真島あみオフィシャルブログ
21世紀的魔女論

シーズン5第2話 夜会の扉


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花人夜会の夜がやって来た。

澪は鏡の前に立っていた。

ベッドの上には白いドレスが広げられている。

柔らかな光沢のある生地に、細い肩紐。

腰のあたりは緩やかに絞られ、裾に向かって静かに広がるデザインだった。

数日前、何軒もの店を歩いてようやく見つけた一着だった。

試着室で袖を通した時はこれしかないと思った。

百合のような白。

余計な装飾のないすっきりとした形。

今の自分にはこのドレスがふさわしいと思えた。

しかし夜会が近づくにつれて、澪の中に妙な迷いが生まれていた。

もっと華やかな方がよかっただろうか。

少し色があった方が、あの花人たちの中でも見劣りしないのではないか。

澪はドレスを手に取り、鏡の前で身体に当ててみた。

悪くはない。

むしろよく似合っていると思う。

けれど頭の中には別の女性たちの姿が浮かんでいた。

深紅のドレスを着た薔薇の女性。

妖しい紫を纏った蘭の女性。

柔らかな桃色の芍薬の女性。

自分の白は、あの色彩の中であまりにも控えめなのではないか。

そう考えた瞬間、澪は小さく苦笑した。

「またやってる」

誰も何も言っていない。

まだ夜会にすら行っていない。

それなのに、もう自分を他の女性たちと比べている。

澪は白いドレスをベッドへ戻し、化粧台の前に座った。

鏡の中には三十九歳の自分がいる。

少し前までこの年齢を口にすることさえ嫌だった。

結婚していないこと。子どもがいないこと。

長く想いを寄せていた男性に選ばれなかったこと。

そんなことばかりを数えて、自分の人生に不足しているものを探していた。

けれど今は違う。自分の花を知っている。自分の蜜も、香りも、少しずつ育ててきた。

それなのに、今夜はまた別の不足を探している。

澪は鏡の中の自分を見つめた。

「私って忙しいな」

思わず笑ってしまった。

選ばれないことを嘆いていたかと思えば、今度は薔薇のような華やかさがないと嘆いている。

人間の欲望というものは、なかなか休ませてくれないらしい。

 

澪は引き出しから白い百合を思わせる小さな香水瓶を取り出した。

手首にひと吹き。

首筋にもうひと吹き。

肌の温度に触れた香りがゆっくりと立ち上がる。

澪は目を閉じた。

自分がうっとりできる装いをする。

誰かに勝つためではなく、自分の美意識を楽しむために。

そんな基本的なことを今夜は忘れかけていた。

澪は白いドレスに着替え、髪を整えた。

唇にはほんの少し血色を深める色を選んだ。

耳元には小さな真珠。

鏡の中の自分は派手ではなかった。

しかし澪はその姿を見て、ようやく少し微笑んだ。

今夜はこの私で行こう。

そう決めて花人夜会の招待状を鞄に入れた。

 

夜の街を抜け、澪は秘密の花園へ向かった。

いつもの細い道を歩いているはずなのに、今夜は周囲の景色が少し違って見えた。

古い石塀には蔦が絡まり、街灯の光が濡れた葉に反射している。

やがて甘い香りが漂ってきた。

百合だけではない。

薔薇、梔子、蘭。

濃密な甘さの奥に、湿った土や樹木の匂いが重なっている。

黒い鉄の門が見えた。

澪は足を止める。

門にはいつもは見かけない深紅のリボンが結ばれていた。

蔦の間には小さな灯りがいくつも吊るされ、風に揺れている。

門の向こうには見慣れた花園があった。

しかしその奥に広がる景色は、澪の知っているものとは少し違っていた。

温室から黄金色の光が溢れている。

硝子の壁には無数の蝋燭が映り込み、まるで温室そのものが巨大な宝石箱になったようだった。

どこからか音楽が聞こえてくる。

弦楽器の低い音色。

控えめな笑い声。

グラスが触れ合う澄んだ音。

そして、花の香り。

澪はゆっくりと門を開けた。

足元の石畳には白い花弁が散らされている。

両側には背の高い薔薇が咲き、少し進むと紫の蘭が硝子の器から優雅に枝を伸ばしていた。

その先では淡い藤色の花房が頭上から垂れ下がっている。

澪は思わず立ち止まった。

「すごい……」

以前訪れた夜会も、十分に幻想的だった。

けれど今夜は、花園全体が祝祭のために目覚めたようだった。

あの頃はただ夢中で歩いた。

自分がここにいていいのか分からず、花々の名前も、その香りの意味も、何ひとつ知らなかった。

しかし今は少し違う。

澪はどの花にもその花だけの美意識があることを知っている。

薔薇には棘がある。

蘭には独特な誘惑の仕組みがある。

椿は、咲いた姿のまま季節を終えることがある。

花々は清く正しく咲いているわけではない。

それぞれが自分の生命を生きている。

そんな花人たちが一堂に会するのだ。

澪の胸に不安とは別の高揚が湧き上がってきた。

ああ、楽しみだ。

今夜はどんな女性たちに会えるのだろう。

澪はドレスの裾を少し持ち上げ、温室へ向かった。

 

 

温室の扉の前には魔女が立っていた。

黒いベルベットのドレス。

胸元には深紅の石がひとつ。

長い黒髪が肩を流れ、唇には夜の薔薇を思わせる赤が差されている。

いつもよりも華やかな装いだったが、不思議と飾り立てているようには見えなかった。

むしろ、魔女の存在そのものが黒いドレスにふさわしい理由を与えているようだった。

「お待ちしておりました、澪さん」

魔女は微笑んだ。

「こんばんは、魔女さん」

澪は緊張しながら頭を下げた。

「素敵な装いですね」

魔女は澪の白いドレスを見た。

「百合の夜装ですね」

澪は少し照れた。

「ずいぶん迷ったんです。もっと華やかな方がいいのかなって」

魔女は楽しそうに目を細めた。

「まあ。今宵はまだ始まってもおりませんのに」

澪は苦笑した。

「そうなんです。自分でも呆れています」

魔女は何も咎めず、澪の手から招待状を受け取った。

そして扉の脇に置かれた銀色の盆から、小さなカードを一枚取り上げた。

白い厚紙に金色の文字が記されている。

 

――百合。

 

「今宵はこちらのお名前でお過ごしくださいませ」

「百合……」

「この夜会では、原則として本名を用いません。皆様ご自分の花の名で呼び合います」

澪はカードを受け取った。

「どうしてですか?」

魔女は少し考えるようにしてから答えた。

「名前には、さまざまなものが付いてまいりますから」

「さまざまなもの?」

「年齢、職業、家庭、肩書き。結婚しているか、子どもがいるか、社会でどのように評価されているか。私たちは名前を聞いただけで、その方がどのような人生を歩んでいるのか、つい知りたくなるものです」

澪は頷いた。

初対面の相手と話す時、まず仕事や住んでいる場所を尋ねる。

結婚しているかどうかを気にする。

年齢を聞けば、自分と比べる。

それはごく自然にしてきたことだった。

「しかし今宵は、そのようなものを一度脱いでいただきたいのです」

魔女は続けた。

「ここでは、誰かの妻でも、母親でも、娘でも、会社員でもありません。もちろんそれらが悪いということではありませんよ。どれも大切な人生の一部です」

魔女は澪の持つカードを見た。

「ただ今宵は、百合としてお過ごしください。皆様もそれぞれの花としてここにいらっしゃいますから」

澪は白いカードを見つめた。

百合。

そこには白石澪という文字はなかった。

三十九歳とも独身とも書かれていない。

佐伯に選ばれなかった女性とも、書かれていない。

ただ、百合。

澪はその潔さを少し心地よく感じた。

「分かりました」

魔女は静かに微笑んだ。

「それでは、どうぞ。花人夜会へようこそ」

扉が開いた。

 

 

澪は息を呑んだ。

温室の中には数十人もの女性たちが集まっていた。

天井から吊るされた硝子の燭台。

長いテーブルに並ぶ果実や菓子。

銀の器に盛られた赤い葡萄。

深い紫色の無花果。

宝石のように透き通った砂糖菓子。

金色の縁取りが施されたグラス。

花々は床だけでなく、壁を這い、柱を覆い、天井近くまで伸びていた。

そして、その花々の間に立つ女性たち。

澪は思わず足を止めた。

深紅のドレスを纏った女性がいる。

漆黒の髪を高く結い上げ、首筋には大粒の宝石が輝いていた。

別の女性は、青みを帯びた紫のドレスを着ている。

長い手袋の先でグラスを持ち、誰かの話を聞きながら妖しく微笑んでいた。

淡い桃色のドレスを着た女性は、豊かな髪を肩に流し、楽しそうに笑っている。

濃い緑のドレスを着た女性。

銀色の刺繍が施された黒いドレスの女性。

透き通るような薄紫のドレスの女性。

それぞれの装いは、まるでその女性の内側から生まれてきたもののようだった。

 

誰ひとり、同じではない。

そして誰ひとり、自分の個性を隠そうとしていなかった。

「まあ、百合さん!」

艶やかな声がした。

振り返ると、深紅のドレスの女性がこちらへ歩いてきた。

薔薇の女性だった。

前回の夜会で、二番目の恋について語ってくれた女性。

その姿を見た瞬間、澪の胸に懐かしさが広がった。

「薔薇さん!」

「お久しぶりね。すっかり雰囲気が変わったじゃない」

薔薇の女性は澪を眺め、楽しそうに微笑んだ。

「まあ、白がよく似合うこと」

「ありがとうございます」

「以前は、少し申し訳なさそうに立っていたのを覚えているわ。今夜はずいぶん違うのね」

澪は驚いた。

「そうでしょうか」

「ええ。背中が違うわ」

そう言って薔薇の女性は、自分の背筋を少し伸ばしてみせた。

その所作は、女王のように優雅だった。

澪は思わず見惚れた。

深紅の唇。

堂々とした姿勢。

視線を向けられることを、少しも恐れていないような佇まい。

こんな女性が本当にいるのだと思った。

「こちらへいらっしゃい。皆様も貴女に会いたがっていたのよ」

薔薇の女性に導かれ、澪は温室の奥へ進んだ。

 

そこには懐かしい女性たちがいた。

芍薬の女性は、淡い桃色のドレスを纏っていた。

以前よりも表情が柔らかく、それでいて、誰かの都合に合わせて笑っているようには見えなかった。

「百合さん、お久しぶりです」

「芍薬さん!」

二人は微笑み合った。

「お元気でしたか?」

「ええ。最近は、自分の時間をずいぶん大切にできるようになりました」

芍薬の女性は少し悪戯っぽく笑った。

「以前の私なら、今夜も誰かのお世話をして回っていたでしょうね。でも今日は、こちらの無花果のタルトをゆっくり味わうつもりなんです」

澪は笑った。

その言葉が芍薬の女性らしくて嬉しかった。

自分の蜜を誰に流すか。

優しさと無防備さは違う。

かつて魔女が教えてくれたことを、この女性は自分の暮らしの中で生きているのだ。

その隣には蘭の女性がいた。

紫のドレス。

艶のある黒髪。

細い指先。

近づくと、どこか異国の花を思わせる香りがした。

「百合さん」

蘭の女性はゆっくりと澪へ微笑んだ。

「お久しぶりです」

「お久しぶりです。今夜も素敵ですね」

「ありがとう。でも、貴女の白も素敵よ」

蘭の女性は少し首を傾げた。

「白というのは不思議な色ね。どんな色の隣にいても、別の色にはならないもの」

澪はその言葉に少し驚いた。

白は、どんな色の隣にいても白。

そう言われるととても誇らしい色のように思えた。

けれど、その隣に立つ蘭の女性はあまりにも妖艶だった。

紫のドレスは彼女の身体の動きに合わせて柔らかく揺れ、笑うたびに人を惑わせるような気配が漂う。

澪は自分の白いドレスを見下ろした。

そして慌てて視線を戻した。

今夜は比べない。

そう決めたはずだった。

しかし、比較は決意しただけで消えるものではないらしい。

 

 

「百合さん、こちらの方々にもご紹介するわ」

薔薇の女性が声をかけた。

澪は、温室の中央にある大きなテーブルへ案内された。

そこには初めて会う花人たちがいた。

最初に目が合ったのは、藤の女性だった。

薄紫の長いドレス。

髪には小さな真珠が編み込まれ、長い袖が手首の動きに合わせて優雅に揺れていた。

藤の女性は澪を見ると、ゆっくりと微笑んだ。

「はじめまして。藤です」

「百合です。よろしくお願いします」

「こちらこそ」

藤の女性は澪の白いドレスに視線を向けた。

「素敵な白ですね。今夜は月明かりまで貴女のためにあるよう」

澪は頬を赤らめた。

「ありがとうございます」

藤の女性の言葉には、不思議な余裕があった。

相手を褒める時でさえ慌てない。

何かを求めているようでもない。

そして、澪が今まで出会ってきた女性たちとは違う種類の官能があった。

露骨な誘惑ではない。

ゆっくりと相手の視線を引き寄せるような、たおやかな色香。

その奥に簡単には踏み込ませない気高さがある。

 

次に紹介されたのは、蓮の女性だった。

淡い灰桜色のドレスは濡れた花弁のような光沢を帯び、しなやかな身体の曲線を優雅に包んでいた。

艶やかな黒髪は緩やかにまとめられ、耳元には透明な石がひとつ揺れている。

伏せた睫毛には聖女のような神聖さがありながら、艶めく唇と物憂げな眼差しには、どこか退廃的な色香が漂っていた。

清らかでありながら、妖しい。

その相反する魅力に澪は思わず見惚れた。

「蓮です」

澪は頭を下げた。

「百合です」

蓮の女性は静かに澪を見つめた。

「貴女の香り、好きです」

突然そう言われ澪は驚いた。

「ありがとうございます」

「懐かしい気持ちになる香りですね」

澪は胸の奥が少し熱くなった。

懐かしい。

以前から何度も自分の周りに現れてきた言葉だった。

百合のようで、白檀のようで、雨上がりの土のような香り。

それは自分の香りなのだろうか。

それとも、まだ知らない何かの香りなのだろうか。

澪が考え込んでいると別の女性が近づいてきた。

「ねえ、蓮さん。百合さんを独り占めしないでくださる?」

 

少し低く、艶のある声だった。

振り返ると黒に近いボルドーのドレスを着た女性が立っていた。

ダリアの女性だった。

大きく開いた襟元。

濃い色の唇。

髪は短く整えられ、首筋には細い金色の鎖が光っている。

その姿は、華やかというよりも危険なほど魅惑的だった。

澪は一瞬言葉を失った。

ダリアの女性は、そんな澪の反応を楽しむように微笑んだ。

「はじめまして。ダリアよ」

「は、はじめまして。百合です」

「知っているわ」

「え?」

「貴女の噂、少し聞いているもの」

澪の胸が跳ねた。

「私の噂ですか?」

「ええ。言葉を書く百合がいるって」

ダリアの女性はグラスを持ち上げた。

「その香りに惹かれて、新しい花人が門をくぐったそうね」

菫のことだ。

澪は少し戸惑いながら頷いた。

「私が何かをしたというわけではないんです」

「そうでしょうね」

ダリアの女性は楽しそうに笑った。

「花はいちいち蝶を追いかけたりしないもの」

その言い方があまりにも自然で、澪は思わず笑ってしまった。

 

ダリアの女性は澪をじっと見つめた。

「ところで百合さん。貴女、とても真面目そうね」

「そう見えますか?」

「ええ。少し心配になるくらい」

「心配?」

ダリアの女性は笑った。

「だってこんなに素敵な夜なのに、何か難しいことを考えていそうなんだもの」

図星だった。

澪は思わず目を伏せた。

「そんな顔をしていたんですね」

「していたわ」

ダリアの女性はテーブルから赤い果実をひとつ取った。

「今夜は楽しみましょう。せっかく地獄にこんな素敵な夜が用意されたんだから」

そう言って、彼女は果実を口に運んだ。

澪はその姿に見惚れた。

この女性は、自分の暗さを隠していない。

むしろ、陰影そのものを美意識にしているようだった。

薔薇とは違う。

蘭とも違う。

藤とも、蓮とも違う。

ダリアという花そのもののような女性。

澪はその姿を見ながら思った。

この人は一体どんな地獄を生きてきたのだろう。

そして、その地獄をどんなふうに自分の美に変えてきたのだろう。

知りたい。

もっと話してみたい。

その欲望が澪の胸に生まれた。

しかし同時に、また別の感情も忍び込んできた。

羨ましい。

こんなふうに、何も恐れず自分の色を出せたなら。

こんなふうに、初対面の相手さえ魅了できたなら。

自分も、もっと違う女性になれたのではないだろうか。

澪はその考えに気づいて息を止めた。

まただ。

私は今、ダリアになろうとしている。

 

 

夜会は華やかに進んでいた。

音楽が変わり、花人たちは思い思いに場所を移している。

薔薇の女性は、笑い声の中心にいた。

蘭の女性は、数人の花人たちと静かに会話を交わしている。

藤の女性が歩くと、その長い袖が花房のように揺れた。

蓮の女性は、窓辺で誰かの話に耳を傾けていた。

ダリアの女性は、赤い葡萄をつまみながら楽しそうに笑っている。

誰もが自分の花として存在していた。

それぞれの魅力はまったく違う。

競い合っているようには見えない。誰かより上に立とうとしている女性もいない。

それなのに澪だけが、ひとりで競争していた。

薔薇のようになりたい。

蘭のような官能がほしい。

藤のような優雅さも。

蓮のような静かな神秘も。

ダリアのような凄みも。

欲しいものが次々と浮かんでくる。

澪は、自分が少し恥ずかしくなった。

花人として生きると決めたはずだった。自分の百合を愛そうと何度も思ってきた。

しかし今、目の前にこれほど魅惑的な女性たちが現れると、自分の百合だけでは足りないような気がしてしまう。

 

澪はグラスを手に取り、窓辺へ移動した。

外には夜の花園が広がっている。

硝子に映る自分の姿。

白いドレス。小さな真珠。控えめな口紅。

その向こうには、深紅や紫や漆黒のドレスを纏った花人たちがいる。

白は静かだった。あまりにも静かだった。

澪は硝子に映る自分へそっと問いかけた。

私の花には何があるのだろう。

朝倉は、白は空白ではないと言ってくれた。

受け止める場所なのだと。

その言葉は嬉しかった。

けれど澪は、今夜初めて思ってしまった。

私は受け止めるだけの女性なのだろうか。

誰かを圧倒するような華やかさ。

目を離せなくなるほどの官能。

近づくだけで空気を変えてしまう凄み。

そういうものを、私だって持ちたい。

澪はグラスを握り直した。その時だった。

「百合さん」

背後から静かな声がした。

振り返ると魔女が立っていた。

黒いベルベットのドレス。深紅の唇。

その姿は、温室に集まる誰よりも静かで、誰よりも妖しかった。

魔女は澪の隣に立った。

「今宵はいかがですか?」

澪は微笑もうとした。

「とても素敵です。皆様、本当に魅惑的で……」

「ええ」

魔女は頷いた。

「そして?」

澪は言葉に詰まった。

魔女は静かに澪を見つめている。

その目からは、何かを隠せる気がしなかった。

澪は小さく息を吐いた。

「……少し、苦しいです」

「そうですか」

「こんなに素敵な夜なのに、私、ずっと他の女性たちと自分を比べてしまって」

魔女は何も言わなかった。

澪は続けた。

「薔薇さんを見ると、もっと華やかになりたいと思います。蘭さんを見ると、あんなふうに妖しい女性になりたいと思う。藤さんのような優雅さも、ダリアさんのような凄みも欲しいんです」

言葉にするほど胸が苦しくなった。

「私、自分の花を知ったはずなのに……」

澪は視線を落とした。

「百合だけでは、足りないような気がしてしまうんです」

温室の中では笑い声が続いていた。

グラスが触れ合う音。

低く流れる音楽。

花々の濃密な香り。

その華やかさとは裏腹に、澪の胸の中は少しずつ沈んでいた。

魔女はすぐには答えなかった。

そして澪の持つ白いカードに目を向けた。

 

――百合

 

「澪さん」

「はい」

「今宵、貴女はたくさんの花を見ましたね」

「はい」

「薔薇も、蘭も、藤も、蓮も、ダリアも。それぞれの花にうっとりなさいましたか?」

澪は頷いた。

「はい。本当に、素敵でした」

魔女は微笑んだ。

「それは、とてもよいことです」

澪は顔を上げた。

「よいこと……?」

「ええ。他の花の魅力に気づくことは、花人にとって素晴らしい楽しみです」

魔女は温室の中央へ視線を向けた。

「ただし、ひとつだけ気をつけなければならないことがあります」

澪は魔女を見つめた。

「何でしょうか?」

魔女は澪の胸元にある白いカードへ視線を戻した。

「他の花にうっとりすることと、他の花になろうとすることはまったく違うのです」

澪の胸が静かに鳴った。

他の花にうっとりすること。他の花になろうとすること。

その違いを澪は考えたことがなかった。

薔薇を見て素敵だと思う。

その華やかさに憧れる。

蘭の妖しさに見惚れる。

ダリアの凄みに圧倒される。

そこまではただ美しいものにうっとりしているだけだった。

けれど、そのあとに必ず自分にはそれがないと思っていた。

だから自分は足りないのだと。百合では不十分なのだと。

他の花の美しさを、自分の欠点を探すために使っていた。

 

澪はゆっくり顔を上げた。

魔女は微笑んでいた。

「百合さん。今宵はまだ、夜が始まったばかりです」

澪は少し驚いた。

「まだ、始まったばかり……?」

「ええ」

魔女は、温室の奥にある大きな扉へ視線を向けた。

澪もそちらを見た。

そこには、黒い木で作られた両開きの扉があった。

薔薇の蔓と金色の蝶が彫り込まれている。

澪は、今までその扉の存在に気づいていなかった。

「この先にも、何かあるんですか?」

魔女は楽しそうに微笑んだ。

「もちろんです」

そして澪へ向き直った。

「今宵は皆様の花を愛でるだけの夜ではありません」

その声には、どこか甘いものと残酷なものが同居していた。

「花人たちが、それぞれの花として生きることを選んだ夜。そこには当然ながら、甘いお話ばかりがあるわけではありません」

澪は息を呑んだ。

魔女は続けた。

「花の色が違えば、抱えてきた地獄も違います。貴女が羨ましいと感じたその華やかさの裏に、何があるのかも、今宵は知ることになるでしょう」

澪はもう一度温室を見渡した。

薔薇の女性が笑っている。

蘭の女性が静かにグラスを傾けている。

ダリアの女性が、誰かに何かを囁いている。

あれほど羨ましいと思った女性たち。

あの女性たちにも、自分には見えていないものがある。

当然のことだった。

以前の夜会ですでに教わったはずだった。

薔薇の女性にも、椿の女性にも、蘭の女性にも、芍薬の女性にも、それぞれの地獄があった。

それなのに澪は今夜また、目に見える華やかさだけで女性たちを眺めていた。

 

魔女は澪の耳元へ少しだけ顔を近づけた。

「百合さん」

その声は夜の花の香りのように静かだった。

「貴女が羨む花の中に、貴女の百合を羨む花がいるかもしれませんよ」

澪は目を見開いた。

「私の百合を……?」

魔女は答えなかった。

ただ、謎めいた微笑みを浮かべている。

その時、音楽が止まった。

温室の中にいた花人たちが、ゆっくりと顔を上げる。

薔薇の女性がグラスを置いた。

蘭の女性が静かに微笑んだ。

藤の女性が袖を整える。

蓮の女性が窓辺から歩き出す。

ダリアの女性が楽しそうに唇を上げた。

魔女は澪の前に手を差し出した。

「さあ、参りましょう」

「どちらへ?」

魔女は黒い扉を見つめた。

「今宵の、本当の花人夜会へ」

ゆっくりと扉が開き始めた。

その向こうから、今までよりもさらに濃密な花の香りが流れ込んでくる。

甘い蜜の香り。湿った土の匂い。

どこか毒を含んだような、妖しい香り。

そしてその奥に、懐かしい白い花の香り。

澪は思わず胸元のカードを握った。

 

――百合。

 

魔女はそんな澪を見つめて微笑んだ。

「今宵は貴女の百合にも、まだ知らない顔があることをお見せいたしましょう」

澪は息を止めた。

百合の、まだ知らない顔。

それは一体何なのだろう。

黒い扉の向こうから、ひとりの女性の笑い声が聞こえた。

やがて魔女の声が静かに響く。

「皆様。花人夜会の第二幕を始めましょう」

澪は白いドレスの裾を整えた。

胸の奥には、まだ比較という毒が残っている。

しかしその毒の向こうに、今まで知らなかった何かが待っている気がした。

澪は魔女の差し出した手を取らず、自分の足で一歩踏み出した。

その姿を見て、魔女は満足そうに微笑んだ。

黒い扉が完全に開いた。

花人たちの、本当の夜が始まろうとしていた。

 

 

 

 

あとがき

私たちは誰かの花を羨ましいと思った時、その女性がどんな地獄を通ってきたのかまでは知りません。

目に見える華やかさの奥には、その女性にしか分からない痛みや葛藤があるのかもしれません。

そして私たちが何もないと思っている自分の魅力を、誰かが羨ましいと思っていることもあるでしょう。

さて、夜会の第二幕が始まります。

花人たちは、なぜ今の花として生きることを選んだのでしょうか。

その色や香りは、どんな人生を通って生まれてきたのでしょうか。

華やかな花々の裏側に隠された物語を、澪はこれから知ることになります。

 

 

次回、第三話「花々が隠している地獄」。

どうぞお楽しみに。

 

 

 

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