真島あみオフィシャルブログ
21世紀的魔女論

シーズン4第5話 澪は誰かの入り口になる


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菫は椿の木箱を鞄に入れて会社へ向かう。

持っていく必要はなかった。

誰かに見せるものでもない。仕事で使うものでもない。

小さな木箱は鞄の中で少しだけ重かったが、その重みが今の菫には不思議と必要だった。

昨夜、菫は三つだけ見送った。

旅行の半券。

レストランのレシート。

式場見学の日にもらった小さな案内カード。

たった三つ。それだけ。

白い箱の中にはまだほとんどのものが残っている。

写真もある。式場のパンフレットもある。

指輪のカタログもある。誕生日にもらったカードもある。

彼の筆跡が残った封筒もある。

何もかも手放せたわけではない。

むしろ手放せなかったものの方がずっと多いが、三つだけ見送った。

その事実が菫の中で小さな灯りのように残っていた。

 

朝目が覚めた時、いつものように胸が重かった。

また一日が始まる。

また普通の顔をしなければならない。

そう思った。

しかしその重さの奥に、ほんの少しだけ違う感覚があった。

鏡の前に立つ。顔を洗う。化粧をする。髪を整える。

いつもと同じ朝。

けれど菫は、口紅を塗る前に少しだけ手を止めた。

いつもよりもほんの少し深い色を選ぶ。

赤ではないけれど、いつもの自分より少しだけ血が通って見える色。

椿の赤には遠いが、その気配だけを唇に乗せるような色だった。

鏡の中の自分を見て菫は思った。

私はまだ何も終わらせられていない。

でも、終わらせることを怖がっているだけの女ではなくなりたい。

その願いはまだ小さかった。

誰かに言えば笑われてしまうほど曖昧だったけれど、確かに菫の中に芽生えていた。

 

会社へ着くと、いつもの日常が待っていた。

メール。会議。資料。同僚との会話。昼休みの小さな笑い声。

何も変わっていない。

けれど菫の鞄の中には椿の木箱がある。

そのことだけが誰にも見えない秘密だった。

午後、コピー機の前で待っていると同僚が菫を見て言った。

「今日、なんか雰囲気違いますね」

菫は少し驚いた。

「え?」

「メイク変えました?」

「あ……口紅を」

「似合ってます。落ち着いてるけど綺麗!」

その言葉に菫はうまく返事ができなかった。

綺麗。その言葉を自分に向けられるのが少し苦手になっていた。

終わった女。失敗した女。選ばれなかった女。

そんな言葉ばかりが心の中にあったから、綺麗と言われると嘘のように感じてしまう。

しかし今日は違った

「ありがとうございます」

菫は小さく笑った。

その声はいつもより少しだけ自分のものだった。

 

その夜、菫は秘密の花園へ向かう。

黒い鉄の門はもう見つけられないかもしれないと思っていた。

けれどあの細い道を歩き、古い住宅街を抜け、閉店後の花屋の前を過ぎた時、やはりあの香りがした。

白い花。雨上がりの土。

古い手紙。そして、深い赤い椿の気配。

菫は胸に手を当てた。

怖さはまだある。

しかしその怖さの中に、少しだけ帰ってきたような感覚もあった。

門の前には小さな菫の花が咲いていた。

その奥には赤い椿がひとつ夜の中で灯っている。

菫は門を開けた。きしむ音はしなかった。

花園は静かだった。

温室へ向かう石畳の途中で昨日落ちていた椿の花を探したが、そこにはもう花はなかった。

代わりに土の上にほんの少し赤い跡のようなものが残っているだけだった。

菫はそれを見て少し寂しくなった。

消えてしまった。そう思った。

けれど同時に、落ちた花は消えたのではなく、土に還ったんだとも思った。

終わったものが跡形もなく失われるのではなく、何かの養分になっていく。

そんなことを考えた自分に菫は驚いた。

以前の自分ならこんなふうには思わなかった。

花は落ちたら終わり。

恋は終わったら失敗。

未来が形にならなければ無駄。

そう思っていた。

けれど今は、少し違う見方ができる。

それはまだ信念ではない。

ただ一瞬浮かんだだけの考え。

でもその一瞬が菫には大切だった。

 

温室の扉を開けると魔女と澪がいた。

魔女は黒いドレスで椿の花のそばに座っていた。

澪は窓辺の席にいて花人手帖に何かを書いているところだった。

菫が入ると澪は顔を上げた。

「こんばんは」

その声に菫は安心した。

「こんばんは」

菫は椿の木箱を鞄から取り出し、テーブルの上にそっと置く。

魔女はそれを見て微笑んだ。

「見送れましたか?」

菫は迷ってから首を横に振った。

「全部は無理でした」

それから小さく続けた。

「三つだけです」

澪の目が静かに菫を見る。

菫は木箱に手を置いた。

「旅行の半券と、レシートと、式場見学の案内カードだけ。それだけここに入れました」

「そうですか」

魔女は頷いた。

「よく見送りましたね」

菫は驚いた。

「でも、たった三つです」

「たった三つではありません」

魔女は椿の花に視線を向けた。

「貴女の中で、長く季節を止めていた三つです」

菫は木箱を見つめた。

たった三つ。でも確かに重かった。

半券一枚。レシート一枚。小さな案内カード一枚。紙としては薄い。軽い。

けれどその中に閉じ込められていた時間は重かった。

あの旅行で笑っていた自分。

レストランで彼の向かいに座っていた自分。

式場の案内カードを未来の入口のように見つめていた自分。

その自分を見送るには、たった三つでも十分すぎるほど勇気がいった。

菫は小さく頷いた。

「苦しかったです」

「ええ」

「でも……少し、静かになりました」

その言葉は菫の中から自然に出た。

軽くなった、ではなかった。前向きになった、でもなかった。

ただ、少し静かになった。

見送った三つの品が、胸の中で暴れるのをやめたような感覚だった。

魔女は微笑んだ。

「それが見送りの始まりです」

菫は木箱の蓋をそっと撫でる。

「捨てたわけではないのに、不思議です」

「手放しとは、必ずしも捨てることではありません」

魔女は言った。

「それを、どこに置くかを決めることです」

菫は顔を上げた。

「どこに置くか…」

「ええ。胸に刺したままにするのか。足元に散らしたままにするのか。それとも、見送りの箱に入れて季節として置くのか」

菫はその言葉をゆっくり受け取った。

彼との思い出を胸に刺したままにしていた。触れるたびに痛くなる場所に置いていた。

だから何度も傷ついていたのかもしれない。

思い出が悪かったのではない。置き場所が痛すぎたのだ。

「私は、ずっと胸に刺していたんですね」

菫が呟くと魔女は頷いた。

「ええ」

「だからずっと痛かった」

「ええ」

菫は深く息を吐いた。

自分を責める言葉ではなかった。でも、真実だった。

自分が痛い場所に置き続けていたものがある。

それを少しずつ違う場所へ移していく。それが見送りなのだ。

 

澪は静かにそのやり取りを聞いていた。

菫の声が少しずつ変わっていることに気づいていた。

まだ震えている。まだ不安定で、時々言葉が止まる。

けれど最初に会った時よりも、菫の声にはわずかな輪郭が生まれていた。

痛みの中から自分の言葉を探している声。

誰かの言葉を借りるのではなく、自分の胸の中を手探りしている声。

澪はその姿に胸を打たれていた。

菫は椿の木箱を見つめたまま言った。

「澪さん」

突然名前を呼ばれて澪は顔を上げた。

「はい」

菫は少し迷ってから澪を見た。

「澪さんの文章がなかったら、私はここへ来られなかったと思います」

澪の胸がどくんと鳴った。

その言葉は、予告されていたもののようで、けれど実際に聞くと想像よりずっと重かった。

澪はすぐに返事ができなかった。

菫は続けた。

「最初に読んだ時、あの文章がなかったら、私は今もずっと自分の部屋で箱を見ていたと思います」

澪は菫の目を見た。

菫の目はまだ涙を含んでいた。

けれどその奥に、ほんの少し光があった。

「遅れていたのではなく、育っていた」

菫はその言葉を口にした。

澪の文章の一文。自分が匿名の読書ブログに震えながら置いた言葉。

「その言葉を読んだ時、私は初めて少し息ができました」

澪は胸の奥が熱くなるのを感じた。

嬉しかった。確かに、嬉しかった。

自分の言葉が誰かに届いた。誰かの夜に小さな灯りになった。

それは澪がずっと密かに願っていたことだった。

いつか誰かの夜に灯りを置けるような文章を書きたい。

古いノートに書いてあった言葉。忘れていた願い。

それが今、目の前で形になっている。

けれど同時に怖かった。自分の言葉が誰かの人生に触れてしまった。

菫はここへ来た。箱を開けた。泣いた。見送った。

それは菫自身の力だと分かっている。

けれどそこに自分の文章が関わっている。

その事実が澪の胸に重くのしかかった。

 

「私の文章は……」

澪はようやく口を開いた。

「ただ、私が自分のために書いたものでした」

菫は頷いた。

「はい」

「誰かをここへ連れてこようと思って書いたわけではなくて」

「はい」

「誰かを変えようと思ったわけでもなくて」

「はい」

澪は言葉に詰まった。

「だから……少し怖いです」

菫は驚いたように澪を見た。

「怖い?」

澪は小さく頷いた。

「自分の言葉が、誰かの人生に触れることが」

温室の中に静かな沈黙が落ちた。

魔女は何も言わなかった。

菫もすぐには答えなかった。

澪は手を膝の上で握る。

「間違えたらどうしようと思います。傷つけたらどうしようと思います。自分の痛みから生まれた言葉が、誰かの痛みに触れてしまうことが、まだ怖いです」

言葉にしてみると、澪は自分がどれほど怖がっていたのかに気づいた。

秘密の花園で魔女と出会い、澪は自分の中に蜜があることを知った。

そして香りを薄めずに放つことを学んだ。

けれど香りが誰かに届いた先のことまでは、まだ知らなかった。

届くということは嬉しいだけではない。

誰かの胸に入っていくということ。

誰かの閉じた箱の前まで届いてしまうということ。

誰かの涙を呼ぶこともあるということ。

それは美しい。でも怖い。

澪は初めてその怖さをはっきり見つめていた。

 

菫はしばらく澪を見ていた。

そして微笑んだ。

「でも、澪さんの文章は私に何かを命令しませんでした」

澪は顔を上げた。

「命令?」

「はい」

菫はゆっくり言葉を探した。

「前を向きなさい、とか。忘れなさい、とか。新しい恋をしなさい、とか。そういうことは書いてありませんでした」

澪は黙って聞いていた。

「ただ私のいる場所の少し先に、門があるかもしれないと思わせてくれました」

その言葉に澪の胸が震えた。

門。

澪が菫へ返信した言葉。

終わった季節の外にも、きっと門はあります。

「だから私はここへ来たんです」

菫は言った。

「連れてこられたのではなくて、自分で来ました」

その一言は澪の胸に深く入った。

連れてこられたのではなくて、自分で来た。

澪は菫を見つめた。

確かにそうだった。澪が菫を連れてきたのではない。澪の文章が菫を変えたのでもない。

菫は自分で門を見つけた。

自分で門をくぐった。自分で白いカードに書いた。自分で箱を開けた。自分で三つだけ見送った。

澪はその入口に小さな灯りを置いただけだった。

 

魔女が静かに口を開いた。

「澪さん」

「はい」

「貴女はもう、誰かの入口になっております」

澪の胸が大きく震えた。

誰かの入口。その言葉は、嬉しいようで、怖いようで、どこか懐かしいようでもあった。

「入口になるということは、相手の人生を背負うことではありません」

魔女は言った。

「入口は、ただそこにあります。入るかどうかはその方が決めること。くぐった先で何を見るかも、その方のものです」

澪はゆっくり息を吸った。

「私は、背負わなくていいんですね」

「ええ」

「変えようとしなくていい」

「ええ」

「救おうとしなくていい」

魔女は微笑んだ。

「その通りです」

澪の目に涙が滲んだ。

救おうとしなくていい。それは菫のためだけではなかった。

澪自身のためにも必要な言葉だった。

誰かに届く言葉を持った時、人はつい届いた先の人生まで責任を持とうとしてしまう。

相手が変わるかどうか。救われるかどうか。幸せになるかどうか。

自分の言葉が正しかったかどうか。そこまで背負おうとする。

でもそれは花の仕事ではない。

花は、咲く。香る。蜜を持つ。入口に灯りを置く。

そこから先はその人自身の季節だ。

澪は花人手帖を開いた。

そして書いた。

 

――私の言葉は誰かを運ぶための腕ではない。

――門の前に置く小さな灯りである。

 

その文字を見つめていると、菫が小さく笑った。

「澪さん」

「はい」

「やっぱり、少し魔女さまみたいですね」

澪の手が止まった。

温室の空気が一瞬だけ変わったように感じた。

魔女は何も言わなかった。

ただ静かに紅茶を飲んでいる。

澪は菫を見た。

「私が、ですか?」

「はい」

菫は少し恥ずかしそうに笑った。

「もちろん、魔女さまと同じという意味ではなくて」

「はい」

「でも、澪さんの言葉は……なんというか、答えを押しつけるのではなくて、少し先に灯りを置いてくれる感じがします」

澪は息を呑む。

灯り。さっき、自分が手帖に書いたばかりの言葉。

菫はそれを見ていなかったはずなのに、同じようなことを口にした。

「だから、少し魔女さまみたいだなって」

菫の声は柔らかかった。

何気ない一言。

けれど澪には、その言葉が胸の奥の深い場所に落ちた。

 

魔女さまみたい。

澪は時々、温室の硝子に映る自分と魔女の影が重なるのを見ていた。

それが何を意味するのかは分からなかった。

分からないまま見ないふりをしていた。

けれど今、菫の口からその言葉が出た。

澪は少し怖くなる。

自分が魔女になりたいわけではない。

誰かを導く者になりたいわけでもない。

でも、自分の中にかつて魔女から受け取ったものが育っている。

それは確かだった。

魔女は静かに言った。

「澪さん」

「はい」

「恐れなくてよろしいのです」

澪は、魔女を見た。

「貴女が私になる必要はありません」

その言葉に澪の胸が少し緩んだ。

「貴女は貴女の花として、誰かの入口になればよいのです」

澪はゆっくり頷いた。

魔女になるのではない。

魔女の言葉を真似るのでもない。

自分の花として、自分の言葉で、誰かの入口に灯りを置く。

それが今の澪に与えられている季節なのかもしれない。

 

菫は澪と魔女のやり取りを静かに見ていた。

そしてふと椿の木箱に視線を落とした。

「私は、まだ入口に入ったばかりなんですね」

魔女は頷いた。

「ええ」

「まだ、何も分かっていません」

「ええ」

「でも……前より少しだけ、自分のことを見られるようになった気がします」

その言葉に澪は胸が温かくなった。

菫は続けた。

「私はずっと、彼を失ったと思っていました。もちろん、それもあります。でも、それだけじゃなかった」

菫は椿の木箱に手を置いた。

「私は、“選ばれた私”になれなかったことが苦しかったんだと思います」

澪は静かに菫を見た。

その言葉は菫自身のものだった。澪の文章でも魔女の言葉でもない。

菫が自分の箱と向き合い、泣きながら見つけた言葉だった。

「選ばれた私になれなかったから、自分の人生が許されなかったような気がしていたんです」

菫は苦しそうに、けれど確かに言った。

「でも、たぶん……誰かに選ばれることでしか自分を許せないままだったら、私は結婚しても苦しかったのかもしれません」

その言葉を聞いた瞬間、澪の胸に深い沈黙が落ちた。

それは澪自身にも刺さる言葉だった。

佐伯に選ばれていたら。もし、あの人の一番になれていたら。

自分は幸せだったのだろうか。

もちろん嬉しかったかもしれない。救われたように感じたかもしれない。

けれど、もし自分の価値をすべて相手の選択に預けたままだったら、その恋の中でやはり自分の根を失っていたかもしれない。

澪はゆっくり息を吐いた。

菫の言葉が今度は澪の中に入ってきていた。

誰かの入口になったと思っていた。

けれど、入口に立った菫の言葉が澪自身の奥の扉も開いていく。

人は一方的に救うのでも、導くのでもない。

誰かの変容を見ることで自分の中のまだ眠っている花にも気づかされる。

澪は花人手帖に書いた。

 

――誰かの入口になる時、私自身の中にも新しい入口が開く。

 

魔女はそれを見て静かに微笑んだ。

「もう、私が申し上げる前に知っているのですね」

澪は顔を上げた。

「え?」

魔女はそれ以上何も言わなかった。

けれどその言葉は澪の胸に残った。

もう、私が申し上げる前に知っている。

それはまるで澪の中に、魔女と同じ場所へ通じる小さな道ができ始めているような言葉だった。

温室の硝子に三人の姿が映っていた。

黒いドレスの魔女。

白いブラウスの澪。

椿の木箱を抱えた菫。

一瞬、澪の影と魔女の影が重なる。

菫はそれを見て少し目を細めた。

何か言いたげだったが何も言わなかった。

ただ、椿の木箱を胸に抱きしめた。

 

帰り際、菫は澪と一緒に門まで歩いた。

魔女は温室に残っていた。

花園の夜は静かだった。

白い花が香り、椿の赤が闇の中に沈んでいる。

門の近くには小さな菫の花が咲いていた。

その花を見て菫が少し笑った。

「澪さんは、どうして私を菫だと思ったんですか?」

澪は少し考えた。

「最初にメッセージを読んだ時、小さな紫の花みたいだと思ったんです」

「小さな?」

「はい。少し俯いていて、でも消えていない色がある花」

菫はその言葉を静かに聞いていた。

「でも、魔女さんは私を椿だと言いました」

「はい」

「どっちが本当なんでしょう?」

澪は少しだけ微笑んだ。

「どちらも本当なのかもしれません」

「どちらも?」

「魔女さんが言っていました。女性は一つの花だけでできているわけではない、と」

菫は小さな菫の花を見つめた。

「今の私は菫で。奥にいる私は椿?」

「そうかもしれません」

澪は続けた。

「今、俯いている自分も本当で。終わりを見送る力を持っている自分も本当なのだと思います」

菫はしばらく黙っていた。

そしてぽつりと言った。

「それなら少し安心します」

「安心?」

「今の私が弱くても、奥の私まで消えたわけじゃない気がするから」

澪はその言葉に胸が震えた。

今の私が弱くても、奥の私まで消えたわけじゃない。

それは菫自身が見つけた新しい言葉だった。

澪は静かに頷いた。

「消えていないと思います」

菫は笑った。

「ありがとうございます」

黒い鉄の門が目の前にあった。

菫は門を出る前に澪を振り返った。

「澪さん」

「はい」

「私はまだ、椿だと言われてもよく分かりません」

「はい」

「でも、あの箱を持って帰った時少しだけ思いました」

菫は椿の木箱を抱え直した。

「終わることが怖いままでも、見送れるものはあるのかもしれないって」

澪は微笑んだ。

「はい」

「怖くなくなってからじゃなくていいのかもしれない」

「はい」

菫は門の向こうの夜を見た。

「怖いまま、三つだけ見送れたから」

その言葉は、菫らしく不器用で、でも確かに美しかった。

澪はそれを心に刻んだ。

 

菫は門をくぐり、夜の街へ戻っていった。

澪は花園の内側からその背中を見送った。

手を振ることはしなかった。声をかけることもしなかった。ただそこに立っていた。

一輪の百合として。

菫の姿が見えなくなってから、澪は花人手帖を開いた。

そして今日の最後にこう書いた。

 

――私は誰かを救うために咲くのではない。

――私が私の花として咲いた時、誰かが自分の花を思い出すことがある。

――その時、私は入口になる。

――入口は背負わない。ただ開いている。

 

書き終えると夜風がページを揺らした。

門のそばの菫の花が小さく揺れる。

その奥で椿の赤が深く香った。

秘密の花園へ招かれる女たちは、菫だけではない。

澪はまだそのことを知らなかった。

けれど花園のどこかで、すでに次の香りが動き始めていた。

 

 

 

 


 

あとがき

第五話では、澪が初めて「誰かの入口になる」ということを深く受け取りました。

そして今回、菫は澪に言いました。

「澪さんの文章がなかったら、私はここへ来られなかったと思います」

その言葉は澪にとって嬉しいものでした。

でも同時に、とても怖いものでもありました。

自分の言葉が誰かの人生に触れる。自分の香りが誰かを門の前へ導く。

それは美しいことです。けれど軽いことではありません。

誰かに言葉が届くということは、相手の痛みの近くまでその言葉が入っていくということでもあります。

澪はその重みに戸惑いました。

誰かの入口になるとは、その人を変えることではありません。

その人を救うことでもありません。その人の人生を背負うことでもありません。

入口はただ開いている。入るかどうかはその人が決めること。

くぐった先で何を見るかもその人のものです。

澪は誰かを救ったのではありません。ただ自分の花として咲いていた。

その花の香りが菫に門の存在を知らせたのです。

 

次回、Season4最終話。

終わった季節の外にある門を探している女たちが、少しずつ澪の香りに導かれ始めます。

「秘密の花園へ招かれる女たち」

どうぞお楽しみに。

 

 

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