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真島あみの真骨頂🌹永遠に色褪せない“褒め言葉”という美容液

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澪は朝倉律の言葉を何度も思い出していた。
――白石さんの言葉は、誰かに教わっているというより思い出しているみたいですね。
その一言は澪の胸の奥に残り続けた。
褒められたというよりも、見つけられたような感覚だった。
文章が上手いと言われたわけでも綺麗だと言われたわけでもないが、澪の奥に眠っていたものが、自分でもまだ名前をつけきれていない場所が、朝倉の眼差しによってそっと照らされたような気がした。
嬉しかった。そして怖かった。
嬉しいという感情は時々とても厄介だ。
それは蜜のように甘く、花の内側を満たしてくれる。
けれど同時に、もっと欲しいと思わせる。
もう一度、あの言葉をもらいたい。
もう一度、あの眼差しで見つけられたい。
もう一度、私の中にあるものを「それは貴女のものですね」と言ってほしい。
澪はその気持ちが胸に芽生えたことに気づいていた。
それは佐伯に向けていた苦しい恋とは違う。
選ばれなかった自分を埋めてもらいたいという焦りではないが、確かに危うさを含んでいた。
朝倉に自分の言葉を読んでほしい。
そう思ってしまった。
朝倉にどう思われるだろう。
そう考えてしまった。
花屋で交わした短い会話のあと、澪は何度もノートを開いた。
本当はあの日の出来事を書きたかった。
蕾の百合。
白いアネモネ。
花屋の冷たい空気。
朝倉の声。
「本が自分の声で立てるようにする」という言葉。
「必要としている人に見つけてもらうための入口を作る。」という言葉。
そのすべてが澪の中で静かに混ざり合っていた。
書きたい。けど書くのが怖い。
朝倉のことを書きたいわけではない。
彼を物語にしたいわけでもないが、彼の言葉によって動いた自分の内側を言葉にしたかった。
送粉者に出会うと花は嬉しい。
その嬉しさは悪ではない。
しかし送粉者に自分の価値を預ければ、また地獄へ戻る。
魔女の言葉を思い出しながら、澪はノートに一行を書いた。
――見つけられることは嬉しい。
でも見つけられるために咲き方を変えた瞬間、花は自分の香りを失う。
書いた瞬間、胸が少し震えた。
これは自分に必要な言葉だと思ったが、同時にブログへ出すには少し重い気がした。
恋愛のことだと思われるだろうか。
自意識過剰に見えるだろうか。
誰かに見つけられたいなんて、恥ずかしい女だと思われるだろうか。
澪はパソコンを開き、ブログの投稿画面を開いた。
真っ白な入力欄。
そこに自分の言葉を移そうとした。
しかし、指が止まった。
その瞬間別の声がした。
もっと普通にした方がいい。もっと読みやすくした方がいい。
朝倉さんのような人が読んでも、恥ずかしくない文章にした方がいい。
知らない誰かが読んでも、重くならない形にした方がいい。
花、蜜、香り、送粉者。
そんな言葉ばかりでは独特すぎる。
澪は最初に書いた文章を少しずつ直し始めた。
――見つけられることは嬉しい。
それを
――誰かに認めてもらえると、嬉しいものです。
に変えた。
――でも見つけられるために咲き方を変えた瞬間、花は自分の香りを失う。
それを
――でも人の評価に振り回されすぎず、自分らしさを大切にしたいですね。
に変えた。
読みやすい。分かりやすい。誰にでも伝わりやすい。
けれどそこからは花の匂いが消えていた。
澪はその文章を見つめた。
優しい。正しい。無難。誰も傷つけない。誰も置いていかない。
しかし澪の胸は少しも動かなかった。
そこにはあの日の花屋の冷たい空気も、白いアネモネの影も、朝倉の言葉に胸が震えた自分も、どこにもいなかった。
ただ感じのいい文章だけが残っていた。
澪は椅子にもたれ深く息を吐いた。
分かっている。
また香りを薄めようとしている。
それなのに投稿画面の前に座ると、薄めたくなる。
嫌われたくないから。変だと思われたくないから。
重いと思われたくないから。
そして朝倉律にもし読まれたとして、恥ずかしくない自分でいたいから。
澪はその事実に気づいた時、自分の中にある小さな見栄を見た気がした。
朝倉に見つけられたい。でも、みっともないところは見られたくない。
美しいところだけを見てほしい。整ったところだけを見てほしい。
自分の言葉が震えていることや、まだ誰かの反応を気にしていることや、見つけられたいと願っていることは隠しておきたい。
それは香りを薄めることに似ていた。
本当の香りではなく、相手に好まれそうな香りへ調整すること。
澪は投稿を下書きにして保存した。
そしてパソコンを閉じる。
その夜、窓辺の百合はまだ蕾のままだった。
固く閉じた白い蕾。
けれど近づくとほんの少し香る。
澪はその香りを吸い込みながら、自分もまだ、開くことを怖がっている蕾のようだと思った。
咲きたい。
けれど咲いた姿を見られるのが怖い。
香りたい。
けれどその香りを嫌われるのが怖い。
花は咲く前からこんなに怖いのだろうか。
澪はそんなことを考えながら眠った。
翌日。
職場では社内広報の記事について小さな打ち合わせがあった。
澪が初めて文章を任された、あの社内広報。
その後も時々、簡単な文章の修正や部署紹介の短い原稿を頼まれるようになっていた。
大きな仕事ではないけれど、澪にとっては自分の言葉が仕事の中でも少しずつ使われ始めていることが不思議で、嬉しくもあった。
会議室には澪を含めて四人がいた。
上司。同僚の女性。広報担当の男性。そして佐伯。
佐伯は資料を見ながら穏やかに話していた。
以前の澪なら、彼が同じ部屋にいるだけで自分の中のすべての感覚が彼の方へ向いてしまった。
声。手元。表情。自分に向けられる視線の有無。
ほんの些細なことを拾い集めて、そこに意味を探していた。
けれど今は少し違う。
佐伯はもう澪の世界の中心ではなかった。
胸がまったく動かないわけではないけれど、彼の指輪を見ても以前のように自分が崩れてしまうことはなかった。
自分の中の何かが、静かに彼から離れたのだと思う。
そのことに澪は少しだけ安心していた。
打ち合わせの中で、広報担当の男性が言った。
「今回の記事、もう少し明るめにした方がいいかもしれませんね。最近、社内も忙しくて疲れている人が多いので、重くない感じで。」
同僚の女性も頷いた。
「そうですね。白石さんの文章は丁寧で素敵なんですけど、少し情緒があるというか。今回はもう少しサラッと読める方がいいかも」
悪意はない。むしろ褒め言葉も含まれている。
丁寧で素敵。情緒がある。
けれど澪の胸に小さな針が刺さった。
少し情緒がある。もう少しサラッと。重くない感じ。
ここでも同じことが起きている。
澪は資料を見つめながら頷いた。
「分かりました。少し軽めに調整してみます。」
その返事は仕事としては正しかった。
社内広報には目的がある。読み手もいる。
自分の香りをすべて出せばいいというものではない。
仕事では場に合わせた調整も必要だ。
澪はそれを分かっていたけれど、心の奥では別の問いが立ち上がっていた。
調整と、薄めることはどう違うのだろう。
相手に届く形に整えることと、嫌われないように自分を消すことは、どこで分かれるのだろう。
打ち合わせが終わり資料をまとめていると、佐伯が声をかけてきた。
「白石さんの文章、僕はけっこう好きですけどね。」
澪は一瞬だけ手を止めた。
昔の澪なら、その一言だけで一日中胸を鳴らしていただろう。
好き。その言葉の部分だけを何度も取り出して、自分に向けられたもののように温めていたかもしれない。
けれど今は不思議と穏やかだった。
嬉しくないわけではない。褒められれば嬉しいけれど、その嬉しさは澪の根を揺らすほどではなかった。
「ありがとうございます。」
澪は微笑んだ。
「でも今回は、社内向けなので少し整えます。」
佐伯は頷いた。
「白石さんらしさが消えない程度に、ですね。」
その言葉に澪は驚いた。
白石さんらしさ。佐伯の口から出たその言葉は、以前なら天から降ってきた花びらのように見えただろう。
けれど今は、少し違う響きで澪に届いた。
白石さんらしさが消えない程度に。それは今日ずっと澪の中にあった問いと重なった。
整えることと、消すこと。
澪は小さく頷いた。
「はい。消えない程度に。」
その言葉を自分にも言い聞かせるように言った。
その日の夕方。
澪は会社を出たあと、まっすぐ帰らず少し遠回りをした。
街は夕暮れの色に染まっていた。
ビルの窓に淡い橙色の光が映り、人々の足音が一日の終わりへ向かって流れていく。
澪は歩きながら考えていた。
自分の香りを薄めないこと。
けれど、相手に届く形に整えること。
その違いが分からなかった。
ブログなら自分の香りを濃く出してもいいのかもしれない。
けれど仕事では?人間関係では?好きな人の前では?
いつでも濃く香っていればいいのだろうか。
それとも、香りを調えることもまた美なのだろうか。
澪はふと花屋の前に立っていた。
ガラス越しに中の花々が見える。
今日は朝倉の姿はなかった。
そのことにほんの少しだけ寂しさを感じた自分に気づき、澪は苦笑した。
会えたら嬉しい。
会えなくても、私は私のままでいる。
その練習をしているのだと思った。
花屋には入らず、澪はそのまま秘密の花園へ向かった。
黒い鉄の門は夕闇の中で静かに佇んでいた。
門をくぐると、街の音が遠ざかる。
今日の花園には不思議な香りが漂っていた。
甘いのに少し苦い。
華やかなのにどこか湿った影がある。
百合とも薔薇とも違う。
いくつもの花を混ぜたような、それでいて何かひとつの意志を持った香り。
温室の中には魔女がいた。
黒いドレス。深い緑のショール。
テーブルの上にはいくつかの小瓶が並んでいた。
透明な瓶。琥珀色の液体。乾いた花びら。木の枝。白い粉のようなもの。
澪はそれを見て、目を瞬かせた。
「今日は何をされているんですか?」
魔女は微笑んだ。
「香りを調えております。」
「調える……」
「ええ。調香です。」
その言葉に澪は胸が小さく反応した。
薔薇の女性が言っていた言葉。
香りは隠しても漏れる。だったら、自分で調香した方がいいわ。
魔女は小さな紙片に一滴、琥珀色の液体を落とした。
そしてそれを澪に差し出した。
「嗅いでごらんなさい。」
澪は受け取り、そっと鼻に近づけた。
最初に甘さが来た。花の蜜のような、柔らかな甘さ。
けれどその奥に少し苦みがあった。
土のような。薬草のような。雨に濡れた木の幹のような。
澪は少し驚いた。
「甘いだけじゃないんですね。」
「ええ。」
魔女は頷いた。
「甘いだけの香りは、長くは残りません。」
澪はその言葉に胸を突かれた。
魔女は続ける。
「苦み、湿り気、影、冷たさ。そういうものが少しあることで香りは深くなります。」
澪は紙片をもう一度嗅いだ。
確かに最初に感じた甘さよりも、奥にある苦みの方が長く記憶に残った。
「私たちも同じです。」
魔女は言った。
「明るさだけ、優しさだけ、分かりやすさだけでできた香りは、たしかに受け入れられやすいかもしれません。
しかし、深く残る香りには影があります。」
澪は椅子に座った。
今日ここへ来る前に考えていたことが、まるで最初から知られていたかのようだった。
「魔女さん。」
「はい。」
「香りを薄めないことと、香りを調えることは違いますか?」
魔女は澪を見た。
「ええ。違います。」
澪は身を乗り出した。
「どう違うんでしょう?」
魔女は小瓶をひとつ手に取った。
「薄めるとは、嫌われぬために自分の本質を消すことです。」
その声はゆっくりだった。
「調えるとは、届くべき相手へ届くように、本質を美しく整えることです。」
澪はその言葉を胸の中で繰り返した。
嫌われぬために、本質を消すこと。
届くべき相手へ届くように、本質を整えること。
「たとえば、貴女の文章。」
魔女は言った。
「痛みをすべて削り、湿度をなくし、誰にでも読みやすいだけの言葉にするなら、それは薄めることです。」
澪は昨夜のブログの下書きを思い出した。
ーー誰かに認めてもらえると、嬉しいものです。
ーー人の評価に振り回されすぎず、自分らしさを大切にしたいですね。
悪くはないけど、あれは薄めた言葉だった。
「しかし、痛みを痛みのまま投げつけるのではなく、言葉の形を整え、余白を作り、読む者が受け取れる器にするなら、それは調えることです。」
澪は息を吸った。
「仕事で文章を書く時も同じですか?」
「もちろんです。」
魔女は微笑んだ。
「場に合わせることが、すべて悪いわけではありません。花も季節や光や土に合わせて咲き方を変えます。しかし百合が薔薇の香りを真似る必要はない。百合は百合として、その場にふさわしく香ればよいのです。」
百合は百合として、その場にふさわしく香ればよい。
澪は胸の奥が少しほどけるのを感じた。
そうか。香りを薄めないとは、いつでも強く香ることではない。どこでも同じ濃度でいることでもない。
大切なのは本質を消さないこと。自分の花を見失わないこと。
仕事では仕事の器へ。ブログではブログの器へ。恋では恋の距離感へ。
けれどどの器に入っても、百合が百合であることをやめないこと。
澪は花人手帖を開いた。
そして書いた。
――薄めるとは、嫌われないために本質を消すこと。
――調えるとは、届くべき相手へ届くように本質を美しく整えること。
――百合は百合として、その場にふさわしく香ればいい。
書いていると魔女が別の紙片を差し出した。
「こちらも。」
澪は受け取った。
今度はすっきりとした香りだった。
軽い。清潔。明るい。けれど通り過ぎてしまう。
「これは……嫌いではないです。でも、あまり残らない気がします。」
魔女は頷いた。
「薄めすぎた香りです。」
澪はもう一度嗅いだ。
確かに、嫌われにくそうな香りだった。
強すぎない。重くない。誰の邪魔もしない。
けれどその香りは澪の中に何も残さなかった。
「私は、こういう文章を書こうとしていました。」
澪は言った。
魔女は何も言わずに聞いていた。
「悪くはないんです。優しいし読みやすい。でも、何も残らない。私が本当に見たものも、感じたものも、そこにはない。」
「それに気づけるようになったことが素晴らしいことです。」
魔女は言った。
「以前の貴女なら、反応が良ければそれを正解だと思っていたでしょう。」
澪は頷いた。
確かにそうだった。
拍手がついた。コメントが来た。優しいと言われた。ほっとしたと言われた。
それなら、これでいいのだと思っただろう。
自分の中の違和感よりも、外からの反応を正解にしていただろう。
でも今は、違和感を無視できなかった。
それは香りが戻り始めている証なのかもしれない。
「魔女さん。」
「はい。」
「私、朝倉さんに読まれても恥ずかしくない文章を書こうとしていました。」
口に出すと顔が熱くなった。
「本当は誰にも言いたくなかったです。でも、たぶんそれがいちばん大きかったんです。朝倉さんがもし読んだら、重いと思うかもしれない。変だと思うかもしれない。だから整えたかった。綺麗なところだけ見せたかった。」
魔女は責めることなく頷いた。
「女性ですもの。見つけてほしい人の前で、美しくありたいと思うのは自然なことです。」
その言葉に澪は少し救われた。
「しかし」
魔女は続けた。
「美しくありたいことと、別人になろうとすることは違います。」
澪は胸の奥が静かに痛んだ。
「朝倉律さんに見つけられたいからといって、朝倉律さんが好みそうな香りへ変わろうとしてはなりません。」
澪は黙って頷いた。
「貴女が貴女の香りを放っていたからこそ、彼は貴女の言葉に“思い出しているようだ”と感じたのでしょう?」
その言葉に澪は息を止めた。
そうだった。
朝倉が反応したのは、澪が整えた無難な言葉ではない。
蕾について話した時の、途中のものを信じるのが苦手だったという言葉。
それは澪の奥から出た言葉だった。
飾りきれていない、少し震えた言葉だった。
だからこそ届いたのかもしれない。
「貴女が恐れているその独特さこそ、貴女の香りです。」
魔女は言った。
澪の目の奥が熱くなった。
独特さ。ずっと怖かったもの。
変だと思われるかもしれないもの。
重いと遠ざけられるかもしれないもの。
分かりにくいと置いていかれるかもしれないもの。
けれど、それこそが香り。
薄めてしまえば誰にも嫌われないかもしれない。
でも、本当に見つけてほしい人にも届かない。
澪はゆっくり頷いた。
「私、もう一度書き直します。」
「ええ。」
「薄めるんじゃなくて、調えます。」
魔女は微笑んだ。
「よろしいです。」
「本当に見たものを消さないまま、届く形にしてみます。」
「それでこそ、花人です。」
その言葉を聞いた時、温室の中の香りがふわりと深くなった気がした。
甘さ。苦み。湿り気。影。
そのすべてが混ざって美しい香りになっている。
澪は思った。
私も、甘さだけでできているわけではない。
痛みもある。怖さもある。見栄もある。認められたい気持ちもある。嫌われたくない弱さもある。
でも、それらをすべて消さなくていい。
消さずに調えていけばいい。
花は土の匂いを完全に消して咲くわけではない。
土から生まれたことを隠さずに、それでも花として香るのだ。
家に帰ると、澪はすぐにパソコンを開いた。
昨日の下書きを表示する。
薄めた文章。
読みやすく、優しく、無難な文章。
澪はそれをすべて消した。
胸が少し痛んだけれど、怖くはなかった。
次にノートを開く。
最初に書いた一文をもう一度見た。
――見つけられることは嬉しい。
でも見つけられるために咲き方を変えた瞬間、花は自分の香りを失う。
澪はその一文をそのまま使うか迷った。
強い。少し鋭い。けれどこれは澪の本音だった。
澪は新しい投稿画面にゆっくり書き始めた。
見つけられることは嬉しい。
誰かが自分の言葉に立ち止まってくれること。
自分でもまだ名前をつけきれていない感覚を、「それは貴女のものですね」と見つけてくれること。
それは花のそばに小さな羽音が近づくような喜びに似ている。
けれどその喜びのために、咲き方を変えてしまいそうになることがある。
もっと好かれるように。
もっと分かりやすいように。
もっと軽く、明るく、扱いやすく。
そうやって香りを薄めた言葉は、誰かを傷つけにくいかもしれない。
けれど本当に届いてほしかった場所には、もう届かないのかもしれない。
花は見つけられるために香りを変えるのではない。
自分の奥にあるものを、自分の季節に従って放つ。
その香りに気づく者が近づいてくる。
その香りが合わない者は通り過ぎていく。
どちらも、きっと自然なことなのだと思う。
私はまだ、見つけられることが怖い。
見つけられないことも怖い。
誰かの反応に心が揺れる。
それでも、見つけられるために自分の香りを薄めるのは、もう少しずつやめていきたい。
私の中にある痛みも、影も、静けさも、消すためにあるのではなく、いつか香りになるためにあったのかもしれないから。
書き終えた時、澪はしばらく画面を見つめた。
怖かったけれど、昨日の下書きよりもずっと息がしやすかった。
これは、誰にでも好かれる文章ではないかもしれない。
重いと思う人もいるだろう。
分かりにくいと思う人もいるかもしれない。
しかし澪はそこに、自分の香りが少し残っているのを感じた。
完全ではない。
まだどこかで、誰かの反応を気にしている。
それでも薄めきらずに書けた。
澪は深く息を吸った。
そして投稿ボタンを押す。
すぐに画面を閉じようとして、やめた。
今回は、少しだけ見届けてみようと思った。
反応があるかどうかではなく、自分が自分の香りを外へ出した瞬間をなかったことにしたくなかった。
投稿された記事が画面に表示される。
タイトルは、迷った末にこうつけた。
「見つけられるために、香りを薄めない」
澪はそのタイトルを見つめた。
少し強いが、今の自分には必要な強さだった。
窓辺の百合はまだ蕾のままだった。
けれどその蕾の先が、昨日よりわずかに緩んでいるように見えた。
澪は花人手帖を開き、今日の最後に一行書いた。
――私は好かれるために薄めるのではなく、届くために調える女になる。
書き終えると部屋にかすかな香りが広がった。
まだ開いていない百合が、見えないところで香りの準備を始めている。
澪はその香りを胸に吸い込み目を閉じた。
今夜、自分の言葉が誰に届くのかは分からない。
誰にも届かないかもしれない。
誰かに重いと思われるかもしれないけど、もう少しだけ信じてみたい。
自分の奥から出てきた香りが、いつかふさわしい誰かの元へ届くことを。
そして届かない相手がいても、それは失敗ではないということを。
花はすべての者に香るために咲くのではない。
ふさわしい風に乗るために、自分の場所で香るのだ。
第四話では、澪が再び自分の香りを薄めそうになりました。
きっかけは朝倉の言葉でした。
「白石さんの言葉は、誰かに教わっているというより、思い出しているみたいですね。」
その言葉は澪にとって大きな喜びでした。
しかし喜びが大きいほど、私たちは時に相手に合わせた自分になろうとしてしまいます。
もっと良く見られたい。もっと美しく見られたい。
もっと恥ずかしくない自分でいたい。
そう願うこと自体は悪いことではありませんが、そのために自分の本質を消してしまうなら、それは“調える”ことではなく、“薄める”ことになってしまいます。
今回、魔女は澪にこう伝えました。
薄めるとは、嫌われないために本質を消すこと。
調えるとは、届くべき相手へ届くように本質を美しく整えること。
この違いは花人にとても大切です。
何でもそのまま出せばいいわけではありません。
痛みを痛みのまま投げつけることが自分らしさなのではありません。
しかし嫌われないために痛みを消し、重いと思われないために影を消し、変だと思われないために独特さを削ってしまえば、そこにはもう、自分だけの香りは残りません。
花人は自分の香りを雑にばら撒く女性ではありません。かといって香りを消してしまう女性でもない。
自分の本質を大切にしながら、届く形へ美しく整える女性です。
澪は今回、朝倉に読まれても恥ずかしくない文章を書こうとしていましたが、魔女に言われてしまいます。
朝倉律さんに見つけられたいからといって、朝倉律さんが好みそうな香りへ変わろうとしてはなりません。
これは恋愛だけでなく、あらゆる人間関係や発信にも通じることだと思います。
好きな人に好かれるため。読者に離れられないため。
お客様に受け入れられるため。家族に心配されないため。友人に変だと思われないため。
私たちは知らないうちに自分の香りを薄めてしまうことがあります。
しかし貴女が恐れているその独特さこそ貴女の香りかもしれません。
濃すぎると言われたもの。重いと言われたもの。
分かりにくいと言われたもの。普通ではないと感じてきたもの。
その中に貴女だけの香りが眠っていることがあります。
大切なのはそれを消すことではなく、美しく調えること。
貴女が貴女の香りを薄めずに生きる時、ふさわしい人だけが、その香りに気づき始めるのだと思います。
次回、第五話。
「香りが嫌われる日」
どうぞお楽しみに。
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