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菫は朝が苦手だった。
正確に言えば、 朝そのものが苦手なのではない。
朝になると、 また一日を“普通の人”として始めなければならないことが 少し苦しかった。
目覚ましが鳴る。カーテンを開ける。
顔を洗う。化粧をする。
髪を整える。仕事用の服に袖を通す。
鏡の前で表情を確認する。
大丈夫。今日も普通に見える。
その確認をしてから菫は家を出る。
駅まで歩き、電車に乗り、会社へ向かう。
職場では誰も菫を「終わった季節の中にいる女」だとは思っていない。
むしろしっかりしている人だと思われていた。
仕事は丁寧。返信は早い。
人当たりも悪くない。誰かが困っていれば自然に手を貸す。
昼休みには同僚と笑って話すこともできる。
「菫さんって、いつも落ち着いてますよね。」
そう言われることもあった。
そのたびに菫は微笑んだ。
「そんなことないですよ。」
そう返す。でも本当は少しだけ思っていた。
落ち着いているのではない。
止まっているだけなのだ、と。
彼との関係が終わった日から、 菫の中の時間は止まったままだった。
外側の時間だけが進んでいく。
季節は変わる。仕事の予定は埋まる。
友人からは出産報告や引っ越し報告や、 新しい家族写真が届く。
街には新しい店ができ、 去年よく通ったカフェは別の店になった。
すべてが前へ進んでいるが、菫の中には、終わった日の部屋がまだそのまま残っていた。
彼と最後に話した夜。
テーブルの上に置かれた冷めたコーヒー。
言葉を選びすぎて、 かえって何も伝わらなかった時間。
泣くこともできず、 怒ることもできず、 ただ「分かった」と言ってしまった自分。
本当は分かっていなかった。何も分かっていなかった。
どうして終わるのか。
なぜあれほど一緒に未来の話をしたのに、 最後はこんなにあっさりと終わってしまうのか。
なぜ選びかけた式場のパンフレットが、 ただの紙に戻ってしまうのか。
なぜあの人の隣にいた未来の自分が、 こんなにも簡単に消えてしまうのか。
菫には分からなかった。
それでも大人だから、 分かったような顔をした。
泣き崩れたりも取り乱したりもしなかった。
誰かを責めることも、 自分を大きく壊すこともしなかった。
ただ静かに終わらせた。
そのせいで、 本当は何も終わっていないのかもしれなかった。
菫の部屋はきれいに片づいていた。
白い壁。低い本棚。
淡いグレーのカーテン。
仕事用の鞄はいつも決まった場所に置いてある。
キッチンにも洗い物は溜めない。
冷蔵庫の中も、必要なものだけが整然と並んでいる。
誰かが見れば、 丁寧に暮らしている女性の部屋だと思うだろう。
しかし菫には分かっていた。
この部屋の本当の中心は、 クローゼットの奥にある小さな箱だった。
白い蓋つきの箱。見た目はただの収納箱。
その中には 菫が手放せない季節が入っていた。
彼との写真。
旅行先で買った小さな栞。
映画の半券。
誕生日にもらったカード。
一緒に見に行った式場のパンフレット。
指輪のカタログ。
日付の入ったレストランのレシート。
もう何の役にも立たないものばかり。
持っていても未来にはならない。
見返しても過去が戻るわけではない。
それなのに捨てられない。
何度も捨てようとした。
燃えるごみの日の前夜、 箱をクローゼットから出したこともある。
写真を手に取り、 もう終わったのだからと思った。
半券を見て、 こんなもの持っていても仕方ないと思った。
式場のパンフレットを開いて、馬鹿みたいだと思った。
もうそこへ行くことはない。
もうそのドレスを選ぶこともない。
もうその人の隣で、 誰かに祝福される未来はない。
分かっている。
分かっているのに、 いざ捨てようとすると胸が苦しくなった。
捨てたら本当に終わってしまう。
そんな声がした。
終わっているのに。もう、とっくに終わっているのに。
それでも菫は箱を閉じ、 またクローゼットの奥へ戻した。
そして翌朝、何事もなかったように仕事へ行く。
そんなことを何度も繰り返していた。
終わった季節を抱えながら、 普通の顔で生きることには少しずつ慣れてしまった。
しかし慣れたからといって、 苦しくないわけではなかった。
その夜、菫は仕事から帰ると化粧も落とさずにソファへ座った。
部屋は静かだ。
時計の針の音だけがやけに大きく聞こえる。
スマートフォンには友人からのメッセージが届いていた。
写真つきだった。
友人の子どもが一歳になったという報告。
小さな手。ケーキ。笑顔。
菫は画面を見つめた。
可愛いと思った。本当にそう思った。
友人が幸せそうでよかったとも思った。
しかしその気持ちとは別に、 胸の奥がきゅっと縮んだ。
私はどこで止まっているのだろう。
友人は母になり、 別の友人は家を建て、 職場の後輩は昇進し、 誰かは新しい恋を始めている。
それなのに私は、 まだあの箱の前で立ち尽くしている。
菫はスマートフォンを伏せた。
そのまましばらく目を閉じる。
何もしたくなかった。何かをする気力がないのではない。
ただ何をしても自分の人生が前へ進む気がしなかった。
料理をしても。本を読んでも。
掃除をしても。新しい服を買っても。
休日に出かけても。
どこかで思っている。本当はあの未来へ行くはずだったのに。
彼と一緒に暮らすはずだった部屋。
彼と選ぶはずだった食器。
彼と話すはずだった子どもの名前。
彼と迎えるはずだった季節。
それらが全部 菫の中で使われないまま残っている。
使われなかった未来ほど、 処分に困るものはない。
菫は深く息を吐いた。
そしてスマートフォンをもう一度手に取った。
最近何度も開いている匿名の読書ブログがあった。
最初は検索で偶然辿り着いた。
何を検索したのか今ではもうよく覚えていない。
たしか 「人生 遅れている 苦しい」 そんな言葉だった気がする。
情けない検索だと思った。
けれどその夜の菫は、 誰かに「大丈夫」と言ってほしかったわけではない。
むしろ軽々しく大丈夫と言われたくなかった。
ただ自分だけではないと思いたかった。
するとあるブログの記事が目に留まった。
遅れていたのではなく、育っていた。
そのタイトルに菫は指を止めた。
遅れていたのではなく、育っていた。
その言葉を見た瞬間、 胸の奥で何かが小さく鳴った。
記事を読んだ。
明るく励ますような文章ではない。
今すぐ前を向こう、 新しい自分になろう、 もっと楽しく生きよう。
そんな言葉はそこにはなかった。
ただ痛みを知っている人が、 痛みを無理に消さずに言葉にしているような文章だった。
菫は読みながら泣いた。
涙が出るほど感動した、というより、 自分の中でずっと凍っていたものが、少しだけ溶けたような涙だった。
私は遅れていたのではない。
育っていたのかもしれない。
そう思えたのは、本当に一瞬だけだった。
しかしその一瞬が 菫の夜を少し変えた。
それから菫はそのブログを読むようになった。
見つけられるために、香りを薄めない。
その記事も何度も読んだ。
少し重い文章だと思ったが、その重さが今の菫には必要だった。
軽い言葉では届かない場所がある。
明るさでは照らせない夜がある。
そのブログの言葉は、 菫の暗い部屋に無理やり灯りをつけるのではなく、 隣に小さな蝋燭を置いてくれるようだった。
菫は、その人にメッセージを送った。
こんなことをしてもいいのだろうかと迷いながら。
迷惑かもしれない。
知らない人に自分の痛みを送るなんて、 おかしいかもしれない。
それでも送った。
返事が来るとは思っていなかったが、返事は来た。
丁寧な言葉だった。そしてそこにはこう書かれていた。
終わった季節の外にも、 きっと門はあります。
門。
その言葉が菫の胸に残った。
終わった季節の外に、門がある。
もし本当にあるなら、 私はそこへ行けるのだろうか。
でも、どこに?
どうやって?
菫はスマートフォンを胸に置き、 ソファに沈み込んだ。
部屋の静けさが深くなる。
クローゼットの奥にある箱の存在が、 今日も彼女を呼んでいる気がした。
開けたくない。
しかし開けずにはいられない。
菫は立ち上がりクローゼットを開ける。
奥から白い箱を取り出し、床に座り蓋を開けた。
写真。
半券。
パンフレット。
カード。
彼の筆跡。
そこには、終わった季節が、まだ呼吸しているように詰まっていた。
菫は式場のパンフレットを手に取った。
白いチャペル。
光の入る窓。
笑顔の花嫁。
そのページを見た瞬間、胸が詰まった。
私はここへ行くはずだった。
この人と、ここへ行くはずだった。
誰かに祝福されるはずだった。
家族に安心してもらえるはずだった。
自分の人生が、ようやく形になるはずだった。
でも行けなかった。
菫はパンフレットを膝の上に置いたまま、 涙をこぼした。
声は出なかった。
泣く時でさえ、 彼女はどこか静かだった。
長い間泣き方まで忘れていたのかもしれない。
その時、ふと風が吹いた気がした。
部屋の窓は閉まっている。エアコンもつけていない。
それなのにどこかから花の香りがした。
菫は顔を上げた。
甘いのにどこか冷たい香り。
懐かしいようで知らない香り。
白い花のような。雨上がりの土のような。
そしてほんの少しだけ、 古い紙のような香り。
菫は不思議に思い立ち上がった。
部屋の中を見回す。
花など飾っていない。香水もつけていない。
窓も閉まっているが、香りは確かにあった。
胸の奥をそっと引っ張るような香り。
菫はその香りに導かれるように、 玄関へ向かった。
靴を履く。鞄も持たない。
スマートフォンだけを手に取る。
自分が何をしているのか、よく分からなかった。
ただ、部屋にいたらまたあの箱の前へ戻ってしまう気がした。
外へ出ると夜の空気は少し冷たかった。
街灯が濡れたように光っている。
雨は降っていないが、地面には昼間の雨の名残が少し残っていた。
菫は目的もなく歩き出した。
駅とは逆方向。
普段なら行かない道。
古い住宅街へ続く細い道。
小さな公園の横を通り、 閉店後の花屋の前を過ぎ、 見覚えのない路地へ入る。
花の香りはまだ微かに続いていた。
菫は自分がおかしなことをしていると思った。
夜に目的もなく歩いている。
知らない香りを追いかけている。まるで物語の中の人みたいだ。
そんなことを思いながらも、 足は止まらなかった。
しばらく歩くと、菫は見知らぬ場所に出た。
古い石畳。
蔦の絡まる壁。
街の音が急に遠くなったように感じた。
そしてその先に 黒い鉄の門があった。
菫は立ち止まった。こんな場所、あっただろうか。
この街にこんな門があっただろうか。
何度も近くを通ったはずなのに、 今まで一度も見たことがない。
黒い鉄の門は、夜の中で静かに佇んでいた。
門の向こうには薄暗い庭が見える。
奥の方に硝子の温室らしきものが光っていた。
菫の胸がどくんと鳴った。
門。
終わった季節の外にも、 きっと門はあります。
あの返信の言葉が胸によみがえる。
菫は息を呑んだ。
まさか。そんなことがあるはずがない。
これは偶然だ。ただの古い庭園かもしれない。
誰かの私有地かもしれない。
入ってはいけない場所かもしれない。
それなのに、菫はその門から目を離せなかった。
門の足元に、小さな紫の花が咲いていた。
菫だった。
小さな紫。
俯きがちな花だけれど、夜の中でも消えない色。
菫は門の前に立ち尽くした。
手にはスマートフォン。
部屋には開いたままの白い箱。
終わった季節の品々。
彼との写真。
半券。
式場のパンフレット。
それらを置いたまま、 菫はここまで来てしまった。
門の向こうから花の香りが流れてくる。
白い花の香り。
雨上がりの土の香り。
どこか懐かしい香り。
菫は門の取っ手に手を伸ばしかけた。
しかしその手が止まった。
怖い。
もしこの門をくぐったら、 本当に何かが終わってしまう気がした。
菫は門の前で動けなくなった。
その時、門の奥から声がした。
「入るかどうかは、貴女がお決めなさい。」
菫は驚いて顔を上げた。
門の向こう、温室へ続く石畳の先に、 黒いドレスの女性が立っていた。
美しい人だった。
現実の人というより、 古い物語から抜け出してきたような人。
白い肌。黒い髪。静かな眼差し。
その女性は、菫を責めるでも急かすでもなく、 ただそこに立っていた。
「ここは……。」
菫の声は震えていた。
「秘密の花園です。」
女性はそう言った。
「秘密の、花園……」
「ええ。 終わったと思った季節の中で、 まだ自分の花を探している女性たちが、時折迷い込む場所です。」
菫の胸がぎゅっと締めつけられた。
終わったと思った季節。
まだ自分の花を探している女性たち。
それは自分のことだと思った。
「私は……入ってもいいんですか?」
菫が尋ねると、女性は静かに微笑んだ。
「貴女が入りたいのであれば。」
その答えは優しかったが、菫に代わって決めてくれるものではなかった。
入っていいですよ、ではない。
入らなければなりません、でもない。
貴女が入りたいのであれば。
その言葉に、菫は少し泣きそうになった。
ずっと誰かに決めてほしかったのかもしれない。
捨てなさい。忘れなさい。前を向きなさい。
もう終わったのだから進みなさい。
そう言われたら、 反発しながらも従えたかもしれない。
しかしこの女性は決めてくれなかった。
門を開けるかどうかを、 菫自身に返した。
菫は門の取っ手に手をかけた。
冷たい鉄の感触。
指先が震える。
終わった季節の外にも、きっと門はあります。
あの言葉がまた胸の中で鳴った。
菫は目を閉じた。
彼との未来はもう戻らない。
そのことを認めるのは怖い。
でも、このまま箱の前で時間を止め続けることも、もう限界だった。
私はまだ咲いていいのかもしれない。
その一文を菫は心の中で繰り返した。
そして門を押した。
黒い鉄の門は、思っていたよりも静かに開いた。
きしむ音はほとんどしなかった。
ただ、花の香りが少しだけ濃くなった。
菫は一歩、門の中へ入った。
その瞬間、足元の小さな菫の花が 夜風に揺れる。
黒いドレスの女性は静かに微笑んだ。
「ようこそ。」
その声はどこか懐かしかった。
菫は涙をこらえながら 石畳の上に立っていた。
振り返れば、門の外にはいつもの街がある。
前を向けば、知らない花園がある。
どちらも怖かったが、菫はもう 門の外だけが世界のすべてではないことを知ってしまった。
温室の奥で白い花が揺れている。
その向こうに誰かの気配がした。
白い花のような、静かな気配。
菫にはまだそれが誰なのか分からないが、その気配は不思議と恐ろしくなかった。
まるで、誰かが少し先で、「大丈夫、私もここを通りました。」と言っているようだった。
菫はゆっくりと温室へ向かって歩き始めた。
手ぶらのまま。しかし胸の中には、 まだ終わった季節の箱を抱えたまま。
その箱をどうすればいいのか、まだ分からない。
捨てるのか。しまうのか。
開くのか。燃やすのか。
それとも抱えたままでも進めるのか。
何も分からない。
しかしひとつだけ分かることがあった。
私は門の前から一歩入った。
それだけで今夜は十分だった。
同じ頃。
澪は自分の部屋で目を覚ました。
眠っていたはずなのに、 胸の奥がふっと熱くなって目が開いた。
窓辺の百合が夜の中で香っている。
時計を見ると深夜だった。
澪はしばらく天井を見つめた。
夢を見ていた気がする。
黒い鉄の門。
小さな菫の花。
門の前に立つ女性。
そしてその女性が一歩、門の中へ入るところ。
澪は起き上がり花人手帖を開いた。
暗い部屋の中で灯りをつける。
ペンを取りこう書いた。
――菫さんが門をくぐった気がする。
書いてから自分でも不思議に思った。
ただの夢かもしれない。自分の想像かもしれない。
しかし胸の奥には確かな感覚があった。
誰かが終わった季節の外へ出るための一歩を踏み出した。
澪は手帖の下にもう一行書いた。
――私は救うのではなく、咲いて待つ。
その言葉を見つめながら、 澪は息を吐いた。
明日、秘密の花園へ行こう。
そう思った。
きっと何かが始まっている。
扉がもう本当に開いているのだと、 澪には分かった。
窓辺の百合が夜の中で白く香っていた。
その香りは、どこか遠くの花園まで届いているようだった。
第二話では菫の視点を描きました。
Season4は澪だけの物語ではありません。
澪の香りに導かれて、 別の女性が秘密の花園へ近づいてくる物語でもあります。
菫は表向きには普通に生きています。
仕事もしている。
人と話すこともできる。
部屋も整っている。
生活は壊れていない。
しかし内側では、 ある季節の終わりからまだ出られずにいます。
長く付き合った人。
結婚の話が出ていた人。
その人との未来が終わった時、 菫は恋だけを失ったのではありません。
その未来の中にいた自分も 一緒に失ったように感じていました。
だから思い出の品を捨てられない。
写真。
半券。
式場のパンフレット。
指輪のカタログ。
それらはただの物ではありません。
その中には、「こうなるはずだった私」が入っているのです。
だから持っているのは苦しい。でも捨てるのも苦しい。
手放すことが、 愛した時間をなかったことにするように感じてしまうから。
菫はまだ、終わった季節を“失敗”として抱えています。
女として失敗した。選ばれなかった。
形にできなかった。前へ進めなかった。
その思い込みが彼女を門の前で止めています。
しかし今回、菫は門を見つけました。
澪の言葉に触れ、 「終わった季節の外にも門がある」という気配を受け取り、 夜の中で本当に黒い鉄の門の前に辿り着きました。
ここで大切なのは、 魔女が菫の代わりに決めなかったことです。
誰かを救うとは、 相手の代わりに門を開けてあげることではありません。
その人の手で門を開けられるように、 ただ静かにそこに立っていること。
菫はまだ何も解決していません。
思い出の箱も胸の中に抱えたままです。
彼との未来もまだ手放せていません。
しかし彼女は門の前から一歩、花園の中へ入りました。
それだけで今夜は十分なのです。
変容はいつも劇的に始まるわけではありません。
たった一歩。たった一言。たった一つの香り。
それだけで人生の季節が変わり始めることがあります。
菫は秘密の花園へ入りました。
次回、彼女は魔女と澪に出会います。
そして自分でもまだ知らない花の名を、 少しずつ思い出していくことになります。
次回、第三話。
「椿の花人」
どうぞお楽しみに。
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