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澪はその夜、ブログの記事を消さなかった。
「見つけられるために、香りを薄めない」
その記事は小さな白い箱の中で静かに残っていた。
誰かには届いた。誰かには、重いと言われた。
その両方を受け取ったあとも、澪は記事を編集し直さなかった。
もちろん胸が痛まなかったわけではない。
「少し重く感じました。」
その言葉はまだ時々、胸の中をかすめた。
朝、髪を整えている時。
通勤電車の窓に映る自分を見た時。
仕事の途中でふと手が止まった時。
あの一文は雨のあとの冷たい雫のように、澪の心へぽたりと落ちてきた。
しかし以前のように、そこから自分を責めることは少なくなっていた。
重いと言われた。
だからといって私の言葉が間違っていたわけではない。
届かない人がいた。
だからといって届いた人の存在までなかったことにしてはいけない。
澪はそう何度も自分に言い聞かせた。
窓辺の百合は数日前よりさらに開いていた。
最初にほどけた一輪に続いて、隣の蕾も少しずつ白い花弁を見せ始めている。
満開の手前。
香りが濃くなり始める頃。
澪は花の水を替えながらその香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
百合の香りは決して軽くはない。
部屋に一本あるだけで空気が変わる。
好きな人には深く美しい香りだが、苦手な人には強すぎる香り。
それでも百合は百合として香っている。
自分の香りを誰かに合わせて半分にしたりはしない。
澪は小さく呟いた。
「よく咲いていますね。」
それは百合に向けた言葉であり、少しだけ、自分に向けた言葉でもあった。
あの日、魔女と芍薬の女性に教わった。
香りが嫌われた日は自分の花を責めるのではなく、労ってあげること。
今日は外の風に当たったのですね。
今日は誰かに苦手だと言われても、自分の香りを消さなかったのですね。
よく咲いていましたね、と。
澪はまだその言葉を自分に向けるのが少し照れくさかったが、それでも言ってみると胸の奥が少しだけ柔らかくなる。
自分に厳しくすることは簡単だった。
もっと良くしなさい。
もっと分かりやすくしなさい。
もっと明るくしなさい。
もっと普通にしなさい。
そんな言葉なら何年も自分に言い続けてきたが、「よく咲いていましたね。」と自分へ言うことは、澪にとってまだ新しい祈りだった。
その日も澪はいつものように会社へ向かった。
白いブラウス。
淡い香り。
鞄の中には、花人手帖と読みかけの本。
電車の中で澪はブログを開かなかった。
通知が来ているかもしれない。来ていないかもしれない。
どちらでも、今日はすぐに見なくていいと思った。
反応を見る前に自分の足で一日を始めたかった。
会社では、社内広報の記事の修正が残っていた。
前回の打ち合わせで、「もう少し明るめに」「サラッと読めるように」と言われた文章。
澪はその資料を開き、しばらく画面を見つめた。
仕事の文章には仕事の役割がある。それは分かっている。
自分のブログのように、自分の香りをそのまま濃く出せばいいわけではない。
しかしだからといって、自分の感じたものをすべて消してしまう必要もない。
薄めるとは、嫌われないために本質を消すこと。
調えるとは、届くべき相手へ届くように本質を美しく整えること。
魔女の言葉を思い出しながら、澪は文章を整えた。
前より少し明るく。けれど空っぽにはしない。
読みやすく。けれど心の温度を消さない。
社内の人たちが疲れているなら、ただ明るく励ますのではなく、「疲れていても、今日ここにいることには意味がある」と伝わるように。
澪は冒頭を書き直した。
忙しい日々の中では、自分の仕事がただ流れていくだけの作業のように感じられることがあります。
しかし誰かが整えた資料が、次の人の安心につながることがあります。
誰かが確認した小さな数字が、大きな判断を支えていることがあります。
目立たない仕事の中にも、確かに誰かの一日を支える力があります。
書き終えて澪は読み返した。
重すぎないが、軽すぎもしない。
社内広報としては少し情緒があるかもしれないが、それは澪の言葉だった。
仕事の器に合わせて調えた澪の香りだった。
澪はその原稿を上司へ送る。
しばらくして返信が来た。
――確認しました。前回より読みやすくなっていますね。
でも白石さんらしい温度も残っていて良いと思います。これで進めましょう。
澪はその文面を見つめた。
白石さんらしい温度。
以前ならその言葉に必要以上に舞い上がっていたかもしれない。あるいはもっと褒められたいと思ったかもしれないが、今は静かに嬉しかった。
自分の香りを全部消さずに、場所に合わせて調えることができた。そのことがひとつの小さな実践のように思えた。
昼休み、澪は会社近くのカフェへ行った。
窓際の席に座りカフェラテを注文する。
外はよく晴れていた。
雨上がりの街路樹が、光の中で少しだけ艶を帯びている。
澪は鞄から花人手帖を取り出し、今日のことを書いた。
――仕事の文章は、ブログとは違う器。
――でも、器が変わっても花を変える必要はない。
――百合は百合として、その場にふさわしく香ればいい。
書き終えた時、スマートフォンが震えた。
ブログの通知だった。
澪はすぐには見なかった。
カフェラテを一口飲み、窓の外を見た。
見たい。でも怖い。その感覚はまだあるが、以前よりも少し距離が取れるようになっていた。
通知は私の価値を決めるものではない。
拍手があってもなくても。コメントが温かくても冷たくても。
私は私の香りを育てていく。
そう心の中で呟いてから澪は画面を開いた。
新しいメッセージが届いていた。
差出人の名前は、知らないものだった。
澪は深く息を吸い、メッセージを開いた。
そこにはこう書かれていた。
――はじめまして。最近、こちらのブログに辿り着き、いくつかの記事を読ませていただきました。
「遅れていたのではなく、育っていた」という記事も、「見つけられるために、香りを薄めない」という記事も、
何度も読み返しました。
私はずっと、自分にはもう咲く季節が来ないのだと思っていました。
一度、人生の大きな約束が終わってしまってから、自分は女として失敗したのだと思っていました。
周りは前へ進んでいるのに、私だけが終わった季節の中に取り残されているようでした。
でも貴女の文章を読んで、私はまだ咲いていいのかもしれないと思いました。
まだ終わっていないのかもしれないと。
うまく言えませんが、貴女の言葉には、夜に咲く白い花のような香りがある気がします。
ありがとうございます。
澪は最後の一文を読んだ瞬間、息を止めた。
夜に咲く白い花のような香り。
その表現が澪の胸の奥に静かに入ってきた。
知らない誰かが澪の言葉に香りを感じてくれた。
見たこともない人。名前も、顔も知らない人だけど、その人は澪の文章の中に何かを見つけてくれた。
私はまだ咲いていいのかもしれない。
その一文を、澪は何度も読み返した。
胸が熱くなった。
自分自身が魔女に出会ったあの日。
人生が終わったと思った夜。
佐伯が結婚し、彼の妻が妊娠していると知り、自分の人生が取り返しのつかないもののように感じたあの日。
澪は秘密の花園で魔女に言われた。
花人として生きる女に、遅すぎる春はありません。
咲くと決めたその日が、貴女の季節の始まりです。
その言葉に澪は救われた。
そして今、澪の言葉を読んだ誰かが「私はまだ咲いていいのかもしれない」と書いている。
これは何なのだろう。
澪は画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。
自分が魔女から受け取った火が、ほんの小さな灯りになって誰かの夜へ渡っていったような気がした。
それは嬉しさだけでは説明できない感覚だった。
恐れもある。責任のようなものもあるが、それ以上に、深いところで何かが静かに震えていた。
私の香りが、誰かを花園の入口へ連れてきたのかもしれない。
そう思った。
その時、澪の胸にひとつの名前が浮かんだ。
菫。
メッセージの差出人名ではないが、その文章から漂う気配に、澪はなぜか小さな菫の花を思い浮かべた。
控えめで、俯くように咲いていて、けれど寒さの中にも消えない色を持つ花。
澪はその人を心の中で「菫さん」と呼んだ。
会ったこともない。当の名前も知らないが、その女性の言葉は、澪の中に小さな紫色の印を残した。
澪は返信欄を開く。
何を書けばいいのかすぐには分からなかった。
軽く返すには、あまりにも大切な言葉だった。
しかし重く受け取りすぎても、その人の荷物になるかもしれない。
澪は少し考え、ゆっくりと書いた。
――はじめまして。大切なメッセージを送ってくださり、ありがとうございます。
「まだ咲いていいのかもしれない」と思っていただけたこと、とても嬉しく読みました。
人生の中で、何かが終わってしまったように感じる季節は本当に苦しいものだと思います。
しかし終わった季節の中でしか育たない花も、きっとあるのだと思います。
どうか、ご自分の中にまだ残っている小さな蕾を急いで否定しないでください。
咲くと決めたその日が、その人の季節の始まりなのかもしれません。
澪は送信する前に何度も読み返した。
魔女の言葉に似ている。そう思った。
咲くと決めたその日が、貴女の季節の始まりです。
それは魔女がかつて澪にくれた言葉だ。
澪は、そのまま借りているのだろうか。それとも自分の中で一度蜜になり、自分の言葉として別の誰かへ渡そうとしているのだろうか。分からなかった。
けれど、今はその言葉を送りたいと思った。
澪は送信した。
画面を閉じたあと、胸の奥が静かに熱かった。
その日の夕方、澪は秘密の花園へ向かった。
黒い鉄の門へ近づくと、いつものようにあの懐かしい香りが漂ってきた。
百合のようで、白檀のようで、雨上がりの土のようで、どこか遠い記憶のような香り。
澪は何度もこの香りに触れている。
初めて嗅ぐはずなのに、懐かしい香り。
魔女の香りなのか。花園そのものの香りなのか。
それとも、自分の奥に眠っていた何かなのか。
まだ分からないけれど、その香りを嗅ぐたびに、澪は少しずつ自分の深い場所へ戻っていくような気がした。
温室の中には魔女がいた。
黒いドレス。
今日は胸元に小さな白い花が一輪飾られていた。
「いらっしゃいませ、澪さん。」
魔女は微笑んだ。
「今日は、どなたかが貴女の香りに導かれたのですね。」
澪は驚いたが、もう以前ほどは驚かなかった。
魔女にはいつも知られている。
あるいは、自分がここへ来る時にはすでに顔や空気にすべて出ているのかもしれない。
澪は椅子に座り、今日届いたメッセージのことを話した。
「私はまだ咲いていいのかもしれない」と書いてくれた女性。
一度、人生の大きな約束が終わってしまったと書いていたこと。
自分は女として失敗したと思っていたこと。
澪の文章に、夜に咲く白い花のような香りがあると言ってくれたこと。
そして、澪がその人を心の中で「菫さん」と呼びたくなったこと。
話し終えると、魔女は静かに頷いた。
「菫」
その名を、魔女はゆっくりと口にした。
「美しい名ですね。」
「本当のお名前ではありません。私が勝手に、そう感じただけです。」
「花は、時に本名より先に、その方の気配を教えてくれることがあります。」
澪はその言葉を不思議な気持ちで聞いた。
菫。小さな紫の花。
控えめで、けれど確かに春を告げる花。
その女性の中にも、何かがまだ眠っているのかもしれない。
終わったと思っている季節の下に、小さな蕾が残っているのかもしれない。
魔女は紅茶を注いだ。
「澪さん。貴女の香りが、扉を開きましたね。」
「扉……」
「ええ。貴女の言葉が、誰かを秘密の花園の入口へ連れてきたのです。」
澪は胸の奥が震えた。
「私の言葉が……」
「そうです。」
魔女はカップを澪の前に置いた。
「ここで貴女は花として目覚めました。そして次に蜜を育てました。そして今、貴女は香りを薄めずに放つことを学びました。」
澪は静かに聞いていた。
「香りは、ただ漂うだけではありません。香りは扉を開きます。」
「扉を、開く。」
「ええ。貴女が追いかけなくても、貴女が無理に誰かを説得しなくても、貴女が貴女の香りを放っていれば、ふさわしい人がその香りに気づきます。」
澪は菫のメッセージを思い出した。
「私はまだ咲いていいのかもしれない。」
あの言葉は、澪自身がかつて求めていた言葉だった。
今度は、自分の言葉が誰かの中にその感覚を起こした。
それは奇跡のようで、同時に花の世界では当たり前のことなのかもしれない。
花は香りで知らせる。
ここに蜜があります。
ここに命があります。
ここに、まだ咲こうとしているものがあります。
ふさわしい者はそれに気づく。
気づかない者は通り過ぎる。
どちらも自然なこと。
「私は、まだ怖いです。」
澪は言った。
「香りを出すことも、誰かに届くことも。届いたあと、その人の人生に少し触れてしまうことも。」
魔女は頷いた。
「怖くてよろしいのです。怖さがあるから、貴女は言葉を雑に扱わずにいられる。怖さがあるから、相手の心へ乱暴に踏み込まずにいられる。怖さは必ずしも悪ではありません。」
澪は胸の中でその言葉を受け取った。
怖さは悪ではない。
たしかに、もし何も怖くなければ、自分の言葉をもっと乱暴に扱っていたかもしれない。
誰かに届いたことを、ただ自分の承認のために使っていたかもしれない。
でも澪は怖い。だからこそ丁寧に書きたいと思う。
自分の香りを消さず、相手を支配しようともせず、ただ花園の入口に小さな灯りを置くように。
「澪さん。これから貴女の香りに導かれて、花園の入口へ来る女性たちが現れるでしょう。」
澪は息を呑んだ。
「私に、何かできるのでしょうか?」
「できます。」
魔女は迷いなく言った。
「ただし、救おうとしてはなりません。」
澪は少し驚いた。
「救おうとしては、いけないんですか?」
「ええ。花人は誰かを救うために咲くのではありません。自分の花として咲くことで、誰かが自分の花を思い出すきっかけになるのです。」
その言葉は澪の胸に深く入ってきた。
誰かを救うために咲くのではない。
自分の花として咲くことで、誰かが自分の花を思い出す。
それは今の澪に必要な言葉だった。
菫のメッセージを読んだ時、澪は嬉しいと同時に少し怖かった。
自分が何かをしてあげなければいけないのではないか。
ちゃんと導かなければいけないのではないか。
相手を傷つけないように、間違えないように、正しい言葉を返さなければいけないのではないか。
そんなふうに少し身構えていた。
けれど魔女は言う。
救おうとしてはならない。咲けばいい。
自分の花として咲き、自分の香りを放ち、必要な誰かがその香りに気づく。
そこから先は、その人自身の花が目覚めていくのだ。
「私は、入口になればいいんですね。」
澪は言った。
魔女は微笑んだ。
「ええ。貴女は誰かの入口になることができます。」
その言葉を聞いた時、澪の胸の奥で何かが開いた。
入口。かつて魔女が澪の入口だったように。
秘密の花園の黒い鉄の門が、澪の人生の入口だったように。
今度は澪の言葉が、誰かの入口になるのかもしれない。
そのことは恐ろしくもあり、美しくもあった。
温室の硝子に、魔女と澪の姿が映っていた。
向かい合う二人。
黒いドレスの魔女。白いブラウスの澪。
外は夕暮れで、硝子には花々の影も映っている。
澪はふとその硝子を見た。
一瞬、魔女の影と澪の影が重なった。前にもこんなことがあった。
朝倉に「思い出しているみたいですね。」と言われた日。
あの時も硝子に二人の影が重なった。
澪は息を止めた。
魔女は何も言わなかった。ただ、静かに微笑んでいた。
その微笑みの中に、どこか懐かしい香りがした。
澪はそれを言葉にしようとしてやめた。
まだ分からない。
けれど、分からないまま胸に置いておきたいものもある。
すべてを急いで意味にしなくていい。
花は蕾の時期を急がない。蜜は一夜で熟すものではない。
香りも時間をかけて深くなる。
その夜、花園を出る時、魔女は澪に小さな白い封筒を渡した。
「これは?」
澪が尋ねると魔女は言った。
「次の季節への招待状です。」
澪は封筒を開いた。
中には厚みのある白いカードが入っていた。
そこには美しい文字でこう書かれていた。
秘密の花園へ招かれる女たち
澪はその文字を見つめた。
胸の奥が静かに鳴る。
澪には分かった。次の扉がもう開き始めている。
「菫さんは……ここへ来るのでしょうか?」
澪が呟くと、魔女は少し首を傾げた。
「香りに導かれた者は、いつか自分の門を見つけます。」
「自分の門……」
「ええ。貴女が見つけたように。」
澪は黒い鉄の門を振り返った。
人生が終わったと思った夜、この門の前に立った日のことを思い出す。
あの日の自分は、まさか自分の言葉が誰かの入口になる日が来るとは思っていなかった。
自分には何もないと思っていた。
選ばれなかった女だと思っていた。
遅れている女だと思っていた。
けれど今、澪は少しずつ知り始めている。
選ばれなかった痛みも、遅れていると思った時間も、誰にも見せなかった孤独も、すべて自分の蜜になり、香りになっていたのだと。
そしてその香りは、ふさわしい扉を開くのだと。
花園を出ると、街はもう夜だった。
澪はいつもの花屋の前を通った。
閉店間際の店内に灯りがついている。
そして奥の白い花の前に、朝倉の姿があった。
澪の胸が小さく跳ねた。
朝倉は店主と何かを話している。
手には紙の束。白い花。
おそらくまた本の装丁のために花を選んでいるのだろう。
澪は足を止めた。
声をかけるべきだろうか。それとも、このまま通り過ぎるべきだろうか。
その時、朝倉がふと顔を上げた。
ガラス越しに視線が合った。
朝倉は少し驚いたようにしたあと、静かに会釈した。
澪も会釈を返した。
それだけで終わると思った。
けれど朝倉は店主に何かを告げ、花を持ったまま店の外へ出てきた。
小さなベルが鳴る。
「白石さん。」
その声に、澪の胸がまた少し鳴った。
「こんばんは。」
「こんばんは。」
朝倉の手には白い花束があった。
白いアネモネ。白いトルコキキョウ。
そして、まだ固い蕾の百合。
澪はその花束を見た。
「綺麗ですね。」
「ありがとうございます。」
朝倉は花束に視線を落とした。
「今度の装丁の試作に使う花です。」
「白い花なんですね。」
「ええ。白だけれど、真っ白ではないものを探していて。」
澪はその言葉に少し笑った。
「白だけれど、真っ白ではない。」
「はい。影や余白がある白の方が、言葉に合う気がして。」
澪は心の奥が静かに反応した。
痛みを知っている白。
朝倉はその言葉を知らないはずなのに、同じ場所に触れているように思えた。
しばらく沈黙があった。
気まずい沈黙ではない。
花屋の灯りと夜風の中で、言葉になる前の何かが、二人の間に置かれているような沈黙だった。
朝倉がふと言った。
「白石さん。」
「はい。」
「少し前に偶然、あるブログを読みました。」
澪の心臓が大きく鳴った。
「ブログ……ですか?」
「ええ。匿名の読書ブログでした。」
朝倉は澪をじっと見るのではなく、花束へ視線を落としたまま続けた。
「そこに、花や言葉や、見つけられることについて書かれている文章があって。」
澪は息が浅くなった。
偶然。
匿名の読書ブログ。花や言葉や、見つけられること。
それは澪のブログかもしれない。いやそうだとは限らない。
けれど、朝倉の次の言葉で澪は動けなくなった。
「“見つけられるために、香りを薄めない”というタイトルでした。」
夜の空気が一瞬止まったように感じた。
澪は何も言えなかった。
朝倉は、そこでようやく澪を見た。
「白石さんの文章ですか?」
逃げようと思えば逃げられた。
違います、と言うこともできた。
偶然ですね、と笑うこともできた。
けれど澪はそうしなかった。
怖かった。本当に怖かった。
自分の小さな白い箱を、朝倉に見つけられた。
嬉しい。でも怖い。
読まれた。見つけられた。
しかも、薄めずに出したあの記事を。
澪はゆっくり息を吸った。
花は送粉者を追いかけない。
送粉者に自分の価値を預けない。けれど、送粉者の気配に喜んでいい。
澪はまっすぐ立った。
「はい。」
声は少し震えた。
「私の文章です。」
朝倉は静かに頷いた。
「やっぱり。」
「分かりましたか?」
「確信はありませんでした。でも、花の見方と言葉の温度が、白石さんに似ている気がしました。」
澪は胸の奥が熱くなるのを感じた。
言葉の温度。香りではなく、温度。
それは朝倉らしい表現のように思えた。
「読みました。」
朝倉は言った。
「とても印象に残りました。」
澪は手を握りしめた。
「重く、ありませんでしたか?」
口にしてから、しまったと思った。けれどもう遅かった。
朝倉は少しだけ考えた。そして言った。
「軽くはなかったです。」
澪の胸がひゅっと縮んだ。
朝倉は続ける。
「でも軽くないから残りました。」
澪は顔を上げた。
朝倉は静かに言った。
「白石さんの文章には、余白だけではなく、香りがありますね。」
その言葉を聞いた瞬間、澪の中で何かがほどけた。
余白だけではなく、香り。
以前朝倉は言った。
白い花は、余白があるほど強く見える気がします。
そして今、朝倉は言った。
澪の文章には香りがある、と。
澪は泣きそうになったが泣かなかった。
泣いてしまうには、その言葉はあまりにも静かで、澪の中に深くしまっておきたいものだった。
「ありがとうございます。」
澪は言った。
「そう言っていただけて、嬉しいです。」
その言葉は以前よりもずっと落ち着いていた。
朝倉に認められたから価値が生まれたのではない。しかし朝倉に届いたことは嬉しい。
その二つを、澪は初めて同時に抱えられた気がした。
朝倉は微笑んだ。
「また、読ませてください。」
澪の胸が羽音のように震えた。
「はい。」
短く返した。
ブログを教えたわけではない。連絡先を交換したわけでもない。
恋が始まったわけでもないが、何かの扉が静かに開いたことは分かった。
朝倉は花束を抱え直した。
「では、また。」
「はい。また。」
二人はそこで別れた。
朝倉の背中が夜の道へ消えていく。
澪はそれを追いかけなかった。ただ、見送った。
胸は温かく、少し震えていた。
けれど根は抜けていない。私は私の場所に立っている。
そう思えた。
家に帰ると、百合の香りが部屋に満ちていた。
澪は鞄から、魔女にもらった白いカードを取り出した。
秘密の花園へ招かれる女たち
その文字を机の上に置く。
隣には花人手帖。そしてパソコン。
澪はブログを開いた。
菫からの返信はまだ来ていなかった。
朝倉からの反応も、もう十分だった。
今日はこれ以上何も求めなくていい。
澪は新しい記事の投稿画面を開いた。
すぐに投稿するためではない。ただ、今日のことを自分の言葉で残したかった。
画面にゆっくりと書いた。
――香りは、追いかけなくてもふさわしい扉を開く。
その一文を見つめて、澪は静かに息を吐いた。
香りは万人に好かれるためのものではない。
自分が何者であるかを、言葉より先に世界へ知らせるもの。
ふさわしい者を呼び、ふさわしくない者を遠ざけるもの。
時に好まれ、時に重いと言われ、それでも必要な誰かへ届いていくもの。
澪はまだ、自分の香りを完全には知らない。
これからも何度も薄めそうになるだろう。
嫌われたくなくて。
見つけられたくて。
美しく思われたくて。
朝倉のような人に、「いい」と言われたくて。
それでももう知っている。
自分の香りを薄めれば、本当に届くはずだった人にも届かない。
そして自分の香りを放てば、誰かには重いと言われるかもしれないが、誰かには救いになる。
誰かには、まだ咲いていいと思うきっかけになる。
誰かには、夜に咲く白い花のような香りになる。
澪は、花人手帖を開いた。
そしてこう書いた。
――私は、私の香りを薄めずに生きる。
――この香りを嫌う人がいてもいい。
――この香りでしか届かない人がいる。
――香りは、ふさわしい扉を開く。
書き終えると窓辺の百合が静かに香った。
その香りはもう澪にとって強すぎるものではなかった。
むしろ、自分の部屋が自分の花園になっていくような気がした。
澪は窓を少し開けた。
夜風が入り、百合の香りが外へ流れていく。
どこまで届くのかは分からない。誰が気づくのかも分からない。
それでいい。
花は香りの行き先をすべて支配しない。ただ自分の季節に従って、香る。
その夜、澪は静かに眠った。
夢の中で秘密の花園の門が開いていた。
黒い鉄の門の向こうに、ひとりの女性が立っている。
顔はまだ見えないが、その足元には小さな菫の花が咲いていた。
女性は迷うように門の前で立ち止まっている。
その時、どこからか白い百合の香りが流れてきた。
女性はゆっくりと顔を上げる。
そして門へ一歩近づいた。
澪は夢の中で、それを遠くから見ていた。
私は誰かを救うために咲くのではない。
けれど私が咲くことで、誰かが自分の花を思い出すことがある。
そのことを知った。
朝になれば、またいつもの日々が始まる。
けれど次の季節の扉は、もう開いている。
Season3「香りは運命を変える」最終話でした。
Season1で澪は花として目覚めました。
「選ばれなかった女」ではなく、「自分を選び直す女」として、もう一度人生を取り戻すことを始めました。
そしてSeason2で澪は蜜を育てます。
痛み、孤独、遅れていると思っていた時間、誰にも見せられなかった感性。
それらがただの傷ではなく、誰かに届く蜜になることを知りました。
そしてSeason3で澪は香りを知りました。
香りとは香水のことだけではありません。その人の言葉。佇まい。沈黙。距離感。選ぶもの。もう受け入れないと決めるもの。
そして自分の独特さをどれだけ薄めずに生きているか。
そのすべてからその人だけの香りは生まれます。
しかし香りを放つことは怖いことです。
誰かには好まれる。誰かには重いと言われる。
誰かには救いになり、誰かには合わないと言われる。
それでも澪は少しずつ学んでいきました。
香りは万人に好かれるためのものではない。
ふさわしい者を呼び、ふさわしくない者を遠ざけるためのものでもある。
そして香りを薄めなかったからこそ、ふさわしい扉が開き始めました。
見知らぬ女性から届いたメッセージ。
「私はまだ咲いていいのかもしれない。」
この言葉はSeason4へと繋がっていきます。
澪自身がかつて魔女に導かれたように、今度は澪の言葉が、誰かを秘密の花園の入口へ導き始めるのです。
ただし澪は誰かを救うために咲くのではありません。
ここがとても大切です。
花人は誰かの救世主になるために咲くのではありません。
自分の花として咲くことで、誰かが自分の花を思い出すきっかけになる。
澪は誰かの入口になり始めました。
そして朝倉律にも澪の文章は届きました。
「白石さんの文章には、余白だけではなく香りがありますね。」
Season2で朝倉は白い花に“余白”を見ました。
Season3の終わりで彼は澪の言葉に“香り”を見ました。
これは、澪が少しずつ自分の香りを取り戻している証でもあります。
しかし澪は、もう朝倉の反応だけに自分の価値を預けません。
嬉しい。けれど根は抜かない。
ときめく。けれど自分の土に立つ。
この姿勢が、これからの澪の恋や創作を美しく支えていきます。
貴女も、自分の香りを薄めていませんか。
誰かに好かれるために。
重いと思われないために。
変だと思われないために。
受け入れてもらうために。
しかし貴女が香りを薄めれば、貴女を見つけるはずだった人まで通り過ぎてしまうかもしれません。
貴女の香りは、貴女にふさわしい運命への招待状です。
どうか消さないでください。
澪のブログに届いたひとつのメッセージ。
「私はまだ咲いていいのかもしれないと思いました。」
その女性は人生の大きな約束を失い、自分は女として失敗したのだと思っていました。
終わった季節の中に、ひとり取り残されているように感じていました。
しかし澪の言葉に触れたことで、彼女の中に眠っていた小さな蕾が静かに震え始めます。
澪は彼女を心の中で「菫」と呼びました。
そして菫は、やがて秘密の花園の門へと導かれていきます。
今度は澪が、誰かの入口になる季節。
Season4
「秘密の花園へ招かれる女たち」
どうぞお楽しみに。
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1番人気の記事です。是非読んでみてください。

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