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匿名の読書ブログを開く時間が少しだけ増えた。
以前は月に一度書くか書かないかだった。
読んだ本の感想、訪れたカフェの記録、雨の日に思ったこと、好きな小説の一文についてほんの少しだけ。
誰かに読んでほしいわけではなかった。
むしろ誰にも見つからないことに安心していた。
けれど完全な日記ではない。鍵のかかった引き出しではなく、世界の片隅にそっと置いた小さな白い箱。
誰にも見つけてほしくないわけではない。でも、簡単に見つかってほしいわけでもない。
そんな曖昧な場所だった。
その場所に澪は初めて自分の内側から生まれた言葉を置いた。
遅れていたのではなく、育っていた。
たった一文。
けれどその一文は澪の中に長く眠っていたものだった。
自分は遅れている。人生の季節に乗り遅れている。
恋も、結婚も、仕事も、何ひとつ形にできていない。
そんな風に自分を責め続けてきた澪が、ようやく自分自身に渡すことができた小さな花束のような言葉だった。
その言葉は誰かに届いた。拍手がひとつ。コメントがひとつ。
そして見知らぬ女性からのメッセージが一通。
大きな反応ではない。世間から見れば何も起きていないに等しい。
けれど澪にとっては、世界の見え方が少し変わる出来事だった。
自分の中にあった痛みが自分の中だけで終わらなかった。誰かの夜にほんの少しだけ触れた。
その事実が、澪の胸の奥で静かに灯り続けていた。
それから澪は、少しずつブログを書くようになった。
毎日ではないが、何かが自分の中で熟した時、ノートに書いた言葉の中から、外へ出してもいいと思えるものをそっと白い箱の中へ置くようになった。
雨の日の百合のこと。
職場で飲むぬるいコーヒーの苦みのこと。
誰かの何気ない言葉に、思った以上に傷ついてしまう自分のこと。
書くたびに澪は少し怖くなる。投稿する前には必ず胸がざわつく。
こんなことを書いていいのだろうか。重いと思われないだろうか。
独りよがりではないだろうか。誰かに笑われないだろうか。
それでも投稿ボタンを押す。
押したあとはすぐに画面を閉じる。通知が来るのは怖い。
けれど何も来ないのも少し寂しい。そんな自分の矛盾に、澪は時々苦笑した。
人は、見られたいのかもしれない。けれど雑には見られたくない。
受け取ってほしい。けれど乱暴には触れてほしくない。
それは花の蜜に少し似ている気がした。
誰にでも投げ渡すものではないけれど、永遠に閉じ込めておくものでもない。
ふさわしい時に、ふさわしい形で、ふさわしい誰かへ渡っていくもの。
澪はそのことを少しずつ学んでいた。
ある日の昼休み、澪は会社近くのカフェにいた。
窓際の席。白いカップに入ったカフェラテ。
鞄の中には花人手帖と読みかけの文庫本。
最近の澪は、昼休みに同僚たちと毎回一緒に過ごすことをやめていた。
嫌いになったわけではないけれど、自分の中の声を聞く時間がほしかった。
誰かの話に相槌を打ち続けていると、自分が何を感じていたのか分からなくなることがある。
以前の澪はそれでも笑って座っていた。
誘われたら断れない。断る理由もない。ひとりでいたら寂しい人に見えるかもしれない。
そんな理由で、本当は休みたかった心を何度も人の輪の中へ連れて行った。
けれど今は少し違う。
自分の時間を選ぶことは誰かを拒絶することではない。
自分の花に水をやることなのだと、澪は思えるようになっていた。
カフェの窓の外では、風が街路樹を揺らしている。
澪は花人手帖を開き、前の日に書いた言葉を読み返した。
私の中にも、誰かに届く蜜がある。
その下にもう一行。
ならば次は、私の香りを薄めずに生きてみたい。
その一文を見た時、澪は戸惑った。
自分で書いたのにその意味がまだよく分からなかった。
香り。
《蜜を育てた花は、次に香りを知ることになります。》
以前魔女が言っていた言葉。
香りとは、その人が何者であるかを知らせるもの。
誰を呼び、誰を遠ざけ、どんな運命を引き寄せるのか。
澪はその言葉を思い出すたびに、胸の奥が少しざわついた。
香りは見えない。
色や形のように、はっきりとは分からない。
けれどたしかに届く。
言葉よりも先に、理屈よりも深く、誰かの記憶や感情へ触れていく。
それは少し怖いものでもあった。
もし自分からよくない香りがしていたらどうしよう。
寂しさの匂い。欲しがっている匂い。自信のなさの匂い。
誰かに選ばれたいと願いすぎている匂い。
澪はそんなことを考えてしまった。
花人として生きると決めたからといって、急に完璧な花になれるわけではない。
まだ揺れるしまだ怖い。まだ人の反応が気になる。
ブログに拍手がつけば嬉しいし、何日も何も反応がなければやはり少し落ち込む。
コメントが来れば何度も読み返してしまうし、何かを書く時には、誰かにどう思われるかを考えてしまう。
私は本当に変わっているのだろうか。
それとも、花人という美しい言葉に支えられているだけで、中身はまだ昔の澪のままなのだろうか。
そんな問いが時々胸に浮かんだ。
その時、スマートフォンが震えた。ブログの通知だ。
澪は一瞬指先を止めた。
怖い。けど見たい。
そっと画面を開くと、前回の記事に新しい拍手がひとつ付いていた。
コメントはない。名前もない。ただ小さな拍手の印がひとつ。
澪はそれをしばらく見つめた。
以前ならもっと反応がほしいと思ったかもしれない。
でも今はその小さな一つが、誰かの指先の温度のように感じられた。
知らない誰かが澪の言葉の前で一瞬立ち止まり、小さく手を触れてくれた。
それだけで十分ではないかと思えた。
けれど同時に別の声も出てくる。
もっと読みやすくしたら、もっと多くの人に届くのではないか。
もっと明るくしたら、もっと気軽に読んでもらえるのではないか。
地獄や蜜なんて言葉は少し重いのではないか。
もう少し普通にした方がいいのではないか。
澪はその声に気づいて手帖を閉じた。
自分の中で何かが薄まりそうになっている。
まだ言葉にはできなかったが、そんな気配だけは分かった。
その日の夕方、澪は秘密の花園へ向かった。
黒い鉄の門の前に立つといつもよりも風が甘く感じられた。
門に絡まる蔦の隙間から、白い小さな花がいくつも咲いている。
その花に近づいた時、澪はふと足を止めた。
香りがした。
百合のようで、白檀のようで、雨上がりの土のようでもある。
不思議なことにその香りはどこか懐かしかった。
初めて嗅ぐはずなのに昔から知っている気がした。
どこで嗅いだのだろう。思い出せそうで思い出せない。
まるで、自分の部屋の奥に長くしまってあった手紙を、久しぶりに開いた時のような匂いだった。
澪は胸の奥が小さく震えるのを感じた。
温室の扉を開けると魔女がいた。
黒いドレス。生成りのレース。髪はゆるく結われ、耳元には小さな真珠が揺れている。
魔女の前には紅茶のカップが二つ置かれていた。まるで澪が来ることを最初から知っていたかのように。
「いらっしゃいませ、澪さん。」
魔女はいつものように微笑んだ。
「今日は、香りに呼ばれていらしたのですね。」
澪は驚いた。
「香りに……?」
「ええ。門の前で少し立ち止まっていらしたでしょう。」
「分かるんですか?」
「花園は見ておりますから。」
魔女はいたずらっぽく言った。
澪は椅子に座る。
紅茶からも先ほどの香りに似た気配がした。
百合のようで、白檀のようで、どこか懐かしい香り。
澪はカップを両手で包みながら言った。
「さっきの香り、どこか懐かしい気がしました。」
魔女は静かに澪を見た。
「懐かしい。」
「はい。初めてのはずなのに、知っているような……変ですよね。」
「変ではありません。」
魔女は言った。
「本当に貴女に必要なものは、初めて出会った時にも、どこか懐かしく感じることがあります。」
澪はその言葉を胸の中で繰り返した。
初めてなのに、懐かしい。それは魔女に初めて会った時にも感じたことだったかもしれない。
怖かった。不思議だった。けれど同時に、どこかでずっと待っていた場所へ来たような気もした。
秘密の花園は知らない場所なのに、完全に初めての場所ではない気がした。
魔女は紅茶を澪の前へ差し出した。
「これまで、貴女は蜜を育ててきましたね。」
澪は驚く。魔女が時々、まるで物語の章を知っているかのように話すことにはまだ慣れなかった。
けれど不思議とそれが自然にも思えた。
「はい。」
「自分の中に眠っていた言葉。痛みの奥にあった甘さ。それが誰かに届くことを貴女は知りました。」
澪は頷いた。
「でも……」
「でも?」
魔女が促す。
澪はカップの中の紅茶を見つめながら言った。
「届き始めたら、今度は怖くなりました。」
「ええ。」
「誰かが読んでくれるのは嬉しいです。でも、読まれていると思うと、次に何を書けばいいのか分からなくなります。」
魔女は何も言わずに聞いていた。
「もっと分かりやすくした方がいいのかな、とか。もっと明るくした方がいいのかな、とか。地獄とか蜜とか、そういう言葉は重いのかな、とか。誰にも読まれなかった時は読まれたいと思っていたのに、いざ少し読まれると今度は怖くなるんですね。」
「それは自然なことです。」
魔女は言った。
「蜜を差し出した花は、次に香りを意識し始めます。」
「香り……」
「ええ。どのように届くのか。どのように受け取られるのか。誰が近づき、誰が離れていくのか。花は蜜を持っただけでは終わりません。蜜を持った花は、やがて香りを放ちます。」
澪は静かに聞いていた。
魔女の言葉はいつも美しく、しかし時々、胸の奥を容赦なく開く。
「香りとは、香水のことだけではありません。」
魔女は続ける。
「貴女の言葉。佇まい。沈黙。服の選び方。誰と会うか。誰と会わないか。何を好きと言い、何をもう受け入れないと決めるか。そうしたすべてから、貴女の香りは生まれます。」
澪は少し息をのんだ。香りとは、もっと曖昧でもっと感覚的なものだと思っていた。
けれど魔女の言葉を聞いていると、香りは生き方そのものなのだと思えてくる。
どんな言葉を使うか。何を隠し、何を出すか。
誰に優しくし、誰とは距離を取るか。
何を美しいと思い、何を美しくないと感じるか。
それらがすべて混ざり合って自分という花の香りになる。
「私は、どんな香りがしているのでしょう?」
澪は少し怖くなりながら尋ねた。
魔女は微笑む。
「それをこれから知っていくのです。」
「今は分からないんですか?」
「ええ。香りは自分では分かりにくいものです。近くにありすぎますから。」
その言葉に澪は納得した。
自分の部屋の匂いに自分では気づきにくいように、自分の声の癖に自分では気づきにくいように。
自分が世界へ放っているものも、きっと自分では簡単には分からない。
「もし、嫌な香りだったらどうしようって思います。」
「嫌な香り、とは?」
「重いとか、暗いとか、面倒くさいとか。独特すぎるとか、分かりにくいとか。そういうふうに思われたら……」
言いながら、澪は自分が何を恐れているのか少し分かった。
嫌われることだ。
受け取ってもらえないこと。
自分の奥から出したものを、重い、暗い、変だと遠ざけられること。
ブログを書いたことで、たった一人に届いた喜びを知った。だからこそ届かない怖さが出てきた。
魔女は澪を見つめる。
「澪さん。香りとは、万人に好かれるためのものではありません。」
その声は静かだ。しかし澪の胸に深く響いた。
「香りは、万人に……好かれるためのものではない。」
「ええ。」
魔女は頷いた。
「花は、すべての虫を招くわけではありません。ふさわしい者を呼び、ふさわしくない者を遠ざける。そのためにも香りはあるのです。」
澪はすぐには言葉を返せなかった。
ふさわしくない者を遠ざける。その言葉は少し強く怖かった。
「遠ざけてもいいんですか?」
澪が尋ねると、魔女は少し首を傾げた。
「なぜ、遠ざけてはならないと思うのですか?」
「だって……嫌われるかもしれないし。」
「ええ。」
「変だと思われるかもしれないし。」
「ええ。」
「分かってもらえないかもしれません。」
「そうでしょうね。」
魔女はあまりにも当然のように頷いた。
澪は少し驚いた。
「否定しないんですね。」
「否定する必要がありません。」
魔女は紅茶を一口飲んだ。
「どれほど美しい香りでも、好まぬ者はおります。薔薇の香りを濃すぎると言う者もいれば、百合の香りを強すぎると言う者もおります。しかしだからといって薔薇が香りを薄め、百合が百合であることをやめる必要があるでしょうか。」
澪は黙った。
薔薇には薔薇の香りがある。百合には百合の香りがある。
好きな人もいれば、苦手な人もいる。
それは当然のことなのに、自分のことになるとどうしてこんなにも怖いのだろう。
「誰にでも好かれようとすると、香りは薄まります。」
魔女は言った。
「薄い香りは確かに嫌われにくいかもしれません。けれど、貴女を見つけるはずだった送粉者まで通り過ぎてしまいます。」
澪の胸がどくんと鳴る。
貴女を見つけるはずだった人まで、通り過ぎてしまう。
自分の香りを消したせいで、本当に届くはずだった人に届かない。
ふさわしい人に見つけてもらえない。それは深い喪失のように思えた。
「では、私はどうすればいいんでしょう?」
澪が尋ねると、魔女は微笑む。
「まずは薄めようとする自分に気づくことです。」
「薄めようとする自分?」
「ええ。何かを書く時、何かを選ぶ時、誰かと話す時。本当はこう感じているのに、違う言葉にすり替えようとする瞬間があります。」
澪は最近の自分を思い出した。
ブログを書く時、本当は「痛い」と書きたいのに「少し気になった」と書き換えたくなる。
本当は「美しい」と書きたいのに「印象に残った」と薄めたくなる。
本当は「私はこう思う」と書きたいのに「そういう見方もあるかもしれない」と逃げたくなる。
それは確かに香りを薄める行為だったのかもしれない。
「澪さん。」
魔女が静かに呼んだ。
「はい。」
「これから貴女は、何度も自分の香りを薄めそうになります。」
澪は少し緊張した。
「何度も、ですか?」
「ええ。人に見られ始めた時、褒められた時、否定された時、誰かに期待された時。あるいは誰かに好かれたいと思った時。」
澪の胸に朝倉の横顔が浮かんだ。
花屋で出会った装丁家の男性。白い花と余白の話をした人。
澪はその記憶を慌てて胸の奥へしまった。
魔女は何も言わずに微笑んでいる。見透かされているようで澪は少し気恥ずかしくなった。
「香りを薄めずに生きるって、難しいですね。」
澪が言うと魔女は頷いた。
「ええ。とても難しいことです。」
「魔女さんでも難しいですか?」
何気なく聞いた問いだった。しかし魔女はすぐには答えなかった。
温室の中に一瞬だけ沈黙が落ちた。
澪は少し不安になった。失礼なことを聞いただろうか。
やがて魔女は静かに言った。
「私にも、香りを薄めていた季節がありました。」
澪は驚いた。
「魔女さんにも?」
「ええ。」
魔女は少し遠くを見るような目をした。
「誰にも嫌われぬように。分かりやすくあるように。扱いやすくあるように。美しいけれど怖くないように。賢いけれど近づきにくくならないように。そうやって自分の香りを少しずつ薄めていた季節が。」
澪は魔女を見つめた。
魔女にもそんな時期があったのか。
いつも完璧で、揺るがず、すべてを知っているように見えるこの人にも。
魔女は澪の方へ視線を戻した。
「しかし、香りを薄めている時ほど本当に出会うべき者とは出会えないものです。」
「どうしてですか?」
「貴女ではない香りを放っているからです。」
自分ではない香り。
誰かに好かれるために整えた香り。嫌われないために薄めた香り。
安全な香り。無難な香り。
それを纏っていれば傷つきにくいかもしれない。
でもその香りで出会った人は、本当の自分に惹かれているわけではない。
そう思うと澪は少しだけ怖くなり、少しだけ自由になった。
「私は、私の香りを知りたいです。」
澪は言った。
声は小さかったがはっきりしていた。
魔女は微笑む。
「そうですね。」
「まだ怖いです。嫌われたくないし、変だと思われたくないし、読んでくれる人に合わせた方がいいのかなって、すぐ思ってしまいます。」
「ええ。」
「でも私の言葉を薄めたら、本当に届いてほしい人に届かないのかもしれないと思いました。」
魔女は嬉しそうに目を細めた。
「それが香りの入口です。」
澪は花人手帖を開いた。
そして、魔女の言葉を書き留めた。
香りは万人に好かれるためのものではない。
ふさわしい者を呼び、ふさわしくない者を遠ざけるためのもの。
薄い香りは嫌われにくい。しかし本当に見つけるはずだった人まで通り過ぎてしまう。
私ではない香りで出会った人は、本当の私に出会ったわけではない。
書き終えると澪は深く息を吐いた。
その呼吸と一緒に温室の中の香りが胸の奥へ入ってくる。
やはりどこか懐かしい。
魔女の香りなのか。花園の香りなのか。それとも自分の中に眠っていた何かなのか。
まだ分からなかった。
花園を出る頃、空はすっかり暗くなっていた。
門の外にはいつもの街があった。車の音。駅へ向かう人々の足音。店の灯り。
澪はその中をゆっくり歩いた。
鞄の中には花人手帖。胸の奥には今日聞いた言葉。
香りは万人に好かれるためのものではない。
澪はこれまでずっと、できるだけ嫌われないように生きてきた。
尖らないように。目立たないように。面倒な人だと思われないように。
けれどそのたびに、自分の中の何かを薄めていたのかもしれない。
好きなものを好きと言い切らない。痛いものを痛いと言い切らない。
美しいものを美しいと言い切らない。そうして自分の香りを消してきた。
澪は立ち止まり、夜の空気を吸い込んだ。
どこかから花の香りがした。
花屋がまだ開いているのかもしれない。
あるいは、誰かがすれ違いざまに纏っていた香りかもしれない。
澪はその香りを追いかけなかった。
ただ、胸の中に受け取った。
家に帰ると、窓辺の百合は静かに咲いていた。
魔女に出会ってから、少しずつ花は入れ替わっているけれど、澪の部屋にはいつも白い花があるようになっていた。
澪は机に向かいブログの投稿画面を開いた。何を書くかはまだ決まっていない。
ただ今日の魔女の言葉を、自分の言葉で受け取り直したかった。
けれど書き始めようとした時、澪はまた手を止めた。
魔女の言葉をそのまま借りたくなったのだ。
香りは万人に好かれるためのものではない。
ふさわしい者を呼び、ふさわしくない者を遠ざけるためのもの。
あまりにも美しい言葉だった。そのまま書きたくなる。
でも、それは魔女の言葉だ。
私の言葉ではない。
澪はペンを持ち、ノートに書いた。
私の言葉で書くなら、何だろう?
しばらく何も浮かばなかった。
焦らず百合を見る。百合はただ咲いていた。
誰かに分かりやすく香ろうとはしていない。
誰かに嫌われないように香りを弱めてもいない。
ただ、自分の花として部屋の空気を変えていた。
澪はゆっくり書いた。
誰にでも好かれる私になろうとしていた時、私は誰にも深く届いていなかったのかもしれない。
その一文を書いた瞬間、胸が少し震えた。
これは魔女の言葉ではない。澪の言葉だった。
まだ拙い。けれど確かに自分の奥から出てきた言葉だった。
澪は続けた。
嫌われないように薄めた言葉は、私を守ってくれた。
でも同時に、私を見つけるはずだった人からも、私を隠していた。
そこまで書いて澪は手を止める。
怖い。この言葉を外へ出すのはまだ怖い。
でも書けた。今日のところはそれでいい気がした。
澪はブログにはまだ投稿せず、ノートを閉じた。
香りを薄めずに生きる。
それは、今日決めて明日から完璧にできることではない。
きっと何度も怖くなる。何度も薄めそうになる。
誰かに好かれたくて、誰かに嫌われたくなくて、言葉を変えそうになる。
それでも、気づけるようになりたい。
今、私は香りを薄めようとしている。
そう気づけるだけで少しずつ戻ってこられる気がした。
澪は窓を開けた。
夜風が入り、百合の香りが部屋の中で揺れた。
その香りは強すぎるようで、澪には心地よかった。
誰かには強すぎるかもしれない。けれど、それでいい。
百合は百合として香っている。
澪は花を見つめながら小さく呟いた。
「私も、私の香りを知りたい。」
その声は夜の部屋に溶けた。
そして花人手帖の最後に一行だけ書いた。
私の香りは、まだ私にも分からない。けれど、もう薄めたくない。
その夜、澪は深く眠った。
夢の中で秘密の花園の門が開いていた。
その向こうから懐かしい香りが流れてくる。
百合のようで、白檀のようで、雨上がりの土のようで、どこか自分の奥に眠っていた記憶のような香り。
澪はその香りに導かれて、ゆっくりと花園の奥へ進んでいく。
その先で魔女の声がした。
「澪さん。貴女はこれから、ご自分が何を香らせているのかを知ることになります。」
目が覚めた時、部屋にはまだ白い百合の香りが残っていた。
Season3が始まりました。
Season1で澪は花人という生き方に出会い、自分の人生はまだ取り戻せるのだと知りました。
そしてSeason2では自分の内側に眠っていた蜜と向き合いました。
痛み。孤独。言葉にできなかった感情。自分だけが遅れているように感じていた時間。
それらはただの失敗や傷ではなく、誰かに届く蜜になるのだと知りました。
そしてSeason3では、その先にある“香り”と向き合っていきます。
香りとは香水のことだけではありません。
その人の言葉。佇まい。沈黙。選ぶ服。選ぶ場所。誰と会い、誰と会わないか。何を好きと言い、何をもう受け入れないと決めるか。
そういうものすべてからその人だけの香りは生まれます。
しかし自分の香りを放つことは、とても怖いことでもあります。
誰かに嫌われるかもしれないし、変わっていると思われるかもしれない。
分かってもらえないかもしれない。だから私たちはつい香りを薄めてしまいます。
もっと分かりやすく、明るく、普通に、扱いやすく。
もっと誰にでも好かれるように。
けれど香りは万人に好かれるためのものではありません。
ふさわしい者を呼び、ふさわしくない者を遠ざけるためのものでもあります。
誰にも嫌われないように香りを薄めれば、貴女を見つけるはずだった人まで通り過ぎてしまうかもしれません。
澪はまだ自分の香りを知りません。
しかし、もう薄めたくないと思い始めました。
Season3は澪が自分の独特さを恐れず、自分の香りを取り戻していく季節です。
貴女は自分の香りを薄めていませんか?
嫌われないために、本当は好きなものを曖昧にしていませんか?
変だと思われないために、本当は美しいと思ったものを軽い言葉に置き換えていませんか?
花人として生きるとは自分の香りを思い出すことでもあります。
貴女の香りは、貴女にふさわしい運命への招待状なのです。
次回、第二話。
「好かれる香り、選ばれる香り」
どうぞお楽しみに。
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