真島あみオフィシャルブログ
21世紀的魔女論

シーズン4第1話 菫という女


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澪は、そのメッセージを何度も読み返していた。

――私はまだ咲いていいのかもしれないと思いました。

その一文は澪の胸の奥に静かに残り続けていた。

ブログに届いた見知らぬ女性からのメッセージ。

顔も知らない。本名も知らない。
年齢も住んでいる場所も何も知らない。

しかしその文章の向こうにひとりの女性が立っているのを、澪は確かに感じていた。

 

一度、人生の大きな約束が終わってしまった人。

自分は女として失敗したのだと思っていた人。

周りだけが前へ進み、自分だけが終わった季節の中に取り残されているように感じていた人。

そして澪の文章を読んで、「私はまだ咲いていいのかもしれない」と書いてくれた人。

澪はその女性を心の中で「菫さん」と呼んでいた。

菫。

本当の名前ではないが、あのメッセージから漂ってきた気配は澪には小さな菫の花のように思えた。

控えめで、少し俯いていて、それでも寒さの中に消えない紫を持っている花。

大きく咲くのではなく、静かな場所で春の入口をそっと知らせる花。

澪は菫の花を思い浮かべるたびに、あの女性の中にまだ小さな蕾が残っているような気がした。

その蕾はきっと本人にも見えていない。

終わった季節の落ち葉に隠れて、もう咲かないものだと思われている。

けれど完全には死んでいない。

土の下で、誰にも気づかれない場所で、まだ微かに息をしている。

 

澪はその気配がどうしても気になっていた。

自分が何かをしてあげられるわけではない。そう分かっている。魔女も言っていた。

花人は誰かを救うために咲くのではありません。
自分の花として咲くことで、誰かが自分の花を思い出すきっかけになるのです。

救おうとしてはならない。

その言葉を澪は何度も思い出した。

それでも気になる。

あの女性は今、どんな部屋でこの夜を過ごしているのだろう。

何を失い、何を手放せずにいて、何を終わったものだと思い込んでいるのだろう。

澪はパソコンの前に座り、菫へ送った返信をもう一度開いた。

 

――はじめまして。
大切なメッセージを送ってくださり、ありがとうございます。

「まだ咲いていいのかもしれない」と思っていただけたこと、とても嬉しく読みました。

人生の中で、何かが終わってしまったように感じる季節は本当に苦しいものだと思います。

しかし終わった季節の中でしか育たない花も、きっとあるのだと思います。

どうか、ご自分の中にまだ残っている小さな蕾を急いで否定しないでください。

咲くと決めたその日が、その人の季節の始まりなのかもしれません。

 

何度読んでも最後の一文で胸が少し痛んだ。

咲くと決めたその日が、その人の季節の始まり。

それはかつて魔女が澪にくれた言葉だった。

花人として生きる女性に、遅すぎる春はありません。
咲くと決めたその日が、貴女の季節の始まりです。

あの日澪はその言葉に救われた。

人生が終わったと思った夜。

佐伯が結婚し、その妻が妊娠していると知り、自分だけが誰にも選ばれず取り残されてしまったように感じた夜。

黒い鉄の門をくぐり、秘密の花園で魔女に出会った。

そこで初めて「終わりだと思った場所が、花として目覚める入口になることがある」のだと知った。

そして今その言葉は澪の中を通って、別の誰かへ渡っていこうとしている。

澪はそのことが嬉しくもあり怖くもあった。

私が誰かに言葉を渡している。

私の言葉が誰かの人生に少し触れている。

その事実は澪の胸を温かくした。

しかし同時に、背筋を伸ばさせるような緊張もあった。

間違えたくない。傷つけたくない。軽く扱いたくない。

自分の言葉が、相手の痛みに不用意に触れてしまうことが怖かった。

 

以前の澪ならきっとそんなことは考えなかった。

自分には誰かへ渡せるものなど何もないと思っていたから。

誰かに影響を与えるなど、遠い世界の話だと思っていたから。

けれど澪は知った。自分の中にも誰かに届く蜜があること。

自分の香りを薄めなければ、ふさわしい誰かがその香りに気づくこと。

そして今、澪は初めて向き合っていた。

私が咲くことで、誰かが自分の花を思い出すことがある。

その美しさと怖さに。

 

その時、ブログに新しい通知が届いた。

澪の胸が小さく鳴る。

差出人は菫だった。

本当の名前ではないが、澪はもうその表示名を見る前からきっと彼女だと分かった。

メッセージを開く。

そこには前より少し長い文章が書かれていた。

 

――お返事をいただけると思っていなかったので、何度も読み返してしまいました。
ありがとうございます。

「終わった季節の中でしか育たない花もある」という言葉にまた泣いてしまいました。

私は、長く付き合っていた人と結婚の話が出ていました。
具体的に式場を探していた時期もありました。

この人と人生を進めるのだと思っていました。

でも終わってしまいました。

理由はいろいろあります。どちらか一方だけが悪かったわけではありません。

でも私は、ずっと自分が失敗したのだと思っていました。

女として選ばれなかった。
大切にされなかった。
何年もかけた時間を形にできなかった。
周りは結婚したり、子どもがいたり、仕事で評価されたりしているのに、私だけが終わった場所に立ったままです。

普段は普通に働いています。
人と話す時は明るくしているつもりです。でも家に帰ると時間が止まってしまいます。

彼との写真も、旅行の半券も、式場のパンフレットも、捨てられません。

捨てたら本当に私の人生が終わってしまうような気がして。でも持っているのも苦しいです。

私はどうしたら終わった季節から出られるのでしょうか?

 

澪は最後の一文を読んだまま、しばらく動けなかった。

私はどうしたら終わった季節から出られるのでしょうか。

その言葉は澪の胸にも深く刺さった。

かつての自分も同じ場所にいたのだ。

佐伯との恋は、菫のように結婚の約束があったわけではない。

交際していたわけでもない。

長い時間を共に過ごした関係でもない。

しかし澪にとって佐伯は「いつか選ばれるかもしれない」という淡い未来そのものだった。

その未来が消えた時、澪は自分の人生まで終わったように感じた。

彼が自分を選ばなかったことよりも、彼を通して見ていた“いつかの私”が消えたことが苦しかった。

いつか愛される私。

いつか結婚する私。

いつか誰かの一番になる私。

いつか遅れていない女になれる私。

その“いつか”が崩れた時、澪は自分の時間が止まってしまったように感じた。

 

菫もきっとそうなのだ。

彼を失っただけではない。

彼と一緒に進むはずだった未来を失った。

その未来の中にいた自分を失った。だから終わった季節から出られない。

澪は返信欄を開いた。しかし指が止まる。

何を書けばいいのだろう。

「大丈夫です。」などと言えない。

「時間が解決します。」などとも言いたくない。

「新しい恋をしましょう!」なんてあまりにも乱暴だ。

菫の痛みはそんな言葉で触れていいものではない。

澪はパソコンの前で深く息を吐いた。

分からない。今の私には、分からない。

そう思った瞬間情けなくなった。

誰かの入口になったかもしれないと感じていたのに、いざその人が痛みを差し出してくると自分は何もできない。

何を言えばいいのか分からない。

どう受け止めればいいのか分からない。

澪は花人手帖を開く。

そして震える手で書いた。

 

――私は菫さんを救いたいのだろうか。

 

書いてすぐその文字をじっと見つめた。

救いたい。その言葉には甘い罠がある気がした。

誰かを救える自分になりたい。

誰かに必要とされたい。

誰かの人生に意味を与えたい。

それは一見美しい願いのように見える。

しかしその奥には、自分の価値を誰かの変化で証明したい欲が潜んでいることもある。

澪はそのことが怖かった。

私は菫さんを本当に見ているのだろうか。

それとも、菫さんを通して「誰かを導ける自分」になりたがっているだけなのだろうか。

その問いに澪はすぐに答えられなかった。

だから返信はすぐに書かなかった。

パソコンを閉じ、鞄に花人手帖を入れる。

そして秘密の花園へ向かった。

 

外は夕方の光が少しずつ沈み始めていた。

街の輪郭が柔らかくなり、人々の足音が一日の終わりへ向かって流れていく。

澪は歩きながら菫の言葉を思い出していた。

式場のパンフレット。旅行の半券。写真。

捨てたら本当に終わってしまうような気がするもの。

持っているのも苦しいのに手放せないもの。

それは物ではないのだと思った。

その中に閉じ込められているのは過去そのものではなく、「終わらせられなかった自分」なのだ。

黒い鉄の門の前に着くと澪は足を止めた。

今日の花園はいつもより静かだった。

門に絡まる蔦の葉が、夕暮れの光を受けて深い緑に沈んでいる。

その下に小さな紫の花が咲いていた。

菫だった。

澪は息を呑んだ。

こんなところに以前から咲いていただろうか。

小さな花。

見落としてしまいそうなほど控えめで、けれど一度気づくと目を離せない紫。

澪はそっとしゃがみ込み、その花を見つめた。

「菫さん……」

思わず呟いた。

もちろんその花はメッセージの彼女ではない。

けれど澪には、菫という女の気配がもう花園の入口へ近づいているように思えた。

 

温室へ向かうと魔女が待っていた。

黒いドレス。

今日は、淡い紫の石がついた指輪をしていた。

澪はそれを見てまた菫を思い出す。

魔女は微笑んだ。

「香りに導かれた女性が、門の前まで来たのですね。」

澪は胸の奥が震えた。

「やっぱり……」

「ええ。」

「魔女さんには分かるんですね。」

「貴女がもう、分かっているのではありませんか?」

澪は黙った。

確かに分かっていた。

菫はまだ物理的にこの花園へ来たわけではないが、彼女の言葉はもう門の前に立っている。

終わった季節から出られずに、黒い鉄の門の前で迷っている。

入っていいのか分からない。

まだ咲いていいのか分からない。

それでもどこかで花園の香りに気づいてしまった。

そんな気配がした。

 

澪は椅子に座り、菫から届いたメッセージを魔女に話した。

長く付き合っていた恋人との別れ。

結婚の話が出ていたこと。

式場を探していたこと。

終わった後も、写真や半券やパンフレットを捨てられないこと。

持っているのも苦しいのに、捨てたら本当に終わってしまう気がすること。

そして最後の問い。

“私は、どうしたら終わった季節から出られるのでしょうか?”

話し終えると温室の中に静かな沈黙が落ちた。

外では風が葉を揺らしている。

小さな水音が奥の方から聞こえていた。

澪は膝の上で手を組んだ。

「私、何と返せばいいのか分かりませんでした。」

魔女は静かに頷いた。

「分からなくていいのですよ。人の痛みに、すぐ答えを差し出せると思う方が危ういことです。」

その言葉に澪の胸が少し緩んだ。

 

魔女は続けた。

「澪さん。菫さんを救おうとしてはなりません。」

澪は息を呑んだ。さっき自分が手帖に書いた言葉。

私は菫さんを救いたいのだろうか。それを魔女が見ていたかのようだった。

「救いたいと思うのは、いけないことですか?」

澪が尋ねると魔女は首を横に振った。

「いいえ。しかしその願いには注意が必要です。」

「注意……」

「ええ。誰かを救いたいという願いの中には、時に相手を自分の正しさへ連れていきたい欲が混ざります。」

澪は黙って聞いていた。

「貴女が変われば私は安心できる。貴女が咲けば私の言葉が正しかったと証明される。貴女が救われれば、私には価値があると思える。」

魔女の声は優しかったが、その内容は鋭かった。

澪の胸に少し痛みが走る。

自分の中にも、まったくないとは言えなかったからだ。

菫のメッセージを読んだ時、澪は確かに胸が震えた。

私の言葉が届いた。私の香りが誰かを入口まで導いた。

そのことは嬉しかった。そしてもっと何かしてあげたいと思った。

けれどその奥に、「私が誰かの役に立てる人になった」という甘さがなかったとは言えない。

 

澪は小さく息を吐いた。

「私は菫さんのためと言いながら、自分の価値を確かめたかったのかもしれません。」

魔女は責めることなく頷いた。

「それに気づけたならよろしいのです。」

澪の目の奥が少し熱くなった。

魔女は紅茶を澪の前に置く。

「花人は誰かを救うために咲くのではありません。」

澪はゆっくり顔を上げた。

「自分の花として咲くことで、誰かが自分の花を思い出すきっかけになるのです。」

以前も聞いた言葉。けれど今、菫の痛みを前にして聞くと、その意味がさらに深く感じられた。

「では、私はどうすればいいのでしょう?」

澪が尋ねると魔女は静かに言った。

「答えを与えるのではなく、門の存在を知らせなさい。」

「門の存在……」

「ええ。終わった季節の中にいる人は、そこが世界のすべてだと思ってしまいます。もう道はない。もう春は来ない。もう咲く場所は残っていない。そう信じているのです。」

澪は菫のメッセージを思い出した。

私だけが終わった場所に立ったままです。

 

「けれど、実際には門がある。」

魔女は言った。

「そこをくぐるかどうかは本人が決めること。貴女にできるのは、門の気配を伝えることだけです。」

澪は深く息を吸った。

答えを与えるのではない。救うのではない。門の存在を知らせる。

それならできるかもしれない。

自分もかつて門を見つけた。

魔女に救われたというより、魔女は自分がまだ咲ける場所へ続く門を見せてくれたのだ。

くぐったのは澪自身だった。

泣きながら、迷いながら、それでも自分の足で門をくぐった。

菫にもきっとその瞬間が必要なのだ。

誰かに抱えられて運ばれるのではなく、自分の足で、終わった季節の外へ出る瞬間が。

魔女は温室の外へ視線を向けた。

「菫さんは今、終わった季節を“失敗”と呼んでいます。」

「はい。」

「しかし、終わったものは必ずしも失敗ではありません。」

澪は魔女を見た。

「その季節が役目を終えたということもあるのです。」

その言葉に澪の胸が静かに鳴った。

終わったものは失敗ではない。

季節が、役目を終えた。

それは菫だけでなく、澪自身にも必要な言葉だった。

佐伯への恋。自分の人生が遅れていると思っていた時間。

痛みの中でしか見えなかったもの。

それらもただの失敗ではなく、ある季節の役目だったのかもしれない。

 

「魔女さん。」

「はい。」

「菫さんは、花人になれるのでしょうか?」

魔女は微笑んだ。

「その問いは少し違います。」

「違う?」

「菫さんはもう花を持っています。ただ、ご自分の花を忘れているだけです。」

澪は胸の奥が温かくなった。

花人になる。

それは何か特別な資格を得ることではない。

外から花を与えられることでもない。

自分の中にすでにある花を思い出すこと。

「では、菫さんの花は……」

澪が言いかけると、魔女はゆっくり首を横に振った。

「それは、今はまだ言わぬ方がよろしいでしょう。」

「どうしてですか?」

「花の名は、ふさわしい時に告げられるものです。」

魔女の声は静かだった。

「早すぎる名は時に人を縛ります。その方が自分の痛みを少し語り、自分の季節を見つめる準備ができた時、花の名は自然と響くものです。」

澪は頷いた。

確かに、今の菫にいきなり花の名前を告げてもきっと受け取れないかもしれない。

まずは終わった季節の中にいる自分を、責めずに見つめること。

そこからだ。

 

「私は、菫さんに何と返信すればいいでしょう?」

澪が尋ねると魔女は少し笑った。

「私の言葉ではなく、貴女の言葉で。」

以前も聞いた気がする言葉。

私の言葉ではなく、貴女の言葉で。

魔女の言葉をそのまま借りるのではない。

澪の中を通し、澪の蜜にし、澪の香りを含ませて、菫へ渡す。

それが今の澪にできることなのだ。

花園を出る頃、外はすっかり夜になっていた。

黒い鉄の門のそばに、小さな菫の花がまだ咲いていた。

澪はその前で少しだけ立ち止まった。

「門はあります。」

誰に向けるでもなく、小さく呟いた。

そして家へ帰った。

 

部屋に入ると百合の香りが澪を迎えた。

窓辺の花は今日も静かに咲いている。

澪はパソコンを開き、菫への返信を書き始めた。

何度も消した。何度も書き直した。

励ましすぎないように。答えを押しつけないように。

でも門の存在だけは、そっと知らせるように。

澪はゆっくりと言葉を選んだ。

 

――メッセージをありがとうございます。

大切なことを話してくださって、ありがとうございます。

「捨てたら本当に終わってしまう気がする」そのお気持ちを読んで、胸が痛みました。

思い出の品を手放せないのは、弱いからでも、未練がましいからでもないと思います。

そこにはきっとその人との過去だけではなく、その人と進むはずだった未来も入っているのだと思います。

だから苦しいのだと思います。

無理に捨てなくてもいいと思います。でも、持ち続けることで貴女が苦しいのなら、いつかその思い出を“失敗の証”ではなく、“役目を終えた季節”として見送る日が来てもいいのかもしれません。

終わったものは必ずしも貴女が失敗した証ではありません。

その季節が、役目を終えたということもあるのだと思います。

今すぐ前を向かなくてもいい。でも、今いる場所が世界のすべてではないことだけは、どうか忘れないでください。

終わった季節の外にも、きっと門はあります。

 

澪はそこまで書いて手を止めた。

最後に少し迷ってから一文を加えた。

 

――貴女の中にまだ残っている花を、私は信じたいです。

 

その文章を見つめながら、澪の胸が静かに震えた。

これは魔女の言葉そのものではない。

魔女から受け取ったものが、澪の中で言葉になったものだった。

澪は深く息を吸い、送信した。

送信したあとすぐに画面を閉じた。

返事を急がなくていい。

菫がすぐに何かを受け取れなくてもいい。

その言葉が届くかどうかは、澪が支配することではない。

花は香りの行き先をすべて決められない。

ただ、自分の場所で香るだけ。

澪は花人手帖を開いた。

そして書いた。

 

――私は誰かを救うために咲くのではない。

――私は私の花として咲くことで、誰かが自分の花を思い出す入口になる。

――答えを渡すのではなく、門の存在を知らせる。

 

書き終えると窓辺の百合が静かに香った。

その香りに包まれながら澪は少しだけ目を閉じた。

その夜、澪は夢を見た。

黒い鉄の門の前にひとりの女性が立っている。

顔はまだ見えない。

けれどその女性の足元には、小さな菫の花が咲いていた。

女性は門の前で立ち尽くしている。

入りたいのか。逃げたいのか。

自分でも分からないように見えた。

その手には小さな箱があった。

古い写真。旅行の半券。折りたたまれた白い紙。

箱の中身までは見えない。

けれど澪には、それが彼女の終わった季節なのだと分かった。

 

女性はその箱を抱きしめたまま、黒い鉄の門を見上げている。

その時門の奥から、白い花の香りが流れてきた。

女性の肩が小さく震えた。

そして門の向こうから魔女の声がした。

「貴女の季節は終わったのではありません。ただ、次の花を思い出す時が来ただけです。」

女性はゆっくりと顔を上げた。

夢の中で、澪は遠くからその姿を見ていた。

助けに走り寄ることはしなかった。

手を引くこともしなかった。

ただ門のこちら側で、静かに立っていた。

一輪の百合として。

その時、女性の足元の菫が夜の中で小さく揺れた。

 

 

澪は目を覚ました。

部屋には朝の光が入っていた。

窓辺の百合が静かに香っている。

夢の中の門の匂いが、まだ胸の奥に残っていた。

澪は花人手帖を開き、最後に一行を書いた。

 

――菫という女性が、門の前に立っている。

 

その下にもう一行。

 

――私は、救うのではなく、咲いて待つ。

 

 

 


 

あとがき

Season4が始まりました。

Season1で澪は花人として目覚めました。

Season2で澪は自分の中に蜜があることを知りました。

Season3で澪は自分の香りを薄めずに放つことを学びました。

そしてSeason4では、その香りに導かれて別の女性が秘密の花園の入口へ近づいてきます。

その女性を澪は心の中で「菫」と呼びました。

本当の名前ではありませんが、澪は彼女の文章から小さな菫の花のような気配を感じ取りました。

控えめで、少し俯いていて、それでもまだ消えていない色を持っている花。

 

菫は人生の大きな約束を失いました。

長く付き合った人。

結婚の話が出ていた人。

一緒に未来を進むはずだった人。

その関係が終わった時、彼女は恋人だけを失ったのではありません。

その人と共に生きるはずだった未来。その未来の中にいた自分。それらも一緒に失ったように感じていました。

だから思い出の品を手放せない。

捨てたら本当に終わってしまう気がする。けれど持っているのも苦しい。

この感覚は恋愛に限らず多くの女性がどこかで経験するものかもしれません。

終わった仕事。終わった関係。終わった夢。もう戻れない季節。

それを「失敗」と呼んでしまう時、私たちは長くその場所から動けなくなります。

 

しかし魔女は言いました。

終わったものは、必ずしも失敗ではない。

その季節が役目を終えたということもある。

この視点はSeason4の大きな軸になっていきます。

そして今回、澪は大切なことに気づき始めました。

誰かを救おうとしてはならない、ということです。

誰かの痛みに触れた時、私たちはつい「何かしてあげたい」と思います。

その気持ちは優しさでもありますが、そこには時々、「相手を変えたい」「自分の言葉で救いたい」「自分の価値を証明したい」という欲が混ざることがあります。

花人は誰かを救うために咲くのではありません。

自分の花として咲くことで、誰かが自分の花を思い出すきっかけになるのです。

澪は菫を救うのではなく、門の存在を知らせることを選びました。

終わった季節の外にも門はある。

その門をくぐるかどうかは菫自身が決めること。

澪にできるのは、自分の花として咲き、その入口に小さな灯りを置くことだけです。

 

Season4は、澪が誰かの入口になっていく季節です。

そして同時に、菫自身が自分の花を思い出していく物語でもあります。

菫はまだ門の前にいます。

手には終わった季節の箱を抱えています。

その箱をどうするのか。

その季節を失敗ではなく何と呼び直すのか。

そして彼女の本当の花は何なのか。

物語はここから深まっていきます。

 

 

次回、第二話。

「終わった季節の女」

どうぞお楽しみに。

 

 

 

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