真島あみオフィシャルブログ
21世紀的魔女論

シーズン2第1話 次は蜜を育てる時です


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澪はそのカードを何度も読み返していた。

次は、蜜を育てる時です。

魔女から渡された白い封筒の中に入っていた一枚のカード。

そこにはたしかにそう書かれていた。

夜会から帰ってきたあの日、澪は胸の奥に小さな火を灯されたような気持ちでその文字を見つめていた。

百合として咲き始めた自分。

地獄を養分にできると知った自分。

誰かに選ばれなかった痛みを、自分を選ぶ力に変えようとしている自分。

そのすべてが、ようやくひとつの線でつながり始めたような気がしていた。

しかし数日が経つと、澪はだんだん分からなくなってきた。

蜜とは何だろう?

花は咲くだけでは終わらない。

花は蜜を持つことで、この世界に必要なものを誘引する。

カードの裏にはそう書かれていた。

その言葉は美しい。とても美しい。

しかし澪にはまだ、それが自分の人生の中で何を意味するのか分からなかった。

百合の服を選ぶことは少しずつできるようになった。

部屋に花を飾ることも、香りを纏うことも、以前より自然になってきた。

朝、鏡を見る時に昔のようにすぐ目を逸らすことも減った。

白いブラウス
淡いゴールドのピアス
百合の香り
花瓶の水を替える朝

そういう小さな選択によって、澪の日々はたしかに変わっていた。

けれど内側はどうだろう。

自分の中には蜜と呼べるようなものがあるのだろうか。

誰かを惹きつけるほどの豊かさ、誰かに差し出せるほどの愛。

人の心に残るような言葉、花の奥に隠された甘いもの。

そんなものが自分の中に本当にあるのだろうか?

澪は机の上に置いた花人手帖を開いた。

そこには夜会で書いた言葉が残っている。

私は、終わった女ではない。
私は、これから蜜を育てる女である。

その言葉を書いた時は本当にそう思えた。

しかし今改めて見ると少し怖くなる。

蜜を育てる。

その言葉はまるで自分の中身を問われているようだった。

外側を整えることよりもずっと逃げられない。

服は買えるし、香水も選べる。髪も整えられるし、部屋に花も飾れる。

しかし内側の蜜は買えない。誰かに借りることもできない。

自分の中に育てるしかない。

澪はペンを持った。

手帖の新しいページにこう書いてみる。

私の蜜は何ですか

書いた瞬間胸がざわついた。

分からない。何も浮かばない。

澪はペンを置いた。

窓辺の百合は白く咲いていた。

その姿は、澪よりもよほど自分の役目を知っているように見えた。

花は迷わない。

咲く、香る、蜜を持つ。
そして必要なものを誘引する。

人間だけがこんなにも迷う。

私は何者なのか。

何を持っているのか。何を差し出せるのか。

何を愛しているのか。何を美しいと思うのか。

澪は小さくため息をついた。

その夜、彼女は夢を見た。

白い百合が硝子の器の中に咲いている夢だった。

花びらは美しい。茎もすっと伸びている。

しかし花の奥を覗くと、そこには何もなかった。

蜜がない。

澪は夢の中でその花を見ていた。

そして思った。これは私だ。

咲いているふりをしているだけで内側には何もない。

その瞬間、どこか遠くから魔女の声が聞こえた。

澪さん。
空っぽと眠っていることは違います。

澪は目を覚ました。部屋はまだ暗い。

カーテンの隙間から朝になる前の青い光が入っている。

心臓が少し早く動いていた。

澪は布団の中で魔女の声を思い返す。

空っぽと、眠っていることは違う。

その言葉だけが、朝まで胸の中に残り続けた。

数日後、澪は秘密の花園へ向かった。

昼間の路地は夜会の時とは違って見える。

満月の光に照らされていた石畳は、今日は淡い午後の光を受けている。

黒い鉄の門には白い花がひとつだけ飾られていた。

澪は少し緊張しながら扉を開けた。

からん、と鈴が鳴る。

温室の中にはやわらかな光が満ちていた。夜会の華やかさはない。

その代わり、静かな呼吸のような時間が流れている。

百合、薔薇、蘭、芍薬、椿。

花々はそれぞれの場所で咲いていて、その奥で魔女が紅茶を淹れていた。

今日の魔女は黒ではなく深い菫色のワンピースを着ている。

髪はゆるくまとめられ、耳元には小さな真珠が揺れている。

澪を見ると魔女は微笑んだ。

「いらっしゃいませ、澪さん。」

「こんにちは。」

「今日はカードのことですね。」

澪は驚いた。

「どうして分かるんですか?」

魔女は紅茶をカップに注ぎながら静かに言った。

「花が次の季節へ進む時は、必ず迷いますから。」

澪は用意された椅子に座る。

魔女は澪の前に紅茶を置いた。紅茶の香りの中に蜂蜜の甘さが少し混じっている。

澪は両手でカップを包んだ。

「蜜って、何なんでしょうか?」

その問いは思っていたよりも素直に口から出た。

「外見を整えることは少しずつ分かってきました。百合らしい服を選ぶことも、香りを纏うことも、部屋に花を飾ることも。」

澪は目を伏せた。

「でも蜜となると……自分の中にそんなものがあるのか分からなくなります。」

魔女は澪を急かさなかった。ただ紅茶に小さな匙で蜂蜜を落とす。

金色の蜜が紅茶の中でゆっくり溶けていく。

「蜜とは、貴女の内側に育った豊かさのことです。」

魔女の声は静かだ。

「愛、知性、感性、言葉、祈り、快楽、喜び。誰かを癒す力。誰かを目覚めさせる力。誰かに光を渡す力。そして何より、貴女自身を満たす力。」

澪は黙って聞いていた。

「蜜は外側から貼りつけるものではありません。」

魔女は続ける。

「花の奥で時間をかけて育つものです。雨の日も、光の日も、暗い夜も、すべてを吸い上げながら花は蜜をつくります。」

「地獄も、蜜になるんですか?」

澪が聞くと魔女は頷いた。

「もちろんです。」

その声は少しだけ強かった。

「深い蜜を持つ花ほど、ただ甘いだけではありません。苦みも痛み影も祈りも含んでいます。だからこそ人の心に残るのです。」

澪は紅茶を一口飲んだ。甘い。

けれどただ甘いだけではなかった。

茶葉の渋みがあるからか、蜂蜜の甘さが深くなる。

澪はふと自分の人生を思った。

七年の片思い。佐伯さんの結婚。奥さんの妊娠。何も始まらなかった恋。惨めだと思った夜。

自分の人生はもう遅いのではないかと震えた時間。それらは全部消したいものだった。

なかったことにしたいものだった。

しかし魔女は、それさえも蜜になると言う。

「私には、何もない気がします。」

澪は小さく言った。

「仕事はしています。生活もしています。大人として、ちゃんと生きてはいます。けれど誰かに差し出せるほどのものが、自分の中にある気がしないんです。」

魔女は澪の言葉を受け止めるように少し沈黙した。

それからゆっくり口を開く。

「澪さん、空っぽなのではありません。」

澪は顔を上げた。

「長い間、ご自分の蜜壺に蓋をしていただけです。」

「蜜壺……」

「ええ。」

魔女は微笑んだ。

「私たちはあまりにも長く自分を後回しにしていると、自分が何に心を動かされるのか分からなくなります。何が好きで、何が嫌なのか。何に怒り、何に泣き、何に美しさを感じるのか。それを感じる前に、“正解”や“無難”を選ぶようになる。」

澪の胸に静かに刺さった。

正解。無難。人から変に思われないこと。

澪はずっとそれを選んできた気がした。

職場でも、服でも、恋でも、自分から欲しいと言わない。自分から近づかない。自分から選ばない。

ただ波風を立てずに、誰にも迷惑をかけずに、日々が過ぎるのを待っていた。

「蜜は感情の奥にあります。」

魔女は言った。

「感情を閉じれば蜜壺も閉じます。だからまず、開けなければなりません。」

「どうやって……?」

澪の声は子どものようだった。

魔女は机の上から小さな白いカードを一枚取り出す。

そこには何も書かれていない。

「一週間、記録してください。」

「記録?」

「はい。貴女の心が動いたものを。」

魔女は白いカードを澪に渡した。

「美しいと思ったもの。嫌だと思ったもの。嫉妬したもの。懐かしいと思ったもの。忘れられなかった言葉。胸が温かくなった瞬間。逆に、胸がざわついた瞬間。」

澪はカードを見つめた。

「そんなことでいいんですか?」

「そんなことではありません。」

魔女は穏やかに首を振った。

「蜜は日々の中で育ちます。大きな奇跡の中だけにあるものではありません。朝の光、紅茶の香り、古い本の一文、誰かの声、花びらの形。貴女が心を動かしたものの中に貴女の蜜の種があります。」

澪は少し不安そうに言った。

「何も書けなかったらどうしましょう。」

魔女は澪を見つめる。

「何も書けない日があっても構いません。」

「いいんですか?」

「ええ。何も感じられない日があることにも意味があります。」

魔女は紅茶のカップを持ち上げた。

「ただし、意識的に見ようとしてください。貴女の一日を、貴女自身の目で。誰かにどう見られるかではなく、貴女がどう感じたかで。」

澪はその言葉を胸にしまった。

貴女がどう感じたか。

そんなことを最後に真剣に考えたのはいつだろう。思い出せなかった。

「澪さん。」

魔女が少し声をやわらかくした。

「蜜を育てるとは、自分の内側へ帰ることです。」

澪はゆっくり顔を上げる。

「自分の内側へ……」

「はい。外側を整えた花は、次に内側へ降りていきます。そこには忘れていた喜びも、封じ込めた怒りも、昔好きだったものも、見ないふりをした願いもあります。」

澪の胸が少し苦しくなった。

昔好きだったもの。見ないふりをした願い。そんなものが自分の中にもあるのだろうか。

「怖いです。」

澪は正直に言った。

「自分の中を見て、本当に何もなかったら。」

魔女は微笑んだ。

「何もない女性はここへは来られません。」

その言葉に澪は息を止めた。

「貴女はここへ来ました。夜会で言葉を読みました。地獄を見つめました。百合として咲くことを選びました。」

魔女は澪の前に咲いている白い百合をそっと指差した。

「それだけで、もう貴女の中には蜜の気配があります。」

澪の目の奥がじんと熱くなった。

まだ自信はなかった。

自分の内側に豊かさがあるなんて、すぐには信じられない。

しかし魔女がそう言うと、ほんの少しだけ信じてみたくなった。

秘密の花園を出る頃、空は夕方の色に変わっていた。

街のビルの隙間に淡い橙色の光が差している。

澪は鞄の中の白いカードに何度も触れた。

一週間、自分の心が動いたものを記録する。

ただそれだけの課題。

しかし澪にはそれが、とても難しいことのように思えた。

帰り道、澪はいつもなら通り過ぎる花屋の前で立ち止まる。

店先には白い花が並んでいた。

百合
ラナンキュラス
スイートピー
名前を知らない小さな花

澪はしばらく見ていた。

その中でふと一輪の白いスイートピーに目が止まった。

百合のように強くはない。ひらひらと薄く、風が吹けばすぐに揺れてしまいそうだった。

けれどその儚さのようなものが妙に心に残った。

澪は鞄から花人手帖を取り出す。

店先で立ったまま、少し迷ってからこう書いた。

白いスイートピー。
儚いのになぜか目が離せない。
強く咲く花だけが美しいわけではないのかもしれない。

書いた瞬間、澪は少し恥ずかしくなる。

何を書いているのだろう。

こんなことに意味があるのだろうか。

しかしページの上に並んだ自分の文字を見ていると、胸の奥に小さな灯りがともるような気がした。

これが心が動くということなのかもしれない。

大きな感動ではない。人生が変わるような出来事でもない。

ただ一輪の花の前で、自分の心が少しだけ立ち止まった。

それを見逃さずに書いた。

澪は白いスイートピーを一輪買い、部屋に帰ると百合の隣にそっと挿した。

大きな百合の横でスイートピーは儚げに揺れている。

澪はその姿を見ながら思った。

自分の中にも、こんなふうに小さく揺れているものがあるのかもしれない。

まだ名前もなく、形も弱く、誰かに見せるほどのものではないもの。

でもたしかにそこにあるもの。

その夜、澪は手帖を開いた。

魔女からの課題の一日目。ページの上に、今日の言葉を書く。

私の蜜はまだ分からない。
でも今日、私は白いスイートピーの前で立ち止まった。
それだけは、私の中で本当に起きたことだった。

書き終えると澪は窓辺の花を見た。

百合は静かに咲いている。

スイートピーは、その隣で小さく揺れている。

澪は、ふと夢の中で聞いた魔女の言葉を思い出した。

空っぽと眠っていることは違う。

澪はペンを持ち直し、最後にもう一行だけ書いた。

私は空っぽなのではない。
もしかすると、まだ眠っているだけなのかもしれない。

その一文を書いた時、部屋の空気が少しだけ変わった気がした。

何かが始まったわけではない。まだ何も分からない。

自分の蜜が何なのかも、これからどう生きればいいのかも、澪には分からない。

しかし分からないままでも、今日ひとつだけできた。

自分の心が動いた瞬間を見捨てずにすくい上げた。

それはとても小さなこと。

しかし花が蜜をつくる時も、きっと最初はこんなふうに小さいのだろう。

一滴にも満たないもの。まだ誰にも気づかれないもの。

けれど確かに花の奥で生まれ始めているもの。

澪は灯りを消した。

暗い部屋の中で、白い百合と白いスイートピーが月明かりを受けて淡く浮かんでいた。

眠りに落ちる直前、澪は思った。

明日は何に心が動くだろう。

その問いが少しだけ楽しみだった。


あとがき

Season2のテーマは「蜜」です。

Season1で澪は自分の花を知り、地獄を養分にすることを学びました。

しかし花人として生きる道は外側を整えるだけでは終わりません。

本当の魅力はその人の内側に育った蜜から滲み出ていきます。

何に心を動かされるのか。何を美しいと思うのか。何に傷つき、何に怒り、何を愛しているのか。

そうした感情の奥にその人だけの蜜があります。

もし今、自分の中には何もないように感じる方がいたとしても、それは空っぽなのではなく、長いあいだ蜜壺に蓋をしていただけかもしれません。

貴女の中の蜜は何でしょうか?

それはまだ眠っているだけかもしれません。

次回、第2話 

【空っぽの蜜壺】

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