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澪はその朝、いつもより少し早く目が覚めた。
窓の外はまだ薄い灰色をしていた。
夜と朝の境目。
街が動き出す前の静かな時間。
澪はベッドの中でしばらく天井を見つめていた。
昨夜投稿したブログの記事のことが、目覚めた瞬間から胸の中にあった。
「見つけられるために、香りを薄めない」
いつもなら投稿したあとはすぐに画面を閉じて、しばらく見ないようにする。
反応があるのも怖い。
反応がないのも怖い。
だから少し時間を置いてからそっと覗くようにしていたが、今回は少し違った。
怖い。でも逃げたくない。
自分の香りを薄めずに出した言葉を、自分自身がなかったことにしたくなかった。
澪はベッドから起き上がり、カーテンを開けた。
朝の光が部屋の中へ入ってくる。
窓辺の百合はついに一輪だけ開き始めていた。
昨日まで固く閉じていた蕾が、花弁の先を少しほどき、白い内側を見せている。
まだ満開ではないが確かに開き始めている。
澪はその姿をしばらく見つめた。
咲き始めの花には、どこか危うい美しさがある。
まだ完成していない。
まだ守られていない。
外の空気に触れたばかりの花弁は柔らかく、見ているこちらが息をひそめたくなるほど無防備だった。
澪は、昨夜投稿した自分の文章もこの百合のようだと思った。
まだ開ききっていない。
まだ震えている。
けれど確かに外へ出た。
澪はパソコンを開いた。
ブログにログインする。指先が少し冷たかった。
通知が三つ来ていた。
拍手が二つ。コメントが一つ。
澪は胸の鼓動が少し速くなるのを感じながら、まず拍手の印を見た。
二つ。たった二つだけれど、澪には十分すぎるほど大きく感じられた。
誰かが読んだ。
誰かがあの少し濃い言葉の前で、ほんの一瞬でも立ち止まってくれた。
澪は息を吐いた。そしてコメントを開いた。
そこには短くこう書かれていた。
――この文章、何度も読み返しました。
自分もずっと、誰かに見つけられるために言葉や態度を薄めていた気がします。
「届かない相手がいても、それは失敗ではない。」という一文に救われました。
澪は画面を見つめたまま動けなかった。
届いた。また、届いた。
自分の奥から出てきた言葉が、知らない誰かの奥へそっと触れた。
そのことが胸の中に温かく広がった。
澪はゆっくりと椅子にもたれる。
嬉しかった。けれどその嬉しさは、以前よりも少し落ち着いていた。
拍手が増えたから嬉しいのではない。
褒められたから価値が生まれたのでもない。
ただ、自分が薄めずに出した香りに、ふさわしい誰かが気づいてくれた。
そのことが嬉しかった。
澪は返信を書いた。
――読んでくださってありがとうございます。
「届かない相手がいても、それは失敗ではない」という言葉を受け取っていただけてとても嬉しいです。
私自身にも、今必要な言葉でした。
送信してから澪は花人手帖を開いた。
そして書く。
――香りを薄めなかった言葉が届いた。
その一文を書いた時、窓辺の百合の香りがほんの少しだけ深くなった気がした。
その日は少し良い一日になるような気がした。
少なくとも朝の澪は、そう思っていた。
昼休み。
澪は会社近くのカフェでいつものように一人で過ごしていた。
窓際の席。
白いカップのカフェラテ。
鞄の中には花人手帖と文庫本。
けれどその日は、本を開いても文字があまり頭に入ってこなかった。
朝のコメントがまだ胸に残っていたからだ。
嬉しかった。その嬉しさを大切にしたかった。
同時に怖かった。
誰かに届くと、もっと届いてほしくなる。もっと受け取ってほしくなる。
その気持ちが芽生えると、また誰かの反応を待つ自分に戻ってしまいそうで澪は少し警戒していた。
その時、スマートフォンが震えた。
ブログの通知だった。新しいコメント。
澪の胸が小さく跳ねた。朝のような温かい言葉だろうか。
それともただの拍手だろうか。
澪は少し迷ってから画面を開いた。
コメントは短かった。
――少し重く感じました。言いたいことは分かるのですが、もう少し明るい方が読みやすい気がします。
澪の胸の奥がすっと冷えた。
悪意のある言葉ではない。
乱暴でもない。攻撃的でもない。
むしろ丁寧に書かれている。
言いたいことは分かる。
もう少し明るい方が読みやすい。ただ、それだけ。
けれど澪の指先は画面の上で止まったままだった。
少し重く感じました。その一文が胸の中で何度も響いた。
重い。やっぱり重かったのだろうか。
もっと明るくすればよかったのだろうか。
昨日、薄めた下書きを消さずに、そちらを出せばよかったのだろうか。
澪はカフェラテを一口飲んだが味がよく分からなかった。
胸の奥がざわざわしている。
さっきまで温かかった場所に、小さな冷たい風が入り込んだようだった。
たった一つのコメント。
それだけで朝の嬉しさが少し霞んでいく。
救われましたという言葉よりも、重く感じましたという言葉の方がなぜこんなにも強く残るのだろう。
澪はスマートフォンを伏せた。
もう見ない方がいい。そう思った。
けれど伏せた画面の向こうに、そのコメントがまだ光っている気がした。
重い。明るい方が読みやすい。
それは今まで澪がずっと恐れていた言葉だった。
自分の香りを薄めずに出したら、誰かにそう思われるのではないか。
その恐れが現実になった。
大げさに傷つくようなことではない。そう自分に言い聞かせた。
誰にでも合う文章なんてない。そう分かっている。魔女も言っていた。
香りは万人に好かれるためのものではない。
ふさわしい者を呼び、ふさわしくない者を遠ざけるためのものでもある。
分かっている。頭では分かっている。
それなのに胸は痛かった。
澪は手帖を開いた。
何かを書こうとしてペンを止めた。
言葉が出なかった。代わりに手帖の余白に小さく書いた。
――香りが嫌われる日は、痛い。
その一文を書いた瞬間、澪の目の奥が熱くなった。
嫌われたと言うほどのことではない。
否定されたと言うほどでもない。
しかし自分の奥から出したものに「少し重い」と言われることは、やはり痛かった。
澪はその痛みをなかったことにしなかった。
午後の仕事はあまり集中できなかった。
資料を確認しながらも、ふとした瞬間にコメントの言葉が浮かんでくる。
少し重く感じました。
もう少し明るい方が読みやすい気がします。
澪は何度も自分の文章を思い返した。
見つけられることは嬉しい。
咲き方を変えてしまいそうになることがある。
香りを薄めた言葉は、本当に届いてほしかった場所にはもう届かないのかもしれない。
やっぱり言いすぎだったのだろうか。
もっと軽く、もっと柔らかく、もっと一般的な言葉にすべきだったのだろうか。
ブログの記事を編集し直したい衝動が湧いてきた。
少しだけ表現を和らげようか。
「香り」という言葉を減らそうか。
「見つけられる」という表現も少し自意識が強いかもしれない。
「届かない相手がいても、それは失敗ではない」も、言い切りすぎだっただろうか。
澪は心の中で文章を削り始めていた。
その時隣の席の同僚が声をかけてきた。
「白石さん、これ確認お願いしてもいいですか?」
「あ、はい。」
澪は慌てて資料を受け取った。
仕事に戻らなければ。
今はブログのことを考えている場合ではない。
そう思うのに、胸の奥ではまだ自分の香りを消そうとする手が動き続けていた。
定時を過ぎ会社を出る頃には、澪は少し疲れていた。
朝はあんなに百合が開き始めたような気持ちだったのに。
今は花弁を閉じ直したい気分だった。
出したものをもう一度内側へしまいたい。
咲いたことをなかったことにしたい。
そんな自分に気づいて、澪は苦笑した。
花は一度開いた花弁を、怖いからといって簡単には閉じられない。
それが外へ出すということなのだ。
会社を出ると空は曇っていた。
雨が降りそうな湿った風。街の匂いが少し重く感じられる。
澪はそのまま帰るつもりだったが、気づくと足は秘密の花園へ向かっていた。
黒い鉄の門の前に着いた時、ぽつりと雨が落ちてきた。
門に絡まる蔦が雨粒を受けて濃い緑に光っている。
澪はその門をくぐった。
花園の中は雨の匂いに満ちていた。
湿った土。濡れた葉。花弁に溜まる水。
香りは晴れた日よりもずっと濃く感じられた。
雨に濡れると花は香りを失うのではなく、むしろ奥の方にあるものを滲ませるのかもしれない。
澪はそんなことを思いながら温室へ向かった。
扉を開けると魔女がいた。
そして、もうひとり。芍薬の女性だった。
柔らかな淡い色のワンピースを着て、ゆったりと椅子に座っている。
その佇まいは見る者をふっとほどくような豊かな柔らかさがあった。
以前、澪に蜜を流す相手について教えてくれた女性。
優しさを守ること。蜜を誰にでも流さないこと。
冷たくなるのではなく、蜜を守ること。
澪はその言葉に何度も救われていた。
芍薬の女性は澪を見ると穏やかに微笑んだ。
「澪さん。お久しぶりです。」
「お久しぶりです。」
澪は軽く頭を下げた。
魔女は澪の顔を見てすぐに言った。
「香りが、誰かに好まれなかったのですね。」
澪は立ち止まった。
「……どうして分かるんですか?」
「今日の貴女は、少し花弁を閉じたがっているように見えます。」
澪は胸を突かれたような気がした。
花弁を閉じたがっている。まさにその通りだった。
澪は椅子に座り、ブログのコメントについて話した。
朝、救われたというコメントが届いたこと。
嬉しかったこと。
けれど昼に、少し重く感じた、もっと明るい方が読みやすいというコメントが届いたこと。
悪意はないと分かっているのに、その言葉が胸に刺さってしまったこと。
そして記事を書き直したくなっていること。
話し終えると温室の中に静けさが落ちた。
雨が硝子を叩く音が細かく響いている。
芍薬の女性が静かに口を開いた。
「香りがあるということは、好きな人と苦手な人が分かれるということです。」
澪は顔を上げた。
芍薬の女性は優しく微笑んでいた。
「私は昔、誰にとっても心地よい人でいようとしていました。」
その声は穏やかだった。
けれど、その奥には深い時間があった。
「柔らかく、優しく、受け入れやすく。誰の機嫌も損ねないように。誰にも重いと思われないように。誰の前でもちょうどよい温度でいようとしていました。」
澪は黙って聞いていた。
「でもそうしているうちに、自分の香りが分からなくなりました。」
芍薬の女性は自分の指先を見つめた。
「誰かには甘く、誰かには軽く、誰かには明るく、誰かには都合よく。相手に合わせて香りを変えているつもりでした。でも本当は、少しずつ香りそのものを失っていたのです。」
澪は胸の奥が痛くなった。
それは自分にも分かる感覚だった。
誰かに合わせること。
嫌われないように、重くならないように、明るく、柔らかく、扱いやすくいること。
それは一見優しさに見えるが、自分の香りを失っていくことでもある。
「澪さん。」
芍薬の女性は言った。
「貴女の言葉を重いと感じる人がいることは、貴女の言葉に重みがあるということでもあります。」
澪は息を止めた。
「重み……」
「ええ。重みがあるから、必要な人には深く落ちる。でも今はその重みを受け取れない人には、少し重く感じられる。それは自然なことじゃないでしょうか。」
澪の胸に少しだけ温かいものが戻ってきた。
重い。
その言葉をただの否定のように感じていた。
けれど、重みがあるから深く落ちる。そう考えたことはなかった。
魔女が紅茶を注ぎながら言った。
「澪さん。貴女の香りを嫌う人は、貴女の運命へ入らなくてよい人です。」
その言葉は静かだったが、澪の中のどこかを大きく揺らした。
「運命へ、入らなくてよい人……」
「ええ。」
魔女はカップを澪の前に置いた。
「すべての人を貴女の花園へ招き入れる必要はありません。」
澪は紅茶の湯気を見つめる。
「でも、嫌われるのは怖いです。」
「もちろん、怖いでしょうね。」
魔女は頷いた。
「自分の香りを出すとは、境界線を引くことでもあります。この香りが好きな方はどうぞ。この香りが苦手な方は、どうぞ別の花へ。そう世界へ告げることですから。」
それは怖い。本当に怖い。
誰かが離れていくかもしれない。
誰かが「違う」と言うかもしれない。
誰かが「私には合わない」と通り過ぎるかもしれない。
けれど、それは失敗ではないのだろうか?
魔女は澪の心を読んだように続けた。
「通り過ぎる者がいることは、失敗ではありませんよ。香りが届いた証です。」
「届いた証……」
「ええ。何も香っていなければ、誰も好まず、誰も嫌いません。誰も立ち止まらず、誰も離れていかない。ただ通り過ぎるだけです、」
澪はその言葉に深く沈黙した。
好かれることだけが香りの証ではない。
嫌われることも、合わないと言われることも、香りが届いた証なのかもしれない。
もちろん痛い。痛くないわけない。
でもそれは自分が間違っていた証ではない。香った証なのだ。
芍薬の女性がそっと言った。
「澪さん。香りを嫌われた日は、自分を責めるのではなく、自分の花を労ってあげてください。」
「労る……」
「はい。今日は外の風に当たったのですね。今日は誰かに苦手だと言われても、自分の香りを消さなかったのですね。よく咲いていましたね、と。」
澪の目に涙が滲んだ。
そんなふうに自分へ言ってもいいのだろうか。
嫌われた日。合わないと言われた日。重いと言われた日。
そういう日はいつも、自分の何がいけなかったのかを探していた。
どこを直せばいいのか。どうすれば受け入れられるのか。
どこを削れば次は傷つかずに済むのか。そんなことばかり考えていた。
でも本当はそういう日こそ、自分の花を責めるのではなく、労ってあげる日なのかもしれない。
澪は紅茶を一口飲んだ。
温かさが胸の奥へ落ちていく。
「私、記事を書き直したくなりました。」
澪は正直に言った。
「重いと言われた部分を少し削りたくなりました。もう少し明るく、もう少し柔らかく、誰にでも読めるように。」
魔女は頷いた。
「それも自然な反応です。」
「でも、それをしたら……」
「貴女は、救われたと言ってくださった方の元へ届いた香りまで、消してしまうかもしれません。」
澪は朝のコメントを思い出した。
この文章、何度も読み返しました。
「届かない相手がいても、それは失敗ではない」という一文に救われました。
あの人には届いた。
あの人には必要だった。
それなのに、別の誰かに重いと言われたからといって、その香りを消してしまっていいのだろうか。
澪はゆっくり首を横に振った。
「消したくありません。」
「ええ。」
「痛いけど、消したくないです。」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥で何かが静かに決まった。
痛い。でも消さない。
それは澪にとって大きな選択だった。
魔女は微笑んだ。
「それが香りを持つということです。」
雨はまだ温室の硝子を叩いていた。
しかし花園の香りはさっきよりも少し深く感じられた。
雨に濡れて、花も葉も土も、自分の奥にある匂いを隠せなくなっている。
澪は思った。
私も濡れているんだ。
誰かの言葉に濡れて、少し傷ついて、それでも奥の香りを滲ませている。
それでいいのかもしれない。
家に帰る頃には雨は小降りになっていた。
街灯の下で濡れた道路が鈍く光っている。
澪は少しだけ花屋の前で足を止めた。
閉店後の店内は暗かったけれど、ガラス越しに白い花の影が見えた。
百合かもしれない。カラーかもしれない。
あるいは別の花かもしれない。
暗い店内でも白い花はぼんやりと浮かび上がっていた。
澪はその白を見ながら思った。
白い花は、暗い場所でこそ見えることがある。
明るい場所では目立たない白も、夜の中ではふっと浮かび上がる。
自分の言葉もそんなふうに届くことがあるのかもしれない。
明るいものだけを求めている人には重く感じられるけど、暗い夜の中にいる誰かには、その白が必要になることがある。
澪は家に帰るとすぐにブログを開いた。
例のコメントがそこにあった。
――少し重く感じました。
言いたいことは分かるのですが、もう少し明るい方が読みやすい気がします。
澪はしばらくそのコメントを見つめた。
もう、朝ほど胸は冷えなかった。
痛みはあるけど、その痛みに飲み込まれてはいなかった。
澪は返信欄を開く。
何度か迷ったあと、こう書いた。
――読んでくださってありがとうございます。
たしかに少し重さのある文章だったかもしれません。
それでも今回は、自分の中にあったものを薄めずに置いてみたいと思って書きました。
感じたことを伝えてくださってありがとうございます。
送信する前に澪は何度も読み返した。
言い訳ではない。反論でもない。
自分を曲げてもいない。相手を責めてもいない。
ただ自分の場所に立った返事。
澪は送信した。
胸が少し震えたけど後悔はなかった。
次に、朝のコメントをもう一度開いた。
救われました、と書いてくれた人。
澪はその言葉も改めて読み返した。
そして思った。
ひとつの香りがある人には重く、ある人には救いになる。
それは不思議で、少し怖くて、でも美しいことだった。
澪はノートを開いた。
そして今日のことを書いた。
――私の香りを重いと言う人がいた。
――私の香りに救われたと言う人もいた。
――どちらも私の香りが届いた証だ。
――私はすべての人に好かれるために咲くのではない。
――私はだ必要としてくれる誰かに届くために、自分の香りを薄めない。
書き終えると、窓辺の百合を見た。
朝開き始めていた花は、夜にはもう少し花弁をほどいていた。
雨の湿気のせいか香りが濃い。
澪はその香りを吸い込みながら、今日の自分を少し労ることにした。
「よく咲いていましたね。」
小さくそう呟いた。
誰に聞かせるでもなく。自分に向けて。
その一言を口にした途端、涙がひと粒こぼれた。
香りを嫌われる日は痛い。
けれど、その痛みを越えてもなお香ることを選ぶ時、花は少しだけ深くなるのだろう。
澪は花人手帖の最後に一行を書いた。
――香りが嫌われた日、私は私の花を責めず、労る女でありたい。
その夜、澪はブログの記事を消さなかった。
書き直しもしなかった。
ただそのまま置いておいた。
誰かには重いかもしれない。誰かには必要かもしれない。
誰かには届かないかもしれない。誰かには深く届くかもしれない。
そのすべてを引き受けて、澪の言葉は小さな白い箱の中で静かに香っていた。
窓の外では雨が上がっていた。
濡れた街のどこかから、花の匂いが微かに流れてくる。
澪は目を閉じた。今日は少し傷ついた。
けれど、香りを消さなかった。
それだけで十分だった。
夢の中で澪は雨の花園に立っていた。
濡れた花々が夜の中で静かに香っている。
ある花の香りを好む者もいれば、別の花の香りを避ける者もいる。
それでも花たちは自分の場所で咲いていた。
誰かに好かれるためではなく。
誰かに嫌われないためでもなく。
ただ自分の季節に従って。
澪もその中で一輪の百合として立っていた。
雨に濡れながら。少し震えながら。
それでも白く香っていた。
第五話では、澪が初めて“自分の香りが好まれない”という経験をしました。
香りを薄めずに書いた文章。自分の奥から出てきた言葉。
それはある人には深く届き、「救われました」と受け取られました。
しかし別の人には、「少し重い」と感じられました。
ここが花人としてとても大切な場面です。
自分の香りを出すということは、全員に好かれることではありません。
むしろ好きな人と苦手な人が分かれるということです。
濃い香りほど深く届く人には深く届きますが、その香りを今は受け取れない人には、重く感じられることもあります。
それは失敗ではありません。
香りが届いた証です。
何も香っていなければ誰も好まず、誰も嫌いません。誰も立ち止まらず、誰も離れていきません。
ただ通り過ぎるだけです。
しかし貴女が本当の香りを放ち始めると、近づく人が現れます。そして離れていく人も現れます。
その両方が起きて初めて、貴女の香りは世界に触れ始めるのです。
澪は今回傷つきました。
頭では分かっていても、実際に「重い」と言われれば痛い。
自分の奥から出したものほど、軽く否定された時の痛みは深くなります。
しかし澪は記事を消しませんでした。薄め直しもしませんでした。
自分の香りに救われた人がいたことも、自分の香りを重いと感じた人がいたことも、どちらも受け止めました。
これはとても大きな変化です。
以前の澪ならきっとすぐに自分を責めていたでしょう。
もっと明るくすればよかった。もっと軽くすればよかった。もっと普通にすればよかった。
そうやって自分の香りを消そうとしていたかもしれません。
しかし今の澪は違います。
香りが嫌われた日に自分の花を責めるのではなく、労ることを覚え始めました。
「よく咲いていましたね。」
そう自分に言ってあげること。
これは花人にとってとても大切な優しさです。
香りを放つことは勇気のいることです。
見られること。好まれること。
嫌われること。通り過ぎられること。
そのすべてを引き受けながら、それでも自分の場所で咲くこと。
貴女も、どこかで自分の香りを嫌われることがあるかもしれません。
重いと言われた。独特だと言われた。
分かりにくいと言われた。強すぎると言われた。
その時、どうかすぐに自分の香りを消さないでください。
その香りを必要としている人も必ずどこかにいます。
貴女の香りは全員に好かれるためのものではありません。
貴女の運命にふさわしい人へ届くためのものです。
次回、Season3 最終話。
「香りは、ふさわしい扉を開ける」
どうぞお楽しみに。
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