真島あみオフィシャルブログ
21世紀的魔女論

シーズン2第2話 空っぽの蜜壺


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澪は一週間、自分の心が動いたものを記録することになった。

魔女から渡された白いカード。

そして花人手帖の新しいページにはこう書いてある。

私の心が動いたもの

たったそれだけのことなのに、澪はそのページの前で何度も手を止めた。

美しいと思ったもの
嫌だと思ったもの
嫉妬したもの
懐かしいと思ったもの
忘れられなかった言葉
胸が温かくなった瞬間
胸がざわついた瞬間

魔女はそう言っていた。

しかし実際に書こうとすると何も出てこなかった。

月曜日の朝、澪はいつも通り電車に乗った。

白いブラウスに淡いグレーのスカート。髪には百合の香りをほんの少しだけ纏わせている。

以前の澪なら香りなど職場では目立つだけだと思っていた。

誰かに気づかれたら恥ずかしい。派手だと思われたら嫌だ。似合っていないと思われたらどうしよう。

そんなことばかりを考えていた。

しかし今は少し違う。

香りは誰かのためではない。自分が自分を百合として扱うための小さな儀式だった。

電車の窓に映る自分を見る。

疲れていないわけではない。若返ったわけでもない。人生が一晩で変わったわけでもない。

それでも前より少しだけ、自分から目を逸らさなくなった。

会社に着くといつもの空気が待っていた。

コピー機の音。キーボードを叩く音。誰かのため息。薄いコーヒーの匂い。朝礼前の眠たいざわめき。

澪は席に座りパソコンを開く。

仕事は淡々と進む。

メールを確認し、資料を作り、電話を取り、上司から頼まれた数字をまとめる。

昼休みには同僚たちが近くの店へランチに行こうと誘い合っていた。

「白石さんも行きますか?」

そう聞かれて澪は一瞬迷った。本当は一人で静かに過ごしたい。

花人手帖を開き、今朝見た空の色について書いてみたい気がしていた。

しかし断る理由もない。

「うん、行こうかな。」

そう言ってしまった。

店に向かう道すがら、同僚たちは週末の話をしている。

誰かの婚活アプリの話や、夫の愚痴。子どもの保育園の話。新しくできたスイーツの店の話。

澪は笑って相槌を打った。

「そうなんだ。」「大変だね。」「いいなあ。」

口から出る言葉はいつも通りだ。

誰も澪がおかしいとは思わない。澪自身もおかしくはないと思っていた。

ただ、心のどこかが少しずつ薄くなっていくようだった。

昼休みが終わり席に戻った時、澪は花人手帖をそっと開いた。

今日、心が動いたもの。

ペンを持つ。

しかし何も書けない。

ランチのパスタはおいしかった。同僚たちの話も別に嫌ではなかった。

誰かに傷つけられたわけでもない。それなのに何も残っていない。

何を感じたのか。

何を美しいと思ったのか。

何が嫌だったのか。

分からない。

澪はページの端に小さく書いた。

何も書けない。

その一行を見て少しだけ惨めになる。

蜜を育てるどころか、蜜の種すら見つけられない。

自分の中は、本当に空っぽなのかもしれない。

その日の夜、澪は帰宅してから窓辺の百合とスイートピーの水を替えた。

白いスイートピーは昨日より少し花びらが開いている。

薄い花びらが灯りの下で透けている。

澪はしばらくそれを眺めた。

綺麗だと思った。

けれどその綺麗という言葉すら、どこか借り物のように感じる。

本当にそう思っているのか。

ただ花を見たら綺麗と言うものだと思っているだけなのか。

澪は自分の感情が分からなくなった。

花人手帖を開く。

今日のページには昼に書いた一行だけが残っている。

何も書けない。

澪はその下にもう一行足した。

私は、何を感じているのか分からない。

書いた瞬間胸が苦しくなる。

それは悲しみに似ていた。

澪はペンを握ったまま、しばらく動けなかった。

何を感じているのか分からない。

その言葉は自分で思っていたよりも深い場所に刺さった。

もしかすると澪は、ずっと感じないようにしてきたのかもしれない。

欲しいと思わないように、寂しいと思わないように、悔しいと思わないように。

本当は羨ましいと思っているのに、そんな自分を見ないように。

本当は怒っているのに、大人だから仕方ないと片づけるように。

本当は泣きたいのに、泣くほどのことではないと自分に言い聞かせるように。

感じるたびに自分の中で何かを閉じてきた。

蜜壺に蓋をする。

魔女の言葉が蘇る。

澪はその夜、手帖に最後の一行を書いた。

空っぽなのではなく、感じることをやめてきたのかもしれない。

その一文を書いた時、百合の香りが少し強くなった気がした。

火曜日。

澪は朝から少し重たい気分だった。

昨日の手帖の言葉がまだ胸に残っている。

感じることをやめてきた。

自分で書いたのに、まるで誰かから言われたように響いていた。

職場では佐伯さんの姿を見かけた。

相変わらず落ち着いた横顔をしている。誰かと笑って話している。

左手には、結婚指輪がある。

澪はそれを見ても以前ほど胸が潰れることはなかった。しかし何も感じないわけではない。

小さな痛みがある。

もう自分とは関係のない人。それなのに、目に入ると少しだけ心が反応してしまう人。

澪は自分の席で花人手帖を開いた。

そしてこう書いた。

佐伯さんの指輪を見た。
昔ほど苦しくはなかった。
でもまだ何かが痛む。
痛みが残っていることを今日は責めない。

書き終えてから澪は小さく息を吐いた。

ほんの少しだけ心が軽くなった気がする。

痛みを書いたからといって痛みが消えるわけではない。

けれど痛みを無視しなかった。それだけで何かが違う。

昼休み、澪は今日は誘いを断った。

「今日は一人で食べるね。」

そう言うと同僚は軽く頷いた。

「了解。また今度ね。」

それだけだった。

何か言われるのではないかと身構えていたのに誰も気にしていなかった。

澪は会社の近くの小さなカフェに入る。

前から気になっていた店だったが、いつも「今度でいいか」と通り過ぎていた。

店内は静かだ。

木のテーブル。窓際の小さな席。壁に飾られた古い植物画。
奥から聞こえるミルクを温める音。

澪はカフェラテと小さなレモンケーキを頼んだ。

窓際の席に座り手帖を開く。

その時、ふと壁の植物画に目が留まった。

そこに描かれていたのは百合ではなかった。

細い茎に小さな青い花がいくつも咲いている。

名前は分からない。目立つ花ではない。しかし澪はその絵が気になった。

小さな花たちは、誰かに見られることを期待していないように見えた。

ただ自分の場所で自分の青を咲かせている。

澪は手帖に書いた。

名前を知らない青い花の絵。
誰かに気づかれなくても、花は咲く。
私は、誰かに見つけられないと咲けないと思っていたのかもしれない。

書いたあと澪は少し驚いた。

そんなことを考えていたのか。

言葉にして初めて、自分の中にあった思いに気づいた。

私は、誰かに見つけられないと咲けないと思っていた。

佐伯さんに選ばれたら。誰かに愛されたら。誰かが綺麗だと言ってくれたら。

その時初めて自分には価値があると思える気がしていた。

しかし花はそうではない。

花は見られる前から咲いている。誰かが近づく前から香っている。

送粉者が来る前から、自分の場所で季節を始めている。

澪はカフェラテを飲んだ。泡のやわらかさとコーヒーの苦み。

甘くない。しかし苦いだけでもない。

その味が今の自分に少し似ている気がした。

水曜日。

澪は朝から雨の音で目を覚ました。

カーテンを開けると街が薄い灰色に濡れている。

以前の澪なら雨の日は憂鬱なだけだった。

髪が広がるし、靴が濡れる。電車が混む。空が暗い。それだけで朝から気分が沈んだ。

今日ももちろん少し憂鬱だった。

しかし窓辺の百合を見ると、白い花びらが雨の光を受けていつもより深く見えた。

晴れの日の白とは違う。雨の日の白。

冷たく静かで、少しだけ陰を含んでいる。

澪は手帖を開き出勤前に書いた。

雨の日の百合は、晴れの日よりも静かに見える。
白にもいろいろある。
明るい白。冷たい白。寂しい白。祈るような白。

書いているうちに胸の奥が少し温かくなった。

白にもいろいろある。

それは、自分にもいろいろな表情があっていいということかもしれない。

明るい自分だけが正解ではないし、優しい自分だけが愛されるわけではない。

寂しい自分も冷たい自分も、全部が自分の白なのかもしれない。

その日の仕事は忙しかった。

上司から急ぎの資料を頼まれ、昼休みもほとんど取れなかった。

同僚のミスの確認まで回ってきて、澪は少し苛立った。

以前ならそんな自分にすぐ蓋をしていた。

怒ってはいけない。大人げない。これくらいで不機嫌になってはいけない。

しかし今日は手帖に書くことを思い出した。

夕方、誰もいない給湯室で澪はスマートフォンのメモに短く打った。

人のミスまで自然に引き受けてしまった。
嫌だった。
私はいい人と思われるために、自分の時間を差し出しすぎている。

打ったあと、澪はスマートフォンを握りしめた。

嫌だった。その言葉を書くのは少し怖い。

しかし不思議と清々しかった。

嫌だと思ってもいい。怒ってもいい。

それを誰かにぶつけなくても、自分の中で認めていい。

澪は魔女の声を思い出した。

蜜は、感情の奥にあります。

甘い感情だけではない。

嬉しい、楽しい、美しいだけではなく、嫌だ、悔しい、寂しい、羨ましい。その奥にも、自分の蜜の種がある。

何を大切にしたいのか。何を奪われたくないのか。

どこから先は入ってきてほしくないのか。

怒りや違和感はそれを教えてくれる。

澪ははじめて自分の嫌悪感を少しだけ大切に思えた。

木曜日。

仕事帰り、澪は本屋に寄った。

特に買いたい本があったわけではない。

ただ、雨が上がった夜の街をまっすぐ帰る気になれなかった。

駅ビルの中の大きな本屋。照明は明るく人も多い。

新刊、雑誌、実用書、文庫、料理本、旅行ガイド。澪はゆっくり棚の間を歩いた。

昔は本屋にいるだけで何時間でも過ごせた。

予定がない休日には開店直後から本屋に入り、気づけば夕方になっていることもあった。

背表紙を眺めるだけで楽しかった。知らない世界の入口がそこらじゅうに並んでいるようで、胸が高鳴る。

いつからだろう。

本屋に来ても仕事に役立つ本や、生活を整える本ばかり見るようになったのは。

私はいつから役に立つものばかりを探すようになったのだろう。

昔の自分は、もっと役に立たない美しさが好きだった。

物語。詩。誰かの独白。遠い国の神話。古い恋の話。もう会えない人を想う文章。

役に立たない。しかし生きるためには必要だったもの。

澪は文庫の棚の前で立ち止まる。そこに昔好きだった作家の本が並んでいた。

懐かしい名前。学生時代、夢中で読んだ作家だ。

澪は一冊を手に取る。表紙は変わっていた。

昔持っていた版とは違う。しかしタイトルを見た瞬間、胸の奥が強く揺れた。

忘れていた部屋の扉が急に開いたようだった。

澪はその本を買って帰った。

家に着くと、いつもならスマートフォンを見ながら夕食を済ませる。

しかしその日はテーブルの上を片づけ、百合とスイートピーのそばにその本を置いた。

部屋の灯りを少し落とし、温かい紅茶を淹れる。

そしてページを開いた。

物語は記憶の中よりも静かだった。

派手な事件は起きない。誰かが劇的に救われるわけでもない。しかし一文一文が澪の胸に染み込んでいった。

ああそうだった。私はこういう時間が好きだった。

誰かの言葉の中に、自分でも知らなかった自分を見つける時間。

ひとりでいるのにひとりではないように感じる時間。

澪はページを読みながら泣いていた。

大きく泣いたわけではない。ただ目の奥から静かに涙がこぼれた。

その涙には、佐伯さんへの痛みだけではないものが混じっていた。

懐かしさ。悔しさ。喜び。

長いあいだ忘れていた自分にようやく再会したような感覚。

澪は本を閉じて花人手帖を開く。

そして書いた。

私は言葉に救われていた。
昔の私は、美しい文章を読むと本当に胸が震えていた。
ノートに好きな言葉を書き写していた。
私にもそういう時間があった。

そこまで書いた時、澪はふと思い出した。

クローゼットの奥に古い箱がある。

学生時代のノートや手紙を入れたまま、ずっと開けていない箱。

澪は立ち上がりクローゼットを開け、奥から少し埃をかぶった白い箱を取り出す。

蓋を開けると古いノートが何冊も入っていた。

表紙の角は擦れていて、ページは少し黄ばんでいる。

澪はその中の一冊を開いた。そこには昔の自分の文字が並んでいた。

好きだった文章の書き写し。映画を見た感想。
本を読んだ日の記録。カフェで考えたこと。
将来の夢のようなもの。

今よりもずっと下手で、まっすぐで、少し恥ずかしい文章。しかしそこには確かに心があった。

澪はページをめくる。するとある一文の前で手が止まった。

それは誰かの引用ではない。

昔の澪自身が書いた言葉だった。

いつか、誰かの夜に灯りを置けるような文章を書きたい。

澪は息を止める。

そんなことを書いた記憶はなかった。しかし確かに自分の字だ。

いつか、誰かの夜に灯りを置けるような文章を書きたい。

澪はその言葉を何度も読んだ。胸の奥で何かがほどけていく。

私はこんなことを願っていたのか。

誰かに選ばれることだけを望んでいたわけではなかった。

私は自分の言葉を持ちたかった。誰かの心にそっと届くものを持ちたかった。

澪は古いノートを胸に抱く。涙がまたこぼれた。

それは悲しみだけの涙ではなかった。

やっと見つけた。そんな涙だ。

金曜日。

澪は仕事中もどこか落ち着かなかった。

昨夜見つけた言葉がずっと胸に残っている。

いつか、誰かの夜に灯りを置けるような文章を書きたい。

あの言葉を書いた少女のような自分はどこへ行ってしまったのだろう。

仕事をして、年齢を重ねて、現実を知ったふりをして、いつの間にか奥へ押し込めてしまった。

そんな夢は甘い。そんなことでは食べていけない。

人に見せられるほどの才能もない。誰かに笑われるかもしれない。

そうやって蓋をした。

澪はふと魔女の言葉を思い出した。

空っぽなのではありません。
長い間、ご自分の蜜壺に蓋をしていただけです。

蜜壺。

その中に言葉が眠っていたのかもしれない。

昼休み、澪はまた一人でカフェに行った。

今度は昨日とは違う席に座る。

手帖を開き、古いノートから写した一文を書いた。

いつか、誰かの夜に灯りを置けるような文章を書きたい。

その下に今の自分の言葉を足した。

私はまだ書きたいのかもしれない。
上手に書きたいのではなく、誰かに認められたいのでもなく、ただ自分の奥にあるものを言葉にしてみたい。

ペンが思ったよりも滑らかに進む。

澪は続けて書いた。

言葉が私の蜜かもしれない。
まだ一滴にもならない、眠っていた蜜。
しかし、たしかにそこにある気がする。

書いた瞬間、澪は怖くなった。

自分で「言葉が蜜かもしれない。」と書くことが、ひどく大げさに思えた。

才能もないのに。誰かに読まれたこともないのに。

ただ昔少し本が好きだっただけなのに。

そうやってすぐに自分を小さくしようとする声が出てくる。

しかし澪はその声を見逃さなかった。

ページの端に書いた。

自分を小さくしようとする声が出てきた。
それは守ろうとしている声でもある。
しかし私はもう全部を閉じ込めたくない。

澪はペンを置いた。

窓の外では風に街路樹の葉が揺れている。

その葉の動きが、まるで誰かの返事のように見えた。

土曜日。

澪は秘密の花園へ向かう。

魔女に会う約束はしていなかった。でもどうしても話したかった。

古いノートのこと。昔の自分の言葉のこと。言葉が自分の蜜かもしれないと思ったこと。

黒い鉄の門の前に立つと白い花が二輪に増えていた。

澪はそっと扉を開けた。からん、と鈴が鳴る。

温室の中では魔女が花の手入れをしていた。

今日は深いグリーンのドレスだった。長い袖の先から白い指が伸びている。

魔女は振り向き、澪を見て微笑んだ。

「いらっしゃいませ、澪さん。」

「突然来てしまってすみません。」

「謝ることではありません。花が水を求めるように、人も言葉を求める日があります。」

その言葉に澪の胸が少し震えた。

魔女は澪を奥の席へ案内した。

今日は紅茶ではなく透明なハーブティーだ。カップの中に小さな花が浮かんでいる。

澪は鞄から古いノートを取り出した。

「これを見つけたんです。」

魔女は静かにノートを受け取った。ページを乱暴にめくることはしなかった。

まるで古い花びらに触れるように、丁寧に開く。そしてあの一文のところで手を止めた。

いつか、誰かの夜に灯りを置けるような文章を書きたい。

魔女は、しばらくその言葉を見つめていた。

「美しい願いですね。」

澪は思わず目を伏せた。

「恥ずかしいです。」

「なぜですか?」

「若い頃の、何も知らない自分が書いた言葉だから。」

魔女はゆっくり首を振った。

「何も知らないから書けたのではありません。まだ蓋をされていなかったから書けたのです。」

澪は言葉を失った。

「大人になることは悪いことではありません。」

魔女は言う。

「しかし大人になる途中で、多くの人は自分の蜜壺に蓋をしてしまいます。笑われないように。
傷つかないように。期待しすぎないように。」

澪は静かに頷いた。

「私もそうでした。」

「ええ。」

魔女は古いノートを澪に返す。

「しかし蓋をしたものは消えたわけではありません。眠っていただけです。」

澪はノートを胸元に引き寄せた。

「言葉が私の蜜なんでしょうか?」

その問いはとても小さな声だった。

魔女はすぐに断定しなかった。それがかえって優しかった。

「今はまだ、“蜜の気配”と呼んでおきましょう。」

「蜜の気配……」

「はい。花の奥でまだ雫になる前のものです。すぐに名前を決めなくてもいいのです。ただ大切に観察してください。」

澪は少しだけ安心した。

言葉が自分の蜜だと言い切るにはまだ怖い。しかし気配なら信じられる。

小さな種。まだ育つかどうか分からないもの。けれど確かにそこにあるもの。

「澪さん。」

魔女は澪をまっすぐ見た。

「貴女は心が動いたものを書き始めましたね。」

「はい。」

「いかがでしたか?」

澪は少し考えた。

「最初は何も書けませんでした。」

「ええ。」

「自分が何を感じているのか本当に分からなくて。空っぽなんだと思いました。」

魔女は黙って聞いている。

「でも書こうとすると……自分がどれだけ感じないようにしてきたのかが分かりました。」

澪はゆっくり言葉を探す。

「嫌だと思ったこと。羨ましいと思ったこと。綺麗だと思ったこと。懐かしいと思ったこと。そういうものを今まで全部流していたんだと思います。」

「ええ。」

魔女の声は優しかった。

「それで、古い本を読んだら昔の自分を思い出しました。私は言葉が好きだったんです。美しい文章を読むと本当に胸が震えていたんです。」

そう言うと澪の目に涙が滲んだ。

「忘れていました。そんな自分がいたことを。」

魔女は静かに言った。

「忘れていた自分に再会する時、人は少し泣きます。」

その言葉で澪の涙がこぼれた。

魔女は慌てなかった。ただ白いハンカチをそっと差し出した。

澪はそれを受け取り涙を押さえる。

「悲しいわけではないんです。」

「分かっています。」

「ただ、長いあいだ置いてきてしまった自分に申し訳ないような。」

「ええ。」

魔女は頷いた。

「しかし、迎えに行けたのです。」

澪は顔を上げた。

「置いてきた自分を、今から迎えに行けばいいのです。遅すぎることはありません。」

澪は涙を拭いた。

遅すぎることはない。何度も魔女から聞いた言葉なのに、今日は少し違って聞こえた。

恋だけの話ではなかった。

結婚だけの話でも、人生のやり直しだけの話でもなかった。

昔好きだったもの。昔願っていたこと。昔の自分が大切にしていた感性。

それらを迎えに行くことにも、遅すぎることはないのだ。

「では次の課題です。」

澪は少し背筋を伸ばした。

「課題……」

「はい。今週見つけた“心が動いたもの”の中から、ひとつ選んで文章を書いてください。」

「文章ですか?」

「ええ。」

魔女は微笑む。

「上手に書く必要はありません。人に見せる必要も、今はありません。ただ貴女の心が動いたものを貴女の言葉で書くのです。」

澪は指先に力が入った。

「怖いです。」

「そうでしょうね。」

魔女はあっさり頷いた。

「蜜壺の蓋を開ける時は誰でも怖いものです。甘い香りだけが出てくるとは限りませんから。」

「何が出てくるんですか?」

「痛み。怒り。願い。寂しさ。喜び。欲望。」

魔女はカップの中の花を見つめた。

「しかしそれらを恐れて閉じ込め続けると蜜は育ちません。」

澪は静かに息を吸う。

「書いてみます。」

その言葉は小さかった。

しかし自分の中では大きな一歩だった。

魔女は微笑んだ。

「素晴らしい。貴女の蜜壺は少しずつ開き始めています。」

日曜日の朝。

澪は早く目が覚めた。窓の外は晴れている。

百合もまだ咲いている。

スイートピーは少し弱ってきたけれど、最後まで淡く揺れていた。

澪はテーブルに古いノートと花人手帖を並べた。

新しいページを開く。

魔女からの課題。

心が動いたものの中からひとつ選んで文章を書く。

澪は迷った。

白いスイートピー
雨の日の百合
カフェの青い花の絵
佐伯さんの指輪
古い本
昔のノート

どれも今週の澪の心を動かしたものだった。

その中で澪は古いノートを選んだ。

ページの上にタイトルを書く。

置いてきた私へ。

その文字を見た瞬間に胸が熱くなる。

澪はゆっくり書き始めた。

昔の私へ。

貴女はまだ何も知らなかったのではなく、たくさんのものを感じていたのだと思います。

美しい文章を読むと胸が震えて、誰にも見せないノートに言葉を書き写して、いつか誰かの夜に灯りを置けるような文章を書きたいと願っていた。

私はその貴女をどこかに置いてきました。

現実を知ったふりをして、忙しいふりをして、もう遅いふりをして、そんな夢はなかったことにしました。でも貴女は消えていませんでした。古いノートの中でずっと私を待っていました。

ごめんね。そして待っていてくれてありがとう。

私はもう一度、貴女を迎えに行きます。

上手に書けなくても、誰にも読まれなくても、笑われるのが怖くても、私は私の言葉を取り戻したい。

書き終えた時、澪は静かに泣いていた。

部屋には朝の光が差している。

百合の白がまぶしいほどに見えた。

澪は涙を拭きながら、最後に一行を足した。

私の蜜壺は、空っぽではなかった。
そこには、言葉を愛していた私が眠っていた。

ペンを置いて深く息を吐く。

何かが大きく変わったわけではない。

しかし澪は知った。自分の中にはまだ眠っているものがある。

感じることをやめていただけ。忘れていただけ。置いてきただけ。

それなら、これから迎えに行ける。

澪は窓辺の百合に水を足した。

そして弱りかけたスイートピーをそっと指で支える。小さな花はまだ淡く香っていた。

その香りを感じながら澪は思った。

私は空っぽではない。私の中にはまだ言葉がある。

まだ蜜と呼ぶには頼りない。一滴にも満たないかもしれない。

でもたしかに花の奥で生まれ始めている。

その日、澪は初めて自分の内側を少しだけ信じたいと思った。


あとがき

Season2 第二話では、澪が自分の「蜜壺」に向き合い始めました。

最初澪は何も書けませんでした。

自分が何を感じているのか分からない。何を美しいと思うのかも、何が嫌なのかも分からない。

それは空っぽだからではありません。長い間自分の感情に蓋をしてきたからです。

花人として生きるには、まず自分の心が動く瞬間を見逃さないこと。

美しいと思ったもの。嫌だと思ったこと。嫉妬したもの。懐かしかったもの。胸が震えた言葉。

そのすべてが蜜の種になります。

澪は古い本とノートを通して、昔の自分が「言葉」に救われていたことを思い出しました。

貴女の中にも、忘れていた蜜があるかもしれません。

それらは消えたのではなく、貴女の中で眠っているだけかもしれません。

蜜壺の蓋を開けていきましょう。

貴女は空っぽではありません。
まだ、自分の奥にある豊かさを思い出していないだけなのです。

次回、第3話

【蜜を流す相手】