真島あみオフィシャルブログ
21世紀的魔女論

シーズン4第3話 椿の花人


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翌日の夕方、澪は秘密の花園へ向かった。

昨夜、胸の奥がふっと熱くなって目を覚ました時からその感覚はずっと残っていた。

黒い鉄の門。

小さな菫の花。

門の前に立つ女性。

そしてその女性が一歩、門の中へ入るところ。

夢だったのかもしれない。

自分の想像だったのかもしれない。

けれど澪には、どうしてもただの夢とは思えなかった。

誰かが、終わった季節の外へ出るための一歩を踏み出した。

そう感じた。

花人手帖には昨夜書いた文字が残っている。

 

――菫さんが門をくぐった気がする。

――私は救うのではなく、咲いて待つ。

 

その二行を澪は朝から何度も読み返していた。

菫さん。

本当の名前も知らない女性。

けれど、澪のブログにメッセージをくれたあの人のことを、澪はもう心の中でそう呼んでいた。

一度人生の大きな約束が終わってしまった人。

自分は女として失敗したのだと思っていた人。

終わった季節の中から、まだ出られずにいる人。

そして澪の文章を読んで、「私はまだ咲いていいのかもしれない」と書いてくれた人。

澪は菫の言葉を思い出しながら歩いた。

私は、どうしたら終わった季節から出られるのでしょうか。

その問いが胸の奥に残っていた。

答えをあげたいわけではない。救いたいわけでもない。けれど放っておけない。

その気持ちが、澪を花園へ向かわせていた。

 

夕暮れの街は、少しずつ夜へ沈み始めていた。

人々の足音。

車の音。

店の灯り。

日常のすべてがいつも通りに流れている。

しかし澪の中には別の時間が流れていた。

黒い鉄の門へ向かう時間。

現実と物語の境目へ向かう時間。

秘密の花園の門が見えてくる。

門に絡まる蔦の下には、小さな紫の花が咲いていた。

菫だった。

澪はその花の前で足を止めた。

「やっぱり……」

小さく呟く。

昨夜、夢の中で見た花と同じだった。

控えめで、少し俯いていて、けれど夜の中でも消えない紫を持っている花。

澪はそっとしゃがみ、その花を見つめた。

菫さんは本当にここへ来たのだろうか。

あの門を自分の足でくぐったのだろうか。

澪の胸の奥が静かに震えた。

 

門をくぐると、花園の空気はいつもより深く澄んでいた。

白い花の香り。

雨上がりの土のような匂い。

古い手紙のような懐かしい香り。

そしてその奥に、どこか冬を含んだような、深い赤い花の気配があった。

澪が温室へ入ると、魔女がひとりで待っていた。

黒いドレス。

淡い灯り。

硝子越しに揺れる夜の花。

テーブルの上には深い赤の花が一輪置かれていた。

薔薇ではない。

厚みがあり、丸みを帯びた花弁。

艶のある濃い葉。

澪はその花を見つめた。

「椿……ですか?」

魔女は微笑んだ。

「ええ。」

澪の胸が静かに鳴った。

「昨夜、菫さんが……」

「門をくぐりました。」

魔女は澪の言葉を引き取るように言った。

澪は息を呑んだ。

「やっぱり、夢ではなかったんですね。」

「夢であり、気配でもありました。」

魔女は紅茶を注ぐ。

「香りに導かれた女性が門の前まで来て、自分の足で一歩、中へ入りました。」

澪は昨夜の手帖の文字を思い出した。

私は救うのではなく、咲いて待つ。

 

「私は、何をすればいいのでしょう?」

澪が尋ねると、魔女は首を横に振った。

「何も。」

「でも……」

「澪さん。」

魔女は椿の花にそっと触れた。

「貴女は、菫さんを救うためにここへ来たのではありません。」

澪は黙った。

「ただ、貴女の花としてここにいればよいのです。」

その言葉を聞いた時、澪の胸の奥が少し震えた。

誰かの入口になるということは、その人を抱えて門の中へ連れてくることではない。

その人が自分の足で門をくぐる時、ここにも道があると示す灯りになること。

それは分かっているつもりだったが、いざ本当に誰かが門の前へ来ると、澪の中にはまた別の怖さが生まれていた。

自分の言葉が、誰かの人生に触れてしまう怖さ。

自分の香りが、誰かをここへ連れてきたかもしれない怖さ。

間違えたくない。傷つけたくない。

軽く扱いたくない。そう思うほど言葉が重くなる。

 

澪はテーブルの椿を見つめた。

深い赤。静かな艶。

終わりの気配をまとった花。

「魔女さん。」

「はい。」

「菫さんの花は、椿なのですか?」

魔女は微笑んだ。

「それは、菫さんが来られてからお話しいたしましょう。」

その時、温室の外でかすかな足音がした。

澪は顔を上げた。

魔女は静かに微笑んだ。

「いらっしゃいましたね。」

温室の扉がゆっくりと開いた。

そこに立っていたのは、ひとりの女性だった。

少し緊張したように肩をすぼめ、両手を胸の前で重ねている。

顔色は少し青白いが、目の奥には昨夜までとは違う何かが微かに灯っていた。

 

澪はその女性を見た瞬間、分かった。

菫さんだ。

自分のブログにメッセージをくれた人。

「私はまだ咲いていいのかもしれない」と書いてくれた人。

終わった季節の外にある門を探していた人。

菫も澪を見て足を止めた。

初めて会うはずなのに、どこかで知っている気がした。

魔女が静かに言った。

「こちらが、澪さんです。」

菫の胸が小さく揺れたように見えた。

「澪さん……。」

その名前を聞いた瞬間、菫には分かった。

この人だ。あの文章を書いた人。

遅れていたのではなく、育っていた。

見つけられるために、香りを薄めない。

夜に咲く白い花のような言葉を置いてくれた人。

澪は少し戸惑いながらも静かに微笑んだ。

「はじめまして。白石澪です。」

その声は、ブログの文章とよく似ていた。

静かで急かさない。

明るすぎず、暗すぎず、誰かの夜に小さな灯りを置くような声だった。

菫は言葉を探した。

ありがとうございます。救われました。

あなたの文章を読みました。私はまだ咲いていいと思えました。

どれも本当だった。けれどそのどれもが、今この場所では足りない気がした。

菫はうまく言葉にできないまま、ただ小さく頭を下げた。

 

澪は菫に近づきすぎなかった。

手を握ることも、大丈夫ですと言うこともしなかった。

ただ少し離れた場所に立ち、菫が呼吸を整えるのを待っていた。

その距離に菫は安心した。

痛みを抱えている時、近づかれすぎると崩れてしまうことがある。

慰められると自分がもっと惨めに思えることがある。

だから、澪のその距離がありがたかった。

「あの私…メッセージを送った者です。」

ようやく菫は言った。

澪は静かに頷く。

「分かります。」

「本当に、届いていたんですね。」

「はい。」

澪は少しだけ目を伏せた。

「大切に読みました。」

その一言に菫の目の奥が熱くなった。

大切に読まれた。

自分の痛みが、ただの文章として流されなかった。

それだけで胸が少しほどけるようだった。

 

魔女は菫を窓辺の席へ案内した。

「こちらへどうぞ。」

菫は椅子に座った。

澪は向かいではなく、少し斜めの席に座った。

真正面から見られるよりもその位置が楽だった。

魔女が紅茶を注ぐ。

温室の中には、数えきれないほどの花があった。

白い花。

赤い花。

紫の花。

夜にだけ咲くような花。

見たことのない深い色の花。

花瓶に活けられた花もあれば、土に根を張ったまま咲いている花もあった。

花の香りは濃いけれど、不思議と苦しくはなかった。

それぞれの香りが混ざり合っているのに、互いを壊していない。

まるでひとりひとりの女性が自分の痛みや美しさを抱えたまま、同じ場所に立っているようだった。

 

テーブルの上には、深い赤の花が一輪置かれていた。

菫はその花を見つめる。

「これは……」

魔女が言った。

「椿です。」

椿。

菫はその名を聞いた瞬間、少しだけ胸がざわついた。

美しい花だとは思うけれど、同時に少し怖い花でもあった。

花ごと落ちる花。

縁起が悪いと言われることもある花。

散る時でさえ、花弁を一枚ずつ散らすのではなく、首からぽとりと落ちる花。

菫は椿を見るといつも、どこかで終わりを思い浮かべてしまう。

「私は椿が少し苦手です。」

気づくと菫はそう言っていた。

魔女は驚かなかった。

「どうしてですか?」

「終わり方が、怖いからです。」

菫は椿を見つめた。

「花ごと落ちるでしょう。あれを見ると、急に全部が終わってしまうみたいで……怖いんです。」

言いながら、菫は自分の声が震えていることに気づいた。

椿の話をしているはずなのに、まるで自分の話をしているようだった。

ある日関係が終わった。

少しずつ花弁が散っていったのではない。

気づいた時には、花ごと、未来ごと、ぽとりと落ちていた。

菫の胸の奥であの日の記憶が開く。

彼の声。冷めたコーヒー。終わりを告げる言葉。

「分かった」と言った自分。分かっていなかった自分。

 

魔女は椿にそっと触れた。

「椿は、終わりを恐れぬ花です。」

菫は顔を上げた。

「終わりを恐れない?」

「ええ。」

魔女の声は静かだった。

「椿は散る時でさえ、花の形を失いません。」

菫は椿を見つめた。

花の形を失わない。

その言葉は菫の中にゆっくりと沈んでいった。

「花弁を一枚ずつ崩し、風にばらばらにされるのではなく、花の形のままぽとりと地へ還る。」

魔女は続けた。

「それを不吉と見る者もおりますが、私は潔い美しさだと思っております。」

潔い美しさ。

菫はそんなふうに椿を見たことがなかった。

終わり。落ちる。縁起が悪い。

そういう言葉ばかりを重ねていたが、魔女はそこに美を見ている。

「終わるべき時に形を失わず終わる。それはとても深い美です。」

菫の胸が痛んだ。

自分は終われなかった。終わったのに、終われなかった。

関係は終わった。彼はもういない。

一緒に進むはずだった未来も消えた。

しかし菫だけが、終わった季節の中でまだ花弁を握りしめている。

形を失うことが怖くて、終わりを認めることが怖くて、落ちた花を拾い集めて、どうにか元の枝へ戻そうとしている。

でも、戻らない。

戻らないから苦しい。

 

「私は……」

菫は声を絞り出した。

「終わることが怖いです。」

魔女は頷いた。

「ええ。」

「もう終わっているのに。頭では分かっているのに。それを認めたら本当に全部なくなってしまう気がして。」

涙がこぼれた。

菫は慌てて拭おうとしたが止まらなかった。

「彼とのことを手放したら、私の何年もが無駄だったことになる気がするんです。」

魔女は何も言わなかった。

澪も、何も言わなかった。

その沈黙が菫の涙を許してくれているようだった。

「結婚の話も出ていました。式場も見に行きました。親にも少し話していました。友人にも、たぶんもうすぐだねって言われていました。」

菫は言葉を止められなかった。

「でも終わりました。何も形になりませんでした。指輪もない。結婚式もない。家族にもなれなかった。何年もかけたのに、私は何も手に入れられなかった。」

胸の奥からずっと閉じ込めていた言葉が出てきた。

「私は、女として失敗したんです。」

その言葉を口にした瞬間、菫の中で何かが崩れた。

ずっと言えなかった言葉。誰にも言えなかった本音。

友人に言えば、そんなことないよと言われる気がした。

親に言えば、まだ若いんだからと言われる気がした。

自分でもそんなことを思ってはいけないと思っていた。

女として失敗した。

そんな言葉は古いし、狭いし、誰かに言えば否定されるだろう。

しかし菫の中では、その言葉がずっと重く沈んでいた。

 

魔女は静かに菫を見つめていた。

そして言った。

「貴女は、失敗した女ではありません。」

菫は涙で滲む視界の中で魔女を見た。

魔女の声は慰めではなかった。否定でもなかった。

もっと深い場所から、真実をそっと差し出すような声だ。

「終わった恋は、貴女が失敗した証ではありません。」

菫の胸が震えた。

「その季節が、役目を終えたということです。」

涙がまたこぼれた。

役目を、終えた。その季節が。

「でも……」

菫は首を振った。

「でも、私は何も残せませんでした。」

「本当に?」

魔女が尋ねた。

その一言に菫は言葉を失った。

本当に、何も残っていないのだろうか。

痛みは残っている。

未練も、後悔も、恥ずかしさも、親に申し訳ない気持ちも、周りと比べる惨めさも残っている。

しかしそれだけだろうか。

あの時間の中で、自分は本当に何も育てなかったのだろうか。

人を愛した時間。

未来を信じた時間。

誰かと暮らすことを想像した時間。

自分以外の人の幸せを願った時間。

ぶつかりながら分かり合おうとした時間。

失った時に、こんなにも痛むほど自分が本気で望んでいた未来。

それは本当に何も残していないのだろうか。

 

菫はすぐには答えられなかった。

澪が静かに口を開いた。

「私も、終わったものを失敗だと思っていました。」

菫は澪を見た。

澪の声は震えてはいなかったが、その奥には深い痛みを通ってきた人の静けさがあった。

「私の場合は、貴女ように約束があったわけではありません。でも、ずっと心の中で握っていた未来がありました。」

澪は少しだけ目を伏せた。

「その未来が消えた時、自分の人生まで終わったように感じました。選ばれなかった私は、価値のない女なのだと思いました。」

菫は息を呑んだ。

ブログの文章の奥にあった痛みが、今、目の前の澪の声になっている。

「でも、ここへ来て少しずつ知りました。」

澪は椿を見た。

「終わった季節の中でしか、育たないものがあるのかもしれない、と。」

菫の胸が熱くなった。

終わった季節の中でしか育たないもの。

澪の返信にもあった言葉。

「それが何なのか、すぐには分からないと思います。」

澪は続けた。

「私も、まだ全部分かっているわけではありません。でも……終わったからこそ、私は自分の花を探すことになりました。」

菫は澪を見つめた。

この人も、終わった季節を通ってきたのだ。だからあんな文章が書けたのだ。

明るく励ますのではなく、痛みの中に灯りを置くような文章。

それは外側から見つけた言葉ではなく、自分の地獄を通ってきた人の言葉だったのだ。

 

魔女は二人を見て微笑んだ。

そして椿を菫の方へそっと近づけた。

「菫さん。」

魔女がその名で呼んだ。

菫は驚いた。

「菫…?」

「澪さんが貴女をそう感じたのです。」

澪が少し気まずそうに微笑んだ。

「勝手にそう呼んでしまっていました。すみません。」

菫は首を横に振った。

不思議と嫌ではなかった。むしろ少し安心した。

本名よりも今の自分に近い名のような気がする。

小さく俯いている花。でもまだ色を失っていない花。

 

「菫さん。」

魔女はもう一度呼んだ。

「はい。」

「貴女の花は、椿です。」

温室の中の空気が変わった。

菫は目の前の深い赤の花を見た。

椿。終わりを恐れぬ花。

散る時でさえ、花の形を失わない花。

「私が……椿?」

「ええ。」

菫は戸惑った。

「でも、私は……そんなに潔くありません。」

「今は、そうでしょうね。」

魔女は優しく言った。

「花の名は、今すでに完璧に咲いている姿を示すものではありません。貴女の中に眠る本質を示すものです。」

「本質……」

「貴女は本当は、終わりを美しく見送る力を持っている方です。」

菫は信じられないというように首を振った。

「私は見送れていません。捨てられないものばかりで、過去にしがみついています。」

「ええ。だからこそ今、椿を思い出す時が来たのです。」

魔女は椿の花に視線を落とした。

「椿は終わりを粗末にいたしません。ただ壊すのではない。なかったことにするのでもない。咲いた姿のまま、季節の終わりを受け入れる花です。」

菫の胸にその言葉が深く入ってきた。

終わりを粗末にしない。なかったことにしない。

咲いた姿のまま、季節の終わりを受け入れる。

 

「手放すとは、忘れることではありません。」

魔女は言った。

「手放すとは、愛した季節を失敗ではなく、完了として見送ることです。」

菫はとうとう声を出して泣いた。

今までずっと、手放すことは忘れることだと思っていた。

彼との時間をなかったことにすること。

愛した自分を馬鹿だったと認めること。

選ばれなかった自分を敗者として受け入れること。

だから手放せなかった。

しかしもし手放すことが、愛した季節を美しく見送ることなら。

失敗ではなく完了として受け取ることなら。

自分にも、いつかできるのだろうか。

まだ分からない。今すぐにはできない。

でも、初めて手放すという言葉が、少しだけ怖くないものに見えた。

魔女は菫の涙を急かさなかった。

澪も、ただそばにいた。

菫は泣きながら、自分がずっと泣きたかったのだと気づいた。

終わった日の夜に泣けなかった涙。

式場のパンフレットを見ても飲み込んだ涙。

友人の出産報告を見て、おめでとうと返信したあとに飲み込んだ涙。

親に「大丈夫」と言った時に飲み込んだ涙。

全部が少しずつ出てくるようだった。

 

泣き終える頃、紅茶はすっかり冷めていた。

しかし菫の胸の中には、少しだけ温かい空洞ができていた。

魔女は白いカードを一枚、菫の前に置いた。

そこには何も書かれていない。

「これは?」

菫が尋ねると魔女は言った。

「今日から一週間、終わったものを、失敗と呼ばずに書いてごらんなさい。」

「失敗と呼ばずに……」

「ええ。」

魔女は続けた。

「その恋を失敗と呼ばずに書くなら、何と呼べるでしょう。その時間を無駄と呼ばずに書くなら、何と呼べるでしょう。その思い出の品を未練と呼ばずに見るなら、何に見えるでしょう。」

菫は白いカードを見つめた。

難しい課題だ。

今の菫にはまだ失敗以外の言葉が見つからないが、探してみたいと思った。

「書けるか分かりません。」

菫が言うと魔女は頷いた。

「書けない日も、そのまま書けばよいのです。」

澪が静かに言った。

「私も最初は何も書けませんでした。」

菫は澪を見た。

「本当に?」

「はい。何も書けない、と書いた日もありました。」

その言葉に菫は少しだけ笑った。

何も書けない、と書く。それなら自分にもできるかもしれない。

 

魔女は言った。

「終わった季節を見送るには、まずその季節を正しく見つめることです。」

菫は白いカードを大切に両手で持った。

「はい。」

その返事はまだ小さかったが、門の前にいた時よりも少しだけ自分の声になっていた。

温室を出る時、菫はもう一度椿を見た。

深い赤。

艶のある葉。

花ごと落ちる怖い花。

でも今は、違って見えた。

終わりを恐れぬ花。

散る時でさえ、花の形を失わない花。

自分の中にもそんな花が眠っている。

まだ信じられない。でも魔女はそう言った。

澪も見守ってくれた。

菫は白いカードを胸に抱く。

そして黒い鉄の門を出た。

 

夜の街へ戻るといつもの空気があった。

街灯。

車の音。

遠くの駅のざわめき。

すべては何も変わっていないように見えた。

しかし菫は、自分の中の何かがほんの少しだけ動いたことを感じていた。

部屋へ帰ると、クローゼットの奥の白い箱がいつもの場所にあった。

菫はすぐには開けなかった。

その代わり、テーブルの上に魔女からもらった白いカードを置いた。

そしてペンを持つ。

何を書けばいいか分からない。しばらく白いカードを見つめた。

 

失敗

 

その言葉以外で、あの恋を呼ぶ方法が見つからない。

無駄ではなかったと書こうとして、手が止まった。

無駄じゃなかったなんてまだ思えない。

いい時間だった、と書こうとして、胸が苦しくなった。

そう言い切るにはまだ痛すぎる。

菫はしばらくペンを持ったまま動けなかった。

やがて白いカードの端に、小さく書いた。

 

――失敗、以外の言葉がまだ見つからない。

 

書いた瞬間涙が落ちた。

でも不思議だった。

それは絶望の言葉ではなかった。

今の自分が立っている場所を、初めて正直に書いた言葉だ。

菫はもう一行だけ書いた。

 

――でも、探してみたい。

 

その二行を見つめながら菫は泣いた。

失敗ではない、とまではまだ言えない。

椿の女です、などとはとても思えない。

けれど失敗という言葉だけで自分を閉じ込めることにも疲れていた。

白い箱はまだクローゼットの奥にある。

写真も、半券も、式場のパンフレットも、まだそこにある。

何ひとつ手放せていないが、今夜菫は初めて思った。

もしかすると私は手放せないのではなく、まだ見送り方を知らないだけなのかも。

菫はカードを閉じず、テーブルの上に置いた。

答えは出ていない。でも問いが生まれた。

その問いだけを小さな灯りのように置いて、菫は静かに目を閉じた。

 

 

一方その頃、澪はまだ秘密の花園にいた。

菫が帰ったあとの温室は静かだった。

テーブルの上には椿が一輪残っている。

深い赤。

艶のある葉。

終わりを恐れぬ花。

澪はその椿をじっと見つめていた。

菫が泣いた声がまだ耳の奥に残っている。

私は、女として失敗したんです。

その言葉は菫だけのものではなかった。

澪の中にも似た痛みがあった。

形は違う。重ねてはいけない。菫には菫の痛みがあるが、選ばれなかった自分を責める感覚、形にならなかった未来を失敗と呼びたくなる感覚、周りの季節だけが進んでいくように見える苦しさ。

それは澪にも分かった。

 

澪は椿を見ながら小さく言った。

「私、何か言いすぎていなかったでしょうか?」

魔女は紅茶のカップを片づけながら澪を見た。

「菫さんに?」

「はい。」

「大丈夫ですよ。」

澪は少し安心したように息を吐いたが、胸の中の不安は残っていた。

「でも、菫さんがあんなに泣いて……」

「流れるべき涙がようやく出たのでしょう。」

魔女は静かに言った。

「涙が出たからといって、傷つけたとは限りません。」

澪は黙った。

人の涙を見ると、自分が何かをしてしまったような気持ちになる。

大丈夫だろうか。言葉が深すぎただろうか。

もっと軽くした方がよかっただろうか。

そう思ってしまう。

しかし学んだはずだった。軽くすれば届くわけではない。

痛みには、痛みの深さに届く言葉が必要な時がある。

澪は花人手帖を開いた。

そして書いた。

 

――誰かの涙を、すぐに失敗だと思わない。

 

書いたあと、その一文をしばらく見つめた。

魔女がそっと言った。

「澪さん。貴女は今日、菫さんを救ったのではありません。」

澪は顔を上げた。

「はい。」

「ただ、そばで咲いておりました。」

ただ、そばで咲いていた。

それでよかったのだろうか。

菫の痛みを取り除けたわけではない。答えを渡せたわけでもない。

思い出の箱を一緒に開けたわけでもない。

けれど菫は自分の言葉で少しだけ泣いた。

少しだけ話した。

少しだけ、自分の花の名を受け取った。

それは菫自身の力だった。

澪はただ、そこにいた。

 

魔女は続けた。

「誰かの入口になるとは、扉の前で相手を抱えて運ぶことではありません。」

「では、何なのでしょう…?」

「その方が自分の足で門をくぐる時、ここにも道があると示す灯りになることです。」

澪は胸の奥でその言葉を受け取った。

灯り。

澪は自分が魔女にしてもらったことを思い出した。

魔女は、澪の代わりに生きてくれたわけではない。

佐伯への想いを消してくれたわけでもない。

痛みをなかったことにしてくれたわけでもない。

ただ、花として生きる門を見せてくれた。

澪はその門を自分の足でくぐった。

何度も戻りそうになりながら、何度も泣きながら、それでもくぐった。

菫もそうしていくのだろう。

澪は椿を見つめた。

「菫さんは、椿なんですね。」

「ええ。」

「でも、最初は菫だと思いました。」

魔女は微笑んだ。

「菫も、間違いではありません。」

「え?」

「女性は一つの花だけでできているわけではありません。」

澪は少し驚いて魔女を見た。

「その時の気配を表す花。その方の奥に眠る本質の花。人生の季節ごとに、前へ出てくる花が変わることもあります。」

「では、菫さんの今の気配が菫で、本質が椿……?」

「そのように見てもよいでしょう。」

澪はゆっくり頷いた。

控えめで俯くような菫。しかし奥には、終わりを美しく見送る椿が眠っている。

女性は一つの花だけでは語りきれない。

それは花人という世界をさらに深くする言葉のように思えた。

澪は手帖に書いた。

 

――女性は一つの花だけでできているわけではない。

――今の気配の花と、奥に眠る本質の花がある。

 

書き終えると、温室の硝子に自分の姿が映っているのが見えた。

白いブラウスの澪。

その背後に黒いドレスの魔女。

一瞬、二人の影が重なった。

澪は息を止めた。

以前も見た光景。

魔女と自分の影が、硝子の中で重なる瞬間。

それは何かを意味しているようで、まだ意味にはならない。

魔女は何も言わなかった。

澪も、何も聞かなかった。

ただ胸の奥にその一瞬をしまった。

 

温室の外では、夜の花々が静かに香っていた。

その香りは誰かを急かすものではない。

ただ必要な者が必要な時に気づくように、そこにある。

澪は花人手帖を閉じた。

そして小さく呟いた。

「私は、救うのではなく、咲いて待つ。」

魔女は微笑んだ。

「それでこそ花人です。」

 

 

 


 

あとがき

第三話では、菫が秘密の花園で魔女と澪に出会いました。

そして彼女のコアの花が「椿」であることが告げられました。

菫は長く付き合った人との未来を失いました。

結婚の話が出ていたこと。式場を探していたこと。

この人と人生を進めるのだと思っていたこと。

そのすべてが終わった時、菫は自分のことを「女として失敗した」と思いました。

しかし魔女は菫に言いました。

 

終わった恋は、貴女が失敗した証ではありません。
その季節が役目を終えたということです。

 

これはSeason4の大きな核になる言葉です。

終わったものはすべて失敗なのでしょうか。

叶わなかったものは無駄なのでしょうか。

形にならなかった時間には価値がないのでしょうか。

その季節の中でしか育たなかったものがある。

その痛みの中でしか見えなかったものがある。

その終わりがあったからこそ、次の花を思い出すことがある。

 

澪は菫を救ったのではありません。

ただそばで咲いていました。

誰かの入口になるとは、相手を抱えて門の中へ運ぶことではありません。

その人が自分の足で門をくぐる時、ここにも道があると示す灯りになることです。

 

 

次回、第四話。

「花ごと落ちる勇気」

どうぞお楽しみに。

 

 

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