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澪は白い封筒を机の上に置いたまま、何度も見つめていた。
秘密の花園で魔女から手渡された、次の季節への招待状。
封筒はただ白いだけではなかった。
月明かりを薄く閉じ込めたような白。
百合の花弁の裏側のような白。
何も書かれていないはずなのに、そこに触れるたび、どこか遠くの花の香りが指先へ移る気がした。
澪はそっと封筒を開けた。
中には深い夜色のカードが一枚入っている。
金色の文字。
――花人夜会
その四文字を見るたびに、澪の胸は静かに鳴った。
花人夜会。
それは澪が一度だけ訪れた夜。
まだ自分が花人として目覚めたばかりだった頃。
あの夜、澪は秘密の花園に集う女性たちを見た。
薔薇の女性。椿の女性。蘭の女性。芍薬の女性。
それぞれがそれぞれの地獄をくぐり、それでも自分の花として立っていた。
二番目に置かれた薔薇の女性。
壊れた家庭を出た椿の女性。
普通になれなかった蘭の女性。
優しすぎて、自分の蜜を流しすぎていた芍薬の女性。
あの時、澪はただ圧倒されていた。
自分はまだ何も知らないと思った。
花人という世界の入口にようやく立ったばかりだった。
けれど今。
澪はもう、あの頃の澪ではない。
花として目覚めた。自分の蜜を知った。
香りを薄めずに放つことを学んだ。
そして、菫という女性が秘密の花園へ来る入口にもなった。
菫は終わった恋を抱えていた。
自分を失敗と呼んでいた。
けれど今、菫は少しずつ自分の中の椿を思い出し始めている。
その姿を見届けた澪は、誰かの入口になるとは救うことではないのだと知った。
ただ自分の花として咲くこと。
その香りが誰かに門の存在を知らせることがある。
それだけなのだと。
なのに。
花人夜会のカードを見ていると、澪の胸にはまた別の不安が生まれていた。
私はあの夜会へ行っていいのだろうか。
もう一度、あの場所へ立っていいのだろうか。
自分は少しは変わったはずなのに、なぜか心の奥がざわつく。
澪はカードの金色の文字をなぞった。
花人夜会
そこにはきっとまた多くの花人たちが集まる。
その中に、自分も立つ。百合として。
そう思った瞬間、澪は少しだけ息が浅くなった。
百合。自分の花。白く、静かで、祈りのような花。
魔女にそう告げられた日、澪は自分の中に初めて花の名を持った。
佐伯に選ばれなかった自分。
人生が終わったと思った自分。
誰かの一番になれなかった自分。
そんな自分の奥に白い百合が眠っていたのだと知った。
けれど華やかな花々の中へ行くと思うと、その白さが急に頼りなく感じられた。
薔薇のような圧倒的な華やかさはない。
蘭のような妖しさもない。
芍薬のような豊かさもない。
椿のような潔い赤もない。
百合はただ白い。
静かで、まっすぐで、時々何も持っていないように見える。
澪は自分でそこまで考えてはっとした。
また比べている。
自分の花を知ったはずなのに。
百合として咲くと決めたはずなのに。
それでも、別の花の前に立つと自分の花が小さく見える。
澪は花人手帖を開いた。
そして書いた。
――私は、また比べようとしている。
その一文を書いた途端、胸が少し痛んだ。
比べることは昔から澪の中にあった。
同僚と比べる。友人と比べる。
既婚の女性と比べる。子どもを持つ女性と比べる。
恋人がいる人と比べる。選ばれた人と比べる。
愛されているように見える人と比べる。
そして今度は、花人同士で比べようとしている。
薔薇と百合を比べる。
蘭と百合を比べる。
椿と百合を比べる。
本当は比べられるものではないはずなのに。
澪はペンを握ったまましばらく動けなかった。
花人として生きるということは、もう二度と揺れないことではない。
きっと何度も揺れる。
そのたびに自分の花へ戻ることなのかもしれない。
けれど今の澪には、その戻り方がまだ分からなかった。
花人夜会の招待状を受け取ってから、部屋に飾る花を選びたくなった。
百合を買うつもりだった。自分の花を思い出すために。
自分の白をもう一度部屋に置くために。
けれど花屋に入った瞬間、澪の目は別の花々へ奪われた。
深紅の薔薇。艶やかな蘭。ふくよかな芍薬。紫の藤。深い赤のダリア。
淡い蓮の花の写真が添えられたカード。
花屋の中はまるで小さな夜会のようだった。
それぞれの花がそれぞれの美しさを放っている。
自分を隠そうとしない花々。
ここにいる、と世界へ告げる花々。
澪は思わず立ち止まった。
美しい。そう思った。
そして同時に、自分の胸の奥が少し縮むのを感じた。
私の花はどこにあるのだろう。
そう思ってから白い百合を見つけた。
店の奥。
派手な花々の隣ではなく、少しだけ離れた場所に白い百合があった。
蕾のもの。半分開いたもの。
すでに大きく咲いているもの。
白い花弁は光を受けて静かに艶めいている。
香りはまだ控えめだった。
澪は百合の前に立った。
美しい。
美しいはずなのに、今日の澪にはその白がどこか寂しく見えた。
色がない。派手さがない。強く主張していない。
他の花たちの中に置かれると、すっと背景へ下がってしまうように見える。
澪はそんなことを考えて自分で自分に驚いた。
あんなに大切にしてきた百合を今、自分は寂しいと思っている。
それは百合への裏切りのように感じた。
「白石さん」
背後から声がした。
振り返ると朝倉律が立っていた。
黒に近い紺色のシャツ。整ったジャケット。
手には小さな革の手帳と、紙の見本らしきものを持っている。
花屋で初めて会った時と同じように、朝倉は花の中に自然に立っていた。
「朝倉さん」
澪は少し驚いた。
「また、こちらへ?」
「はい。打ち合わせで近くまで来たので。少し花を見たくなって」
朝倉は澪の前にある百合を見た。
「白い百合ですね」
澪は曖昧に頷いた。
「買おうと思って」
「似合いますね」
その一言に澪の胸が少し揺れた。
嬉しい。
けれど、今日の澪には素直に受け取れなかった。
似合う。それはいいことなのだろうか。
百合が似合うということは、私はやっぱり白くて静かなだけなのだろうか。
そんなふうに考えてしまう自分が嫌だった。
朝倉は少し澪の表情を見てから言った。
「今日は迷っているように見えます」
澪は驚いた。
「分かりますか」
「少しだけ」
朝倉は花を見ながら言った。
「白い花を見ているのに、別の色のことを考えているような顔でした」
澪は言葉に詰まった。まさにその通りだった。
薔薇の赤。蘭の紫。ダリアの深い色。
そういう色のことを考えていた。
自分にはないもの。自分の花にはないもの。
澪は笑った。
「朝倉さんは、本当に細かいところを見ますね」
「仕事柄かもしれません」
朝倉は百合の花弁に触れない距離で手を止めた。
「白は難しいです」
澪は顔を上げた。
「難しい?」
「はい。白は何もない色に見えることがあります。でも本当は、いちばんごまかしがきかない」
その言葉は以前にも聞いたことがある気がした。
初めて花屋で出会った日、朝倉は白い花について言った。
何もない色に見えるのに、いちばん誤魔化しがきかない。
余白があるほど強く見える気がします。
澪はその言葉を思い出した。
あの時はただ不思議な人だと思った。けれど今は、その言葉が胸の奥に触れる。
白は何もないのではない。
ごまかしがきかない。
朝倉は続けた。
「派手な色は目を引きます。でも白は、近づかないと分からないことがあります」
「近づかないと……」
「はい。紙も同じです。白い紙は何もしていないように見えて、質感や厚みや光の受け方で印象がまるで変わります」
朝倉は手に持っていた紙の束を少し持ち上げた。
「白は空白ではなくて、受け止める場所なんだと思います」
澪はその言葉を聞いて黙った。
白は空白ではない。受け止める場所。
百合の白。自分の白。
何もないのではなく、何かを受け止めるための白。
誰かの痛み。夜の静けさ。祈り。沈黙。
言葉にならないもの。
もしかすると自分の百合は、派手に人を呼ぶ花ではないのかもしれない。
けれど、近づいた人の痛みを静かに受け止める白なのかもしれない。
そう思った瞬間、澪の胸が少しだけほどけた。
朝倉は澪の様子を見て言った。
「すみません。つい仕事の話みたいになりました」
澪は首を横に振った。
「いいえ。今、必要な言葉だった気がします」
朝倉は目を細めた。
「それならよかった」
澪は百合を見た。
さっきまで寂しく見えていた白が少しだけ違って見える。
まだ完全には戻れない。
けれど、百合の白をすぐに「何もない」と決めつけなくてもいいと思えた。
澪は蕾の多い百合を選んだ。
まだ全部は咲いていないもの。
これから少しずつ開いていくもの。
店員がそれを包んでいる間、朝倉が言った。
「どこか大事な場所へ行くんですか?」
澪は驚いて朝倉を見た。
「どうしてですか?」
「花の選び方が儀式みたいだったので」
澪は少し笑った。
「儀式……そうかもしれません」
花人夜会。秘密の花園。
自分の花を問われる夜。
朝倉にすべてを話すわけにはいかない。
けれど、少しだけなら言える気がした。
「今度、自分の花をもう一度確かめるような場所へ行くんです」
朝倉は問い返さなかった。ただ静かに頷いた。
「白石さんらしいですね」
「そうですか?」
「はい。白石さんは何かを始める時に、言葉だけじゃなくて花や香りや紙みたいなものを必要とする人のように見えます」
澪はその言葉に少し照れた。
「そんなふうに見えますか?」
「見えます」
朝倉は笑った。
「きっと、その方が白石さんの言葉が迷わないんでしょうね」
澪は包まれた百合を受け取った。
百合の蕾が薄い紙の中で静かに眠っている。
澪はそれを胸に抱いた。
迷わない言葉。
自分の花として立つ言葉。
それを持って、夜会へ行けるだろうか。
まだ分からない。
しかし、百合を持つ手に少しだけ力が戻っていた。
透明な花瓶に水を入れ、茎を少し切り、窓辺へ置く。
白い蕾はまだ固く閉じている。
すぐには咲かない。でも確かに中に花を抱えている。
澪はその姿を見て、自分の中にもまだ開いていないものがあるのだと思った。
花人手帖を開く。
朝倉の言葉を書き留める。
――白は空白ではなく、受け止める場所。
その下に自分の言葉で書いた。
――百合の白は何もない白ではない。
――祈りを受け止める白。
――沈黙を受け止める白。
――言葉にならない痛みをそっと置ける白。
そこまで書いて澪はペンを止めた。
少しだけ、百合を取り戻せた気がした。
けれどまだ怖さは残っている。
花人夜会へ行けば、きっとまた比べてしまう。
美しい花人たちを前にして、自分の白を見失う瞬間が来るかもしれない。
それでも招待状は届いた。
次の季節へ進む時が来たのだ。
澪は夜色のカードを手帖の横に置いた。
花人夜会。
その文字は今夜も静かに光っている。
すると、カードの金色の文字の奥から、かすかに花の香りが立ち上った気がした。
澪は目を閉じた。さまざまな花の香りがする。
華やかで、濃くて、甘くて、時に毒を含む香り。
その中で、自分の百合の香りはちゃんと立っていられるだろうか。
不安が胸をかすめる。
その時、窓辺の百合がふっと香った。
まだ蕾なのに。
ほんの一瞬だけ、白い香りが部屋の中を通った。
澪は目を開けた。
百合は静かにそこにある。
誰かを真似ることもなく。急いで咲くこともなく。
自分の時を待っている。
澪は花人手帖に今日の最後の一文を書いた。
――私はまだ、他の花の美しさに揺れる。
――けれど、百合は百合の時を知っている。
書き終えると胸の奥が落ち着いた。
夜会の日は近い。
澪は招待状をそっと閉じる。
その夜、夢を見た。
秘密の花園の門が開いている。
いつもより多くの灯りが花園の奥に揺れている。
遠くから笑い声が聞こえる。
低く甘い声。鈴のような声。静かな声。どこか妖しい声。
花々の香りが夜の中で渦を巻いている。
澪は白い百合を胸に抱いて立っている。
その先に大きな扉があった。
扉の向こうから魔女の声がする。
「澪さん。夜会では、すべての花が問われます」
澪は扉の前で息を呑んだ。
「私の百合も、ですか?」
魔女の声が静かに答えた。
「ええ。百合が百合として立てるかどうかを」
夢の中で澪の手の中の百合が震えた。
扉がゆっくりと開き始める。
その向こうには、見たこともないほど多くの花が咲いていた。
薔薇の赤。蘭の紫。芍薬の淡い桃。椿の深紅。藤の紫。蓮の白と薄紅。ダリアの闇を含んだ色。
それらの中で、澪の百合はひときわ静かだった。
静かすぎて消えてしまいそうだった。
澪は目を覚ました。
部屋はまだ暗い。
窓辺の百合は眠るように立っている。
けれど胸の奥には、夢の余韻が残っていた。
すべての花が問われる夜。
百合が百合として立てるかどうか。
澪は深く息を吸った。
そして花人手帖を開き、震える手で書いた。
――花人夜会。
――比較という毒が、私の白に忍び寄っている。
書いたあと、澪は窓辺の百合を見た。
蕾はまだ閉じているが、ほんの少しだけ先端が緩んでいるように見えた。
夜会はもうすぐ始まる。
Season5「花人夜会」が始まりました。
Season4で澪は菫という女性の入口になりました。
自分の香りが誰かを秘密の花園の門へ導くことがある。
その美しさと怖さを知りました。
そしてSeason5では、澪自身がもう一度自分の花を問われる季節へ入っていきます。
今回のテーマは比較です。
澪は自分の花が百合であることを知っています。
百合として生きることを何度も選んできました。
けれど、さまざまな花人たちが集まる夜会を前にすると、自分の百合が急に頼りなく見えてしまいます。
Season5はここから、花人夜会の中でさらに深まっていきます。
澪は美しい花人たちの中で揺れます。比較します。自分の白を疑います。
けれどその先で、百合が百合として立つことの美しさを知っていきます。
夜会はもうすぐ始まります。
次回、第二話。
「夜会の扉」
どうぞお楽しみに。
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