外ではありません。
次回は、澪が自分の百合に秘められた官能と毒を知る物語です。
次回 Season5 第4話「百合の毒」
どうぞお楽しみに。

アーカイブ配信 10月30日(金)〜11月15日(日)
セミナー料金 ¥10,000-
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