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真島あみの真骨頂🌹永遠に色褪せない“褒め言葉”という美容液

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澪はそのコメントを何度も読み返した。
「遅れていたのではなく、育っていた」という言葉が、今の私に必要でした。
たった一文だった。
けれどその一文は、澪の胸の奥で何度も静かに鳴った。
今の私に必要でした。
誰かが自分の言葉を読んだ。
ただ通り過ぎたのではなく、一度立ち止まってくれた。
その人の人生のどこかに、澪の言葉がほんの少し触れた。
そう思うと不思議な気持ちになった。
嬉しい。
しかしただ嬉しいだけではなかった。
少し怖かった。
自分の言葉が誰かに届くということは、自分の中にあったものが、もう自分だけのものではなくなるということだった。
ノートの中に閉じ込めていた時は、どれほど震える言葉でも澪のものだった。
書いて、閉じて、引き出しの中にしまえばよかった。けれど外へ出した言葉は違う。
誰かが読む。受け取る。誰かの中で澪の知らない形に変わっていく。
それは嬉しくて少し恐ろしいことだった。
澪はパソコンの前に座ったまましばらく動けなかった。
返信をした方がいいのだろうか。
何と書けばいいのだろう。
「ありがとうございます。」だけでは軽すぎる気がした。
けれど長く返しすぎても重い気がした。
相手はきっと何気なくコメントを残してくれただけなのだろう。
それなのにこちらが大げさに受け取ってしまったら困らせてしまうかもしれない。
そんなふうに考えているうちに、またいつもの澪が顔を出した。
間違えたくない。変に思われたくない。重いと思われたくない。
誰かに届いた途端、澪はまた誰かの反応を気にしていた。
そのことに気づき澪は小さく息を吐く。
机の上の百合はもう満開に近かった。
白い花弁が大きく開き、部屋の空気に深い香りを溶かしている。
澪はその花を見た。
百合は香ったあとで、その香りがどう受け取られるかを考えているのだろうか。
強すぎるだろうか。嫌われるだろうか。
誰かに重いと思われるだろうか。
そんなことを考えながら香っているのだろうか。
そんなはずはなかった。
花はただ香る。
自分の内側にあるものを、自分の季節に従って外へ放つ。
澪は深く息を吸った。
そして、短く返信を書く。
――読んでくださってありがとうございます。この言葉が必要な場所へ届いたのなら嬉しいです。
何度か読み返してから送信した。
送ったあと胸が少しだけ軽くなった。
完璧な返信ではないかもしれないけれど、今の澪にできるいちばん正直な言葉だった。
翌日から、澪の生活はまたいつも通りに戻った。
朝、起きる。髪を整える。白いブラウスに袖を通す。
薄く香りをまとう。職場へ向かう。仕事をする。
昼休みにカフェで本を開く。帰り道に花屋の前を通る。
部屋に帰って花の水を替える。
何も劇的には変わっていない。
けれど澪の世界は、以前よりほんの少しだけ奥行きを持っていた。
自分の中に生まれた言葉が誰かに届いた。
その事実が澪の身体の中で静かに温かく残っていた。
それは誰かに褒められた時の高揚感とは違う。
好きな人に優しくされた時の浮き上がるような嬉しさとも違った。
もっと低い場所で、根に近い場所でじんわりと自分を支えるものだった。
私の中にも蜜がある。
そしてその蜜は誰かに届くことがある。
その感覚は澪の背筋を少しだけ伸ばした。
数日後、澪は再びブログを開いた。
拍手がひとつ増えていた。
前の記事にも少しだけアクセスがあった。
何年も前に書いた読書感想。
雨の日に訪れたカフェの記録。
好きな小説の一文について書いた、短い記事。
それらに、ぽつり、ぽつりと足跡がついていた。
澪は少し不思議に思った。
新しい記事を読んだ人が過去の記事も読んでくれたのかもしれない。
誰かが澪の置いた小さな白い箱の中をそっと覗いてくれたのかもしれない。
澪は昔の記事を読み返した。
そこには今よりもずっと遠慮がちな自分がいた。
好きな本について書いているのにどこか言い切ることを怖がっている。
「私はこう思う」と書かずに「そういう見方もあるかもしれません」と濁している。
「好き」と言えばいいところを「嫌いではありません」と遠回りしている。
「美しい」と書けばいいところを「印象に残りました」と抑えている。
その文章を読んで澪は少し胸が痛くなった。
私は、言葉の中でも自分を薄めていたのだ。
嫌われないように。間違えないように。誰かに否定されないように。
本当は好きだったものを、好きだと言い切らなかった。
本当は美しいと思ったものを、美しいと言い切らなかった。
本当は寂しかったのに、寂しいと書かなかった。
本当は傷ついていたのに、傷ついたと書かなかった。
澪は古い記事の編集画面を開いた。直したくなったのだ。
けれどすぐには直さなかった。
その時の自分には、その時の精一杯があったのだ。
あの頃の澪はまだ花人という生き方を知らなかった。
自分の花も知らなかったし、蜜というものが自分の中にあることも知らなかった。
だから、薄い言葉しか出せなかったのではない。薄めなければ出せなかったのだ。
澪はそっと画面を閉じる。
消さなくていい。直さなくていい。
あの頃の言葉も、今の自分へ続く根の一部なのだ。
その夜、澪はノートに書いた。
私は昔の自分の弱さを消さなくていい。
薄めた言葉も、遠慮した好きも、言えなかった痛みも、全部、今の私の根になっている。
書いていると胸の奥が少しずつ静かになった。
その時、ブログに新しい通知が届く。
澪は一瞬体を固くした。
コメントではない。メッセージだった。
匿名の読書ブログには簡単なメッセージ機能がついていた。
これまで一度も使われたことのなかった場所。
澪はしばらく迷ってから開いた。
差出人の名前は知らないものだった。
そこには、長すぎない文章が書かれていた。
――はじめまして。
たまたま検索でこちらのブログに辿り着きました。
「遅れていたのではなく、育っていた」という言葉が忘れられなくて、何度も読み返しました。
私もずっと自分の人生だけ遅れているような気がしていました。
同世代の友人たちは結婚したり、子どもがいたり、仕事で役職についていたりするのに、私は何も形にできていない気がしていました。
でもあの記事を読んで、少しだけ泣きました。
もしかしたら私も、遅れていたのではなく、何かを育てていたのかもしれないと思えました。
ありがとうございます。
澪は最後まで読んだあと、しばらく画面から目を離せなかった。
手が震えていた。
知らない誰か。顔も、名前も、どこに住んでいるのかも分からない人。
けれど、その人の孤独が文章の向こうから静かに伝わってきた。
自分の人生だけ遅れているような気がしていた。
その一文は澪自身の胸にも深く刺さった。
澪もずっとそう思っていた。
佐伯が結婚した時。同級生の年賀状に家族写真が並んでいた時。
職場の若い女性たちが、未来を当たり前のように語っているのを聞いた時。
澪はいつも自分だけがどこかに取り残されているような気がしていた。
人生の列車に乗り遅れたような気がしていた。
けれど今、画面の向こうで同じような痛みを抱えた誰かが、澪の言葉に触れていた。
あの夜、職場で言われた一言に傷ついたこと。
帰ってから百合を見つめたこと。
ノートに書いたこと。
魔女に見せたこと。
怖がりながらブログに投稿したこと。
そのすべてが、この一通のメッセージへ繋がっていた。
澪はふいに思った。
痛みは、ただ私を苦しめるためだけに存在していたのではないのかもしれない。
もちろん痛みは痛みだ。傷ついたことを美化したくはない。
悲しかったことを無理に良かったことにしたくもない。
しかし、その痛みを自分の中で腐らせず言葉にし、蜜に変えた時、それは誰かの夜に届くことがある。
誰かが自分の人生を責める手を、ほんの少し緩めることがある。
澪は涙を拭った。
そしてゆっくりと返信を書いた。
――メッセージをありがとうございます。
私もずっと、自分だけが遅れているように感じていました。
だからこそ、この言葉が貴女に届いたことがとても嬉しいです。
どうか貴女の中で育っているものを、急いで否定しないでください。
見えない場所で育つものほど、ある日、花を咲かせるのかもしれません。
送信する前に澪はその文章を読み返した。
そこには以前のような過剰な遠慮はなかった。
もちろん完璧ではない。けれど澪の言葉だった。
誰かの正解をなぞるための言葉ではなく、自分の痛みから生まれた、自分の蜜を含んだ言葉だった。
送信したあと、澪は椅子にもたれた。
部屋の中には百合の香りが満ちている。
花は誰か一人のためだけに咲いているのではない。
しかしふさわしい誰かが近づいた時、その香りは確かに届く。
澪は目を閉じる。
その時、頭の中に魔女の声が響いた。
蜜は、貴女の中を満たすためだけのものではありません。
育った蜜は、いつか誰かへ渡っていくものです。
翌日、澪は秘密の花園へ向かった。
空はよく晴れていた。
季節は少しずつ移り変わり、風の中に新しい匂いが混じり始めていた。
花屋の前を通ると、白百合の隣に淡い芍薬が置かれていた。
丸く膨らんだ蕾。
まだ開ききっていない花。
けれどその内側に、たっぷりとした美が詰まっているのが分かる。
澪は足を止めた。
百合のまっすぐな美しさとは違う。
芍薬には、もう少し濃密で、柔らかく、重たく、豊かな気配があった。
澪はその蕾をしばらく見つめた。
花にもいろいろな咲き方がある。
静かに開く花。華やかにほどける花。
香りで知らせる花。色で惹きつける花。
夜に咲く花。雨の中で美しくなる花。
そう思うと、自分の百合という花も少しずつ分かってきた気がした。
澪は白い小さな花を一輪だけ買い、秘密の花園へ向かった。
黒い鉄の門をくぐるといつものように街の音が遠ざかった。
石畳の先にある温室には魔女がいた。
今日は黒いドレスに深い紫のショールをまとっていた。
その姿は夜明け前の空のようだ。
「いらっしゃいませ、澪さん。」
魔女は澪の顔を見るなり微笑んだ。
「今日は、少し違う顔をしていらっしゃいますね。」
澪は椅子に座り、バッグからノートを取り出した。
「メッセージが来たんです。」
「まあ。」
魔女は紅茶を注ぐ手を止めずに、静かに続きを待った。
澪はブログに届いたメッセージのことを話した。
自分と同じように、人生が遅れていると感じていた誰かが澪の言葉を読んで泣いたこと。
その人が少しだけ自分を責める手を緩めたこと。
そして自分の言葉が誰かに届いたことが、嬉しくて、怖くて、どう受け止めていいか分からないこと。
話し終えると魔女はしばらく黙っていた。
その沈黙は重くはなかった。
花の上に朝露が落ちるのを待つような、静かな沈黙だった。
やがて魔女は言った。
「澪さん。貴女の蜜が届いたのですね」
澪の胸が熱くなった。
「はい。」
小さく答えると、涙がこみ上げた。
「私、ずっと何も持っていないと思っていました。」
魔女は澪を見つめた。
「仕事も、ただ続けているだけで。恋愛もちゃんとしてこなかった。結婚もしていない。子どももいない。何か大きな実績があるわけでもない。だから、自分の人生には人に渡せるものなんて何もないと思っていました。」
言いながら澪の声が震えた。
「でも、私の中にあった痛みが誰かに届いたんです。私がずっと失敗だと思っていた時間が、誰かを少しだけ救ったんです。そう思ったら……」
澪は言葉を詰まらせた。
魔女はゆっくり頷いた。
「ええ。」
「私の人生は、無駄じゃなかったのかもしれないって……」
その瞬間、涙がこぼれた。
長い間、澪の中に沈んでいたものが静かに溶けていくようだった。
魔女は何も言わず、澪が泣くのを許してくれた。
泣き止ませようとしなかった。
励まそうともしなかった。
ただ、その涙が流れる場所を静かに守ってくれた。
やがて魔女は言った。
「澪さん。花人とは、自分だけを美しく飾る女ではありません。」
澪は涙を拭きながら魔女を見た。
「花人とは、自分の中に生まれたものをこの世界へ返していく女性です。」
「世界へ、返す……」
「ええ。」
魔女は窓の外の花々を見た。
「花は、自分のためだけに蜜を作っているわけではありません。もちろん、花自身が生きるためでもあります。
しかしその蜜はやがて誰かを呼び、誰かを満たし、何かを次の場所へ運んでいく。美は閉じ込めるものではありません。育てた美は、いつか世界へ流れていくものです。」
澪はその言葉を胸の奥で受け取った。
「私の言葉も……流れていくのでしょうか。」
「ええ。貴女が恐れずに、しかし雑に扱わずに、丁寧に差し出していけば。」
「やっぱり怖いです。」
澪は正直に言った。
「もっと読まれたら、もっと怖くなる気がします。否定されるかもしれない。誤解されるかもしれない。自分の中の大切なものを、雑に扱われるかもしれない。」
「その通りです。」
魔女ははっきりと言った。
「外へ出すということは光に当てることでもありますが、風にさらすことでもあります。すべての人が、貴女の蜜を美味しいと言うわけではない。すべての人が、貴女の香りを好むわけでもない。しかしだからといって蜜を腐らせてよい理由にはなりません。」
澪は黙って聞いていた。
「大切なのは、誰にでも好かれる蜜に薄めないことです。」
その言葉が澪の胸を深く打った。
誰にでも好かれる蜜に薄めない。
澪は昔のブログ記事を思い出した。
好きなのに好きと言えなかった言葉。
美しいのに美しいと言い切れなかった感想。
傷ついたのに傷ついたと書けなかった文章。
自分はずっと、誰にも嫌われないために自分の蜜を薄めていたのかもしれない。
「濃い蜜ほど、合う者と合わぬ者が分かれます。」
魔女は言った。
「しかしそれで良いのです。花の香りは万人に好かれるためのものではなく、ふさわしい者を呼び、ふさわしくない者を遠ざけるためのものでもあるのです。」
澪は静かに息を呑んだ。
ふさわしい者を呼び、ふさわしくない者を遠ざける。
その言葉はまだ澪には少し強く感じられた。
けれどどこかで分かる気もした。
自分の言葉を薄めれば、誰にも嫌われないかもしれない。
しかしその代わり、本当に届いてほしい人にも届かない。
自分の香りを消せば、攻撃されることは減るかもしれない。
しかしその代わり、ふさわしい人に見つけてもらうこともできない。
「私は……もっと書いてもいいのでしょうか?」
澪が尋ねると、魔女は微笑んだ。
「もちろんです。」
「でも、何を書けばいいのか分かりません。」
「貴女が本当に感じたことを。」
「それだけでいいんですか?」
「それがいちばん難しいのです。」
魔女の声は優しかった。
「人は、すぐに正しいことを書こうとします。役に立つことを書こうとします。褒められること、分かりやすいこと、嫌われないことを書こうとします。しかし花人の言葉は、まず貴女の奥から出てこなければなりません。」
「私の奥から……」
「ええ。誰かのために書く前に、まず貴女が貴女自身に嘘をつかないこと。そのうえで差し出された言葉だけが、蜜になるのです。」
澪はノートを開いた。
そして魔女の言葉を書き留めた。
誰にでも好かれる蜜に薄めない。
花の香りはふさわしい者を呼び、ふさわしくない者を遠ざける。
貴女の奥から出た言葉だけが、蜜になる。
書きながら、澪の胸の中にこれまでとは違う静かな決意が生まれていた。
たくさんの人に読まれたいわけではない。
有名になりたいわけでもない。褒められたいわけでもない。
しかし、自分の中で育ったものをもうなかったことにはしたくなかった。
自分の痛みをただの失敗として捨てたくなかった。
自分の孤独を恥ずかしいものとして隠し続けたくなかった。
それらを蜜に変えて、必要としている誰かへ届けたい。そう思った。
その時、温室の扉が少し開いた。
風が入ってくる。
花々の香りがふわりと揺れた。
澪はその香りの中に、どこか懐かしい匂いを感じた。
百合の香りとは違う。
薔薇でも、芍薬でもない。
どこかで知っているようで、まだ名前を思い出せない香り。
澪は顔を上げた。
「今の香り……」
魔女は何も言わず、静かに微笑んでいた。
「どこかで嗅いだことがある気がします。」
澪がそう言うと、魔女は窓の外へ視線を向けた。
「香りとは不思議なものです。」
「不思議、ですか?」
「ええ。言葉よりも先に記憶へ届くことがあります。」
澪はその言葉を聞き、胸の奥が小さく震えた。
香り。
それは、これまでの澪があまり意識してこなかったものだった。
見た目を整えること。花を飾ること。
言葉を書くこと。蜜を育てること。
それらを少しずつ学んできた。
けれど香りは違う。香りはもっと見えない。もっと逃げやすい。
けれど、たしかに届く。
もしかすると、自分の言葉にも、自分では気づいていない香りがあるのかもしれない。
魔女は澪を見た。
「澪さん。蜜を育てた花は、次に香りを知ることになります。」
「香りを、知る……」
「ええ。貴女が何者であるか。何を呼び、何を遠ざけるのか。誰に届き、誰には届かないのか。それを決めるのは、貴女の香りです。」
澪は魔女の言葉をすぐには理解できなかった。
しかしその響きだけは深く胸に残った。
香り。
自分の香り。
百合としての香り。
言葉の香り。
生き方の香り。
そのすべてが、これから何かを変えていく予感がした。
帰り際、澪は温室の入口で振り返った。
魔女はいつものように静かに立っている。
黒いドレス。深い紫のショール。
花々の奥に佇むその姿は、この世のものではないようでありながら、なぜか澪の中のどこかに繋がっているようでもあった。
「魔女さん。」
「はい。」
「私、書き続けてみます。」
魔女は微笑んだ。
「まだ怖いです。誰かに見つかるのも、見つからないのも、どちらも怖いです。」
「ええ。」
「でも、私の中にあるものをもう少し信じてみたいんです。」
魔女は澪の言葉を静かに受け取った。
「それでこそ、花人です。」
その言葉に澪は少し笑った。
黒い鉄の門を出ると街の音が戻ってきた。
車の音。人の声。遠くで鳴る信号の音。
いつもの街だった。
しかし澪の中では何かが変わっていた。
魔女と出会い、澪は花人として目覚めた。自分の人生はまだ取り戻せるのだと知った。
そして次に、澪は蜜を育てた。自分の中にも誰かに届くものがあるのだと知った。
世界は相変わらず優しいだけではない。
この世は地獄である。しかしだからこそ美も存在できる。
その意味が以前より少しだけ分かる気がした。
帰り道、澪は花屋の前で足を止めた。
閉店間際の店内に背の高い男性の姿が見えた。
黒に近い紺色のシャツ。整った横顔。
手には紙の束のようなものを持っている。
朝倉だった。
澪の胸が小さく跳ねる。
朝倉は店主と何かを話していた。
白い花を見ている。百合だろうか。それともまた別の花だろうか。
澪は一瞬、声をかけようか迷った。
けれどすぐには動かなかった。
以前の澪なら、偶然の再会に意味を探しすぎていたかもしれない。
運命だと思いたくなったかもしれない。
相手の視線ひとつで、心を大きく揺らしていたかもしれない。
しかし今の澪はただ静かにその光景を見つめた。
朝倉がふと顔を上げた。視線が合う。
彼は少し驚いたようにしたあと、静かに会釈した。
澪もゆっくりと会釈を返した。それだけだった。
言葉は交わさなかった。近づきもしなかった。
けれど澪の胸の中には、以前とは違う静かな余韻が残った。
送粉者の気配。
羽音のようなもの。
しかし澪はもう根を抜かなかった。
追いかけなかった。意味を急がなかった。
私は私の場所で咲いている。
私は私の蜜を育てている。
そしてこれから、私の香りを知っていく。
澪は花屋をあとにした。
夜の街には、少し湿った風が吹いている。
その風の中に、花の香りが混じっていた。
澪は深く息を吸う。
それは百合のようで、百合だけではない香り。
まだ名前の分からない、これからの自分の香り。
澪はその香りを胸の奥にしまいながら歩いた。
家に帰るとノートを開き、一行だけ書いた。
私の中にも、誰かに届く蜜がある。
その下に、少し迷ってからもう一行を書き足した。
ならば次は、私の香りを薄めずに生きてみたい。
窓辺の百合が夜の中で静かに香っていた。
澪はその花を見つめる。
花は何も説明しない。
ただ咲き、蜜を育て、香りを放つ。それだけで世界と関わっている。
それだけで誰かの記憶に残ることがある。
それだけでふさわしいものを呼び、ふさわしくないものを遠ざけることがある。
澪はゆっくりと目を閉じた。
もう、誰かの人生を見て、自分だけが遅れていると決めつけるのはやめようと思った。
私は遅れていたのではない。育っていた。
そして今、私の中で育った蜜はほんの少しだけ世界へ流れ始めた。
その夜、澪は静かに眠った。
夢の中で白い百合が咲いていた。
花の奥には蜜があり、その蜜に惹かれるように、遠くから小さな羽音が近づいてくる。
けれど澪はもう追いかけなかった。
ただ咲いていた。
白く、静かに、自分の香りを抱いたまま。
Season2「蜜を育てる女」最終話でした。
Season1で澪は花人という生き方に出会い、自分の人生をもう一度取り戻すための一歩を踏み出しました。
Season2では、その先にある“蜜を育てる”という段階を描いてきました。
蜜とはただ甘いものではありません。
傷ついた経験。長く抱えてきた孤独。誰にも言えなかった本音。自分だけが遅れているように感じた時間。言葉にできず、胸の奥で眠らせてきた感性。
それらもまた、丁寧に見つめ、自分の言葉で受け取り直した時、その人だけの蜜になります。
澪は自分には何もないと思っていました。
恋愛も、結婚も、仕事も、何ひとつ「形になっていない」と感じていました。
けれど彼女の中には、長い時間をかけて育ってきたものがありました。
それは静けさでした。痛みでした。感性でした。言葉でした。
そして今回、澪は初めてその蜜が誰かに届く瞬間を経験しました。
世間から見ればとても小さな出来事かもしれません。けれど花人の世界では、数の多さよりも蜜の濃さが大切です。
誰にでも薄く届く言葉ではなく、必要としているたった一人の胸に深く落ちる言葉。
それが本当の蜜なのです。
花人として生きるとは、自分だけが美しくなることではありません。
自分の中にある痛みや美しさをこの世界へ返していくこと。
自分が咲くことで、誰かの中に眠っていたものが静かに目を覚ますこと。
澪はまだその入口に立ったばかりです。
けれどもう以前の澪ではありません。
誰かに選ばれたら価値が生まれるのではない。誰かに愛されたら咲けるのではない。
まず自分が咲く。自分の蜜を育てる。そしてその蜜が必要な誰かへ届くことを信じる。
それが、Season2で澪が受け取った大きな学びでした。
そして物語は次の季節へ進みます。
蜜を育てた花は、次に何を知るのか。
それは香りです。
香りとは、その人が何者であるかを知らせるもの。
誰を呼び、誰を遠ざけ、どんな運命を引き寄せるのか。
Season3では、澪が自分の香りを薄めずに生きることを学んでいきます。
次回、Season3。
「香りは、運命を変える」

アーカイブ配信 7月17日(金)〜8月7日(金)
セミナー料金 ¥10,000-
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