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澪はその日、花屋へ向かっていた。
目的は百合を買うことだ。
窓辺に飾っていた白百合が、数日前から少しずつ花弁を落とし始めていた。
満開の時の堂々とした姿も、香りが深く部屋に満ちる夜も、花弁の端が少し透けて、終わりの気配を含み始めた朝も、澪はそのすべてが美しいと思った。
以前の澪なら、花が傷み始めると少し寂しくなった。
終わっていくものを見るのが苦手だったから。
萎れていく花を見ると、自分の時間まで一緒に終わっていくような気がした。
けれど今は少し違う。
花は咲く。
香る。
そして終わる。
その終わり方にさえ美がある。
花弁が落ちることは失敗ではない。
咲いた証だった。
澪は花瓶を洗いながら思った。
私も、終わったものを失敗と呼びすぎていた。
叶わなかった恋。言えなかった言葉。
遅れていると思い込んでいた時間。
誰にも見せずに閉じ込めてきた感性。
それらはただ無駄に終わったものではなく、自分の中で蜜になり、香りになろうとしていたものだったのかもしれない。
そのことを思うと、澪はもう花の終わりをただ悲しいだけのものとは思えなかった。
駅から少し歩いた先に、いつもの花屋がある。
白い壁。
木枠の窓。
店先に並ぶ季節の鉢植え。
入口の上についた、小さな金色のベル。
澪にとってその花屋は、ただ花を買う場所ではなくなっていた。
百合と出会う場所。
自分の花を思い出す場所。
そして、朝倉律と出会った場所。
あの日、白い百合を見ていた澪に朝倉は言った。
白い花は不思議ですね。
何もない色に見えるのに、いちばん誤魔化しがきかない。
余白があるほど、強く見える気がします。
その言葉は今も澪の中に残っている。
余白があるほど、強く見える。
その時、澪は初めて自分の静けさや空白を、欠けではなく余白として見てもいいのかもしれないと思った。
朝倉律。
装丁家。
白い花と言葉の余白を見る人。
以前、花屋の中にいる彼とガラス越しに視線が合った。
会釈だけ。それだけだった。
けれどその“それだけ”が澪の胸に静かに残った。
以前の澪なら、きっとそこに意味を探しすぎていただろう。
また会えた。これは運命かもしれない。
彼も私のことを覚えているのだろうか。
次は話せるだろうか。
そんなふうに心の中で物語を走らせていただろう。
けれど今は違う。
気配は気配のまま受け取る。
花は送粉者を追いかけない。
澪はその言葉を何度も思い出していた。
それでもその花屋の扉を開ける時、胸が少しだけ高鳴るのを止めることはできなかった。
ベルが鳴った。
店内には花と水の匂いが満ちている。
白い花が多い日だった。
百合。
カラー。
トルコキキョウ。
白い薔薇。
奥には淡い紫のスカビオサが置かれていた。
澪はいつものように白百合の前に立った。
今日は蕾が少し多い百合が入っている。
まだ閉じている花。これから開く花。すでに少しだけ香り始めている花。
澪は茎の長さや蕾の向きを見ながら、どれを部屋に連れて帰ろうか迷った。
その時だ。
「今日は蕾の百合ですか?」
静かな声がした。
澪の心臓が小さく跳ねる。
振り向く前に声で分かった。
朝倉律だ。
彼は店の奥、白い花の棚の前に立っていた。
黒に近い紺色のシャツ。薄いグレーのジャケット。
手には数枚の紙と、小さな革の手帳。
初めて会った時と同じように、彼の佇まいには余計なものがなかった。
派手ではないけれど、視線が自然とそこへ戻ってしまう。
紙に引かれた細い黒線のような人。
澪はそんなふうに思った。
「朝倉さん。」
名前を口にしてから、澪は恥ずかしくなった。
相手は自分の名前を名乗ってくれたわけではない。
店主が呼んでいた名前を澪が覚えていただけだ。
けれど朝倉は、驚いた様子も見せず穏やかに会釈した。
「覚えていてくださったんですね。」
「はい。店主さんがそう呼ばれていたので。」
「そうでしたね。」
朝倉は笑った。
「白石さん、でしたよね?」
今度は澪が驚いた。
「覚えていてくださったんですか。」
「店主さんが、以前そう呼んでいらしたので。」
そう言われて澪は思い出した。
前に花を包んでもらう時、店主が予約票を確認しながら「白石さん」と呼んだことがあった。
朝倉もそれを聞いていたのだ。
たったそれだけ。
けれど名前を覚えられていたことが、澪の胸をじんわりと温かくした。
それと同時に少し怖くもなった。
覚えていてくれた。それだけで心が動く。
送粉者の気配とは、こういうものなのかもしれない。
ほんの小さな羽音なのに、花の奥に眠っていたものを揺らしてしまう。
朝倉は百合を見た。
「今日は、開いた花より蕾を見ていらっしゃるように見えました。」
「そうですね。最近、蕾も好きになりました。」
「前は違ったんですか?」
澪は少し考えた。
「前は、もう咲いている花の方が好きでした。」
「どうしてですか?」
「分かりやすいから、かもしれません。」
言ってから澪は自分の言葉に少し驚いた。
朝倉は何も急かさず、静かに続きを待っている。
その沈黙が澪には不思議と話しやすかった。
「咲いている花は、綺麗だとすぐ分かります。でも蕾は、まだ途中だから。昔の私は、途中のものを信じるのが苦手だったのかもしれません。」
朝倉は蕾の百合を見つめた。
「途中のものを信じる。」
「はい。結果が出ていないものとか、形になっていないものとか、まだ誰にも見つけられていないものとか。」
澪はふっと笑った。
「そういうものを、私はずっと失敗みたいに思っていました。」
朝倉はすぐには返事をしなかった。
花屋の中に静かな時間が流れた。
水を替える音。紙が擦れる音。
店の奥で店主が花を整える音。
朝倉はやがて言った。
「白石さんの言葉は、不思議ですね。」
澪の胸が少し固くなった。
「不思議、ですか?」
「はい。」
朝倉は澪の方を見た。
その視線は踏み込んでこないけれど、表面だけを見ているわけでもない。
「誰かに教わっているというより、思い出しているみたいです。」
澪は息を止めた。
誰かに教わっているというより、思い出しているみたい。
その言葉は澪の胸の深いところへ落ちた。
なぜだろう。朝倉は何も知らない。
魔女のことも、秘密の花園のことも、花人のことも。
澪が今、何を学び、何を書き、何に怯えているのかも知らない。
それなのにその一言は、あまりにも今の澪に近かった。
思い出している。
澪は魔女の言葉を思い出した。
《本当に貴女に必要なものは、初めて出会った時にも、どこか懐かしく感じることがあります。》
花人という生き方も、秘密の花園も、魔女の言葉も。
澪はそれらを新しく学んでいるつもりだったけれど、もしかすると本当は、ずっと昔から自分の奥にあった声を少しずつ思い出しているだけなのかもしれない。
澪は朝倉の言葉にどう返せばいいか分からなかった。
「……そんなふうに聞こえますか?」
ようやくそう聞いた。
朝倉は頷いた。
「ええ。借り物の言葉ではない感じがします。でも、今作ったばかりの言葉でもない。もっと奥に眠っていたものが、少しずつ出てきているような。」
澪の目の奥が熱くなった。
それはあまりにも自分が欲しかった言葉だった。
ブログの反応よりも。拍手の数よりも。誰かからの「分かりやすい」「優しい」という言葉よりも。
澪は自分の奥から出てきたものを、奥から出てきたものとして見つけてもらった気がした。
嬉しかった。怖いほど嬉しかった。
だからこそ、澪は自分の胸の動きに気をつけなければならないと思った。
この人に認められたい。この人に読んでほしい。
この人に、もっと言葉を聞いてほしい。
そんな気持ちがふっと立ち上がりかけたからだ。
佐伯の時とは違う。
あの頃のような、選ばれない自分を埋めてもらいたい焦りではない。
けれど確かに澪の中で何かが動いた。
送粉者に出会うと花は嬉しい。その喜びは悪ではない。
けれどその喜びに根を預けてしまえば、また自分の土を失う。
澪は胸の中でそっと息を整えた。
「ありがとうございます。」
短くそう言った。
朝倉は微笑んだ。
「こちらこそ、変なことを言ってすみません。」
「いえ。嬉しかったです。」
その言葉は自然に出た。
その時、店主が奥から出てきた。
「朝倉さん、例の表紙のお花、今日は少し珍しい白い花が入っていますよ。」
「ありがとうございます。」
朝倉は店主の方へ視線を向けた。
澪は少しだけ距離を取るように百合を見た。
例の表紙。
白い花。
朝倉は、また本の装丁のために花を探しに来ているのだろう。
以前彼は言っていた。
言葉に合う花を探すのが、思ったより難しくて。
澪はその言葉も覚えていた。
言葉に合う花。
花に合う言葉ではなく、言葉に合う花。
朝倉が店主と花を見ている間、澪は百合を一輪選んだ。
まだ蕾の多いもの。
今すぐに満開ではない花。
けれど茎はまっすぐで、蕾の先には確かな白が見えていた。
澪はそれを見て思った。
途中のものを信じてみたい。自分自身も含めて。
花を包んでもらっている間、朝倉が少し離れた場所から声をかけた。
「白石さんは、何かを書かれるんですか?」
澪は手元の財布を持つ指に力が入った。
「え?」
「言葉の選び方が、書く人のようだと思ったので。」
澪の胸が跳ねた。
ブログのことを話すべきか一瞬迷った。
誰にも教えていない匿名ブログ。小さな白い箱。
そこに自分の蜜と香りを少しずつ置いている。
朝倉に読んでほしいという気持ちがふっと顔を出した。
でも同時に怖かった。
読まれたらどうなるのだろう。
認められたら嬉しいけれど、もし何も感じてもらえなかったら。
もし、思っていたほどではないと思われたら。
もし、薄いと言われたら。
あるいは重いと言われたら。
澪は心の中で揺れた。
そして魔女の言葉を思い出した。
《送粉者は、花の価値を決める者ではありません。》
澪はゆっくり息を吸った。
「少しだけ書いています。」
そう答えた。
「少しだけ。」
朝倉は繰り返した。
「はい。誰かに見せるためというより、自分の中にあるものを忘れないために。」
それは嘘ではなかった。
ブログのことをすべて話したわけではない。
けれど、自分の言葉を隠しすぎてもいなかった。
今の澪にできるちょうどいい距離だった。
朝倉は頷いた。
「いいですね。忘れないために書くというのは。」
「朝倉さんは、装丁をされる時何を大事にしているんですか?」
澪は思い切って聞いた。
朝倉は少し考えた。
「本が、自分の声で立てるようにすることですかね。」
「本が、自分の声で……」
「ええ。目立たせようとしすぎると、本来の声が消えることがあります。逆に無難にしすぎると、誰にも見つけてもらえないこともある。」
澪は息を呑んだ。
それは魔女が香りについて言っていたことと重なった。
薄い香りは嫌われにくい。
しかし、本当に見つけるはずだった人まで通り過ぎてしまう。
朝倉は続けた。
「装丁は飾ることではなく、出会わせることに近い気がします。」
「出会わせること。」
「はい。その本を必要としている人に、ちゃんと見つけてもらうための入口を作る。そんな感じです。」
澪の胸が震えた。
出会わせること。必要としている人に、見つけてもらうための入口を作る。
それは花が香りを放つことにも似ている。
そして澪の言葉が誰かに届くことにも似ていた。
朝倉律という人は、花と言葉と人の間に、静かな橋を架ける人なのかもしれない。
送粉者。
その言葉が澪の中でまた鳴った。
朝倉は店主から白い花を数本受け取った。
「今日はこれにします。」
それは白いアネモネだった。
中心に暗い色を持つ白い花。白なのにただ清らかなだけではない。中央に黒に近い深い色を抱いている。
澪はその花に目を奪われた。
「綺麗ですね。」
「ええ。」
朝倉は白いアネモネを見た。
「白い花の中に、影があるのがいいと思って。」
澪の胸が反応した。
痛みを知っている白。以前澪が百合に感じたもの。
白は何もなかった色ではない。
傷も、影も、孤独も知ったうえでなお白くある色。
澪はその言葉を言いそうになったが、飲み込んだ。
今はまだ、すべてを渡さなくていい。
花は蜜を一度に流し尽くさない。
朝倉は会計を済ませ、花を受け取った。
「では、また。」
その言葉に澪の胸が少し揺れた。
また。それは社交辞令かもしれない。
花屋でまた会うかもしれない、という軽い意味かもしれない。
けれど澪の中では小さな羽音のように響いた。
「はい。また。」
澪も静かに返した。
朝倉は店を出て行った。扉のベルが鳴る。
その音がしばらく花屋の中に残った。
澪は包まれた百合を胸に抱える。
追いかけなかった。
名前をもっと聞くこともしなかった。
ブログを教えることもしなかった。
けれど、何もなかったわけではない。
一つの言葉が澪の中に残った。
誰かに教わっているというより、思い出しているみたいですね。
澪は花屋を出たあと、そのまま秘密の花園へ向かった。
黒い鉄の門に近づくにつれて、今日もあの懐かしい香りが漂ってきた。
百合のようで、白檀のようで、雨上がりの土のような香り。
初めてなのに懐かしい香り。
澪はその香りを胸に吸い込んだ。
温室の中には魔女がいた。
今日は黒いドレスに、薄い白のショールをかけていた。
その白は朝倉が選んだアネモネの白にも似ていた。
「いらっしゃいませ、澪さん。」
魔女は微笑んだ。
「今日は、羽音を聞いた顔をしていらっしゃいますね。」
澪は思わず立ち止まった。
「どうして分かるんですか?」
「花は送粉者の気配に触れると、温度が変わりますから。」
澪は椅子に座り、花屋でのことを話した。
朝倉律と再会したこと。
蕾の百合の話をしたこと。
自分の言葉を「誰かに教わっているというより、思い出しているみたいだ。」と言われたこと。
朝倉が装丁について「本が自分の声で立てるようにする。」と言っていたこと。
「必要としている人に見つけてもらうための入口を作る。」と話していたこと。
そして白いアネモネを選んでいたこと。
話し終えると、澪は少し黙った。
魔女は紅茶を注ぎながら静かに言った。
「朝倉律さんは、面白い方ですね。」
澪は驚いた。
「名前……」
「貴女がお話しくださいました。」
「そうでしたか。」
澪は恥ずかしくなった。
自分が思っている以上に、朝倉のことを細かく話してしまっていた。
魔女は微笑んだ。
「澪さん。送粉者に出会うと花は嬉しいものです。」
澪は胸の奥を見透かされた気がした。
「はい。」
小さく答えた。
「嬉しかったです。名前を覚えていてくださったことも。私の言葉をそんなふうに言ってくださったことも。」
「ええ。」
「でも、怖くもなりました。」
「なぜ?」
澪は膝の上で手を組んだ。
「朝倉さんに、認められたいと思ってしまったからです。」
その言葉を口にすると、胸が少し痛んだ。
「ブログを読んでほしいとも、少し思いました。でも同時に、もし読まれて何も感じてもらえなかったらどうしようって思いました。」
魔女は静かに頷いた。
澪は続けた。
「佐伯さんの時とは違うと思います。あの時みたいに、選ばれない自分を埋めてほしいわけではない。でも、朝倉さんに見つけられた気がして……そのことが嬉しくて、怖いんです。」
魔女は紅茶のカップを澪の前に置いた。
「澪さん。送粉者は花を喜ばせることがあります。それは悪いことではありません。花は送粉者の気配に喜んでよいのです。羽音に胸を震わせてもよい。近づいてくる存在に、光を感じてもよい。」
魔女の声は優しかった。
「恋の始まりも、創作の始まりも、運命の入口も、最初はそうした小さな震えから始まることがあります。」
澪の胸が少し緩んだ。
喜んでいい。
怖がらなくてもいい。
その言葉は澪を少し安心させた。
しかし魔女は続けた。
「ただし」
澪は背筋を伸ばした。
「送粉者に、自分の価値を預けてはなりません。」
その言葉は鋭かった。
「朝倉律さんが貴女の言葉を美しいと言えば、貴女の言葉に価値が生まれるのではありません。彼が何も感じなかったとしても、貴女の言葉の価値が消えるわけでもありません。」
澪は胸に手を当てた。
分かっている。分かっているはずだった。
けれどそれを誰かに言ってもらう必要があった。
「送粉者は花粉を運ぶ者です。花の価値を決める審判ではありません。」
魔女は言った。
「貴女の中で育ったものを、次の場所へ運ぶことがある。貴女がまだ知らない扉を開くことがある。しかしその者の反応ひとつで、貴女が花であることを疑ってはなりません。」
澪はゆっくり頷いた。
「はい。」
「嬉しさを禁じる必要はありません。ときめきを否定する必要も。ただ、その嬉しさのために根を抜かないことです。」
以前聞いた言葉がまた戻ってきた。
送粉者の気配がした。
けれど私は、私の根を抜かなかった。
あの時よりも今の方が、言葉の意味が深く分かる気がした。
根を抜かないとは相手に近づかないことではない。
恋をしないことでもない。
心を動かさないことでもない。
自分の土を、自分のまま持ち続けること。
相手の視線や言葉で、自分の価値を上下させないこと。
澪は花人手帖を開いた。
そして書いた。
――送粉者に出会うと花は嬉しい。
――その嬉しさは悪ではない。
――でも送粉者に自分の価値を預ければ、また地獄へ戻る。
――私は羽音に喜んでもいい。けれど根は抜かない。
書き終えると澪は深く息を吐いた。
温室には今日も懐かしい香りが満ちていた。
澪はふと、朝倉の言葉を思い出した。
誰かに教わっているというより、思い出しているみたいですね。
澪は魔女を見た。
「魔女さん。」
「はい。」
「朝倉さんに、私の言葉は誰かに教わっているというより、思い出しているみたいだと言われました。」
「ええ。」
「それを聞いた時、少し不思議な気持ちになりました。私は魔女さんに教わっていると思っていたんです。花人のことも、蜜のことも、香りのことも。」
魔女は静かに澪を見ていた。
「でも本当は、教わっているというより、思い出しているんでしょうか?」
魔女はすぐには答えなかった。
その沈黙の中で、温室の花々が穏やかに香っていた。
やがて魔女は言った。
「大切なことは、誰かから与えられるのではありません。」
「では、どこから?」
「貴女の奥から、目覚めてくるのです。」
澪の胸が小さく震えた。
「私はその目覚めに、ほんの少し形を与えているだけです。」
澪はなぜか、その言葉に胸が詰まった。
魔女はいつもすべてを教えてくれる存在だと思っていた。
けれど今、その姿が少し違って見えた。
魔女は澪の外側にいる先生でありながら、同時に澪の内側に眠っていた声の輪郭のようにも思えた。
温室の硝子に、澪と魔女の姿が映っていた。
一瞬、二人の影が重なって見えた。
澪は瞬きをした。次の瞬間には、ただ向かい合う二人の姿に戻っていた。
けれどその一瞬が澪の中に残った。
懐かしい香り。思い出しているような言葉。硝子に重なった影。
まだ意味は分からない。
けれど、何かが静かに繋がり始めている気がした。
その夜、澪は家へ帰ると買ってきた蕾の百合を花瓶に活けた。
まだ開いていない花。
けれど近づくとほんの少し香りがした。
澪は、その香りを吸い込んだ。
朝倉の言葉。
魔女の言葉。
自分の手帖に書いた言葉。
それらが、胸の奥でゆっくり混ざっていく。
澪はパソコンを開かなかった。
今日はブログを書かなくていい気がする。
代わりにノートを開き、今日のことを書いた。
――朝倉さんと花屋で再会した。
――彼は私の言葉を「思い出しているみたい。」と言った。
――嬉しかった。
――怖かった。
――認められたいと思った。
――けれど、私は彼に価値を決めてもらうために書いているのではない。
――私の言葉は、私の奥から出てくるもの。
――誰かに届くことは嬉しい。
――でも、届くかどうかで花であることを疑わない。
澪はペンを置いた。
窓の外では夜が深まっている。
部屋の中には、まだ開かない百合の蕾があった。
その姿が今日の自分のように思える。
まだ開ききっていない。まだ香りも淡い。けれど内側では確かに何かが育っている。
澪は手帖の最後に一行書いた。
――送粉者の気配に喜びながら、私は私の土に立つ。
その一文を見つめながら、澪は目を閉じた。
遠くで羽音がした気がした。
けれど澪は、もう追いかけなかった。
ただ自分の場所で、これから開く百合の蕾のように、静かに息をしていた。
第三話では、澪が再び朝倉律と出会いました。
朝倉律は、澪にとってただの恋愛相手ではありません。
もちろん、これから二人の関係は少しずつ動いていきますが、今の段階で大切なのは、朝倉が澪の“送粉者”として現れ始めていることです。
送粉者とは、花の価値を決める存在ではありません。
花を救う王子でもありません。
その花の中で育ったものを、次の場所へ運んでいく存在です。
朝倉は澪の言葉に反応しました。
「誰かに教わっているというより、思い出しているみたいですね。」
この一言は澪にとってとても大きなもの。
澪はこれまで、魔女から花人としての生き方を教わっていると思っていましたが、もしかすると本当は、魔女の言葉を通して自分の奥に眠っていたものを思い出しているのかもしれない。
この感覚は物語の後半にもつながっていきます。
誰かに導かれているようで、本当は自分の奥にあった声へ戻っていく。
花人になるとは、外側から別の誰かに変わることではありません。
自分の奥に眠っていた花を思い出すことです。
そして今回、澪は朝倉に認められたい自分にも気づきました。
これはとても自然なことです。
誰かに見つけられるのは嬉しい。誰かに美しいと言われたら心は動く。
言葉を大切にしている人に、自分の言葉を見つけられたら、嬉しくて、怖くて、胸が震える。
それは悪いことではありません。
花は送粉者の気配に喜んでいいのです。
しかしその喜びの中で忘れてはいけないことがあります。
送粉者に自分の価値を預けないこと。
相手が認めてくれたから価値が生まれるのではない。相手が反応してくれなかったから価値が消えるのでもない。
花は送粉者が来る前から花です。
送粉者が来ない日も花です。
そして送粉者が近づいた時も、自分の根を抜かずに咲いていること。
それが花人としての恋や出会いの美しさです。
澪はまだ、朝倉に恋をしているとは言い切れません。
しかし彼の存在によって、自分の内側が揺れ始めていることには気づいています。
この揺れを依存にするのか。
それとも、自分の花をさらに深く知るきっかけにするのか。
ここから澪はもう一段深く、自分の香りと向き合っていくことになります。
貴女にも、そんな存在はいませんか?
その人に認められたい。
その人に見つけられたい。
その人に「美しい」と言われたい。
そう願う相手。
しかしどうか思い出してください。
貴女の価値は、その人の言葉で初めて生まれるものではありません。
貴女はその人に見つけられる前からすでに花です。
送粉者の気配に喜びながら、それでも自分の土に立つこと。
それが花人の出会い方なのです。
次回、第四話。
「香りを薄める女」
どうぞお楽しみに。
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