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菫は白いカードを何度も見返していた。
テーブルの上に置いたままの白いカード。
魔女から渡されたもの。
そこには昨夜、自分で書いた二行があった。
――失敗、以外の言葉がまだ見つからない。 ――でも、探してみたい。
たった二行。
それだけだった。
けれど菫にとっては、 その二行を書くことさえ簡単ではなかった。
「失敗ではなかった」とは書けなかった。
「無駄ではなかった」とも書けなかった。
「いい時間だった」なんて、もっと書けなかった。
そんなふうに綺麗に言えるほど、 菫の中の痛みはまだ整っていない。
彼との時間を思い出すと、 胸はまだ苦しくなる。
一緒に選びかけた未来を思い出すと、 今でも息が詰まる。
式場のパンフレット。
旅行の半券。
誕生日にもらったカード。
指輪のカタログ。
クローゼットの奥の白い箱には、 終わった季節がそのまま入っている。
菫はその箱を捨てられない。捨てたら本当に終わってしまう気がする。
けれど持っていることも苦しい。
その矛盾の中で菫はずっと止まっていた。
しかし昨夜、 秘密の花園で魔女に言われた。
終わった恋は、貴女が失敗した証ではございません。
その季節が役目を終えたということです。
そして、椿の花を見せられた。
深い赤。
艶のある葉。
散る時でさえ花の形を失わない花。
菫がずっと怖いと思っていた花。
花ごと落ちる椿。
終わりをそのまま見せる花。
魔女はその椿を「終わりを恐れぬ花」だと言った。
けれど菫にはまだ分からない」。
終わりを恐れないなんて、どうすればいいのだろう。
終わりを受け入れるなんて、どうすればいいのだろう。
菫は終わりを受け入れることが怖かった。
終わりを受け入れた瞬間、 自分が本当に負けたことになる気がした。
彼に選ばれなかったこと。
未来が形にならなかったこと。
何年もかけた時間が、 どこにも辿り着かなかったこと。
それを自分で認めることになる気がした。
だから菫は、終わった恋を終わらせられなかった。
終わっているのに。
もう戻らないと分かっているのに。
それでも心のどこかで、 終わりを認めないことで 自分の人生をかろうじて支えていたのかもしれない。
菫は白いカードの文字を指でなぞった。
――失敗、以外の言葉がまだ見つからない。
本当にその通りだ。
まだ見つからない。
でも、探してみたい。
その一文だけが、 かすかな灯りのように菫の中に残っていた。
その週、菫はいつも通りに働いた。
朝起きて、顔を洗い、化粧をする。
髪を整え仕事用の服を着る。
鏡の前で表情を確認する。
大丈夫。今日も普通に見える。
会社では、誰も菫が夜ごと白いカードを見つめていることなど知らない。
誰も彼女のクローゼットの奥に白い箱があることなど知らない。
誰も菫が秘密の花園へ行ったことなど知らない。
仕事は進んだ。
メールを返し、資料を確認し、会議で必要なことを話した。
昼休みには同僚と笑った。
「菫さん、最近ちょっと疲れてます?」
不意にそう聞かれて菫は一瞬だけ言葉に詰まった。
「え?」
「なんとなく。いつも通りなんですけど、少し考えごとしてる感じがして」
菫は曖昧に笑った。
「大丈夫です。少し寝不足なだけで」
それも嘘ではなかった。けれど本当のことでもなかった。
秘密の花園に行きました。
魔女に会いました。
あなたの花は椿です、と言われました。
終わった恋を、失敗以外の言葉で書いてごらんなさいと言われました。
そんなことを言えるはずがない。
同僚は軽く頷いた。
「無理しないでくださいね」
「ありがとうございます」
話はそれで終わった。
菫は少し安心した。そして少し寂しくもあった。
誰にも知られないまま、 自分の中で何かが変わり始めている。
そのことは、静かで、心細かった。
しかし同時に、 大切なものは最初から誰かに説明しなくてもいいのかも、とも思った。
まだ言葉にならないもの。まだ人に渡せないもの。
まだ自分の中で震えているだけのもの。
それを無理に説明しようとすれば、 きっとすぐに壊れてしまう。
菫はその夜も帰宅すると白いカードをテーブルに置いた。
そしてペンを持った。
魔女の課題。
終わったものを失敗と呼ばずに書いてごらんなさい。
菫はしばらく考えた。
彼との恋を、失敗以外の言葉で呼ぶなら。
あの時間を、無駄以外の言葉で呼ぶなら。
あの箱の中にあるものを、未練以外のものとして見るなら。
何と呼べるのだろう。
ペン先が止まる。言葉は出てこない。
代わりに胸の奥から苦いものが上がってくる。
失敗でしょ。無駄だったでしょ。
結局、何も残らなかったでしょ。そんな声がする。
菫は目を閉じた。
そして魔女の言葉を思い出す。
書けない日も、そのまま書けばよいのです。
菫はカードの余白に小さく書いた。
――今日も、失敗以外の言葉は見つからない。
そこで手が止まった。
けれどそのままもう少しだけ書いてみた。
――でも、捨てられないのはまだ愛しているからだけではない気がする。
書いてから菫は自分の文字を見つめた。
まだ愛しているからだけではない。
では何なのだろう。
未練。執着。寂しさ。悔しさ。恥ずかしさ。
自分だけ置いていかれたような惨めさ。
いろいろなものが混ざっている。
けれどそれだけでもない気がした。
菫はさらに書いた。
――あの箱には、彼だけじゃなくてあの頃の私も入っている。
書いた瞬間、胸が痛くなった。
そうだ。
菫が捨てられなかったのは彼だけではなかった。
彼との未来だけでもなかった。
あの頃の自分。
彼の隣で未来を信じていた自分。
式場のパンフレットを見ながら、 少し照れて、少し怖くて、 それでも幸せになれる気がしていた自分。
指輪のカタログを見て、 似合うかどうかよりも、 本当に自分が誰かの妻になる日が来るのかと胸を鳴らした自分。
旅行の半券を取っておいた自分。
写真の中で笑っている自分。
その自分を捨てられなかったのだ。
彼を忘れたくないだけではない。
あの時未来を信じていた自分まで、 愚かだったと切り捨てたくなかった。
菫はペンを置いた。
涙が落ちた。
けれどその涙は、昨日までの涙と少し違っていた。
苦しい。
けれど、ただ沈むだけではない。
何かが少し見えてきたような涙だった。
菫はクローゼットを見る。白い箱はまだ奥にある。
今日も開ける勇気はなかった。
でも初めて思った。
いつか開ける時が来るかもしれない。
捨てるためではなく。責めるためでもなく。
あの頃の自分に、会いに行くために。
数日後の夜。
菫は白い箱をテーブルの上に出した。
すぐには開けなかった。ただテーブルの上に置いた。
それだけなのに胸が苦しくなった。
白い蓋。
角が少しだけ擦れている。
何度も出しては戻し、 捨てようとしては閉じた箱。
菫は箱を前にして しばらく座っていた。
開けたらまた苦しくなる。
きっと泣く。きっと戻れなくなる。
でもこのまま見ないふりをしていても、 自分はずっとこの箱に繋がれたままだ。
菫は深く息を吸った。そして蓋を開ける。
中にあるものは何も変わっていなかった。
写真。半券。カード。パンフレット。カタログ。小さな封筒。
時間が止まったままのものたち。
菫は最初に一枚の写真を手に取った。
旅行先で撮った写真だった。
海の近く。
風が強い日。
菫の髪が乱れていて、 彼はそれを見て笑っている。
写真の中の菫も笑っていた。
本当に楽しそうに。
菫はその写真を見て胸が苦しくなった。
嘘ではなかった。
あの時の幸せは、嘘ではなかった。
それが一番苦しかった。
最初からひどい恋だったなら、 最初から間違っていたと思えたなら、 もっと簡単に捨てられたのかもしれない。
けれど違った。
幸せな時間は確かにあった。
未来を信じた時間も、確かにあった。
だからこそ、終わったことが苦しい。
菫は写真を胸に当てた。
「嘘じゃなかった」
小さく呟いた。それだけで涙がこぼれる。
彼が今どう思っているのかは分からない。
彼にとっても大切な時間だったのか。もう過去として整理されているのか。
新しい人生を始めているのか。
それは分からない。
でも少なくとも、菫にとって あの時間は嘘ではなかった。
だから苦しかった。
そして、だからこそただ失敗と呼んで切り捨てられなかった。
次に、式場のパンフレットを手に取った。
何度も見たせいで端が少し曲がっている。
白いチャペル。
光の差す窓。
花を持って歩く花嫁。
菫はそのページを見て、やはり胸が詰まった。
ここへ行くはずだった。この未来に入るはずだった。
そう思う。
けれど同時に、 そのページの中の花嫁が自分とは少し違う人に見えた。
あの頃の菫は、 その未来に入れば幸せになれると思っていた。
結婚すれば自分の人生が形になると思っていた。
親を安心させられる。友人たちと同じ季節へ行ける。
もう遅れていると思わなくて済む。もう自分の価値を疑わなくて済む。
そんなふうにどこかで思っていた。
菫はパンフレットを見つめながら、 初めてそのことに気づいた。
私は、彼と結婚したかった。
それは本当。
でも結婚という形で、 自分の人生を許されたかったのかも。
誰かに選ばれた女として、 もう自分を責めなくて済む場所へ行きたかったのかもしれない。
その気づきは痛かったけど正直だった。
菫は白いカードに書いた。
――私は彼だけじゃなくて、「選ばれた私」という未来を失った。
その一文を書いた時、 胸の奥に冷たい風が吹いた。
でも同時に、 少しだけ空気が動いた気もした。
今まで菫は、彼を失ったと思っていた。
もちろんそれもあるが、それ以上に、 彼に選ばれることで手に入るはずだった自分の安心を失ったのだ。
選ばれた私。
ちゃんと進んでいる私。
女として失敗していない私。
周りと同じ季節にいる私。
その未来が消えたから、 菫は終わった季節から出られなかった。
菫はペンを握ったまま泣いた。
言葉にすると痛みは増す。けれど同時に、 痛みの形が少しずつ見えてくる。
見えない痛みはただ怖い。
でも形が見えてくると、 少しだけ抱え方が変わる。
菫はその夜、箱の中身を全部出すことはできなかった。
写真を数枚。
パンフレット。
指輪のカタログ。
旅行の半券をひとつ。
それだけで精一杯だった。
しかし初めてそれらを床に広げ、 ひとつひとつ見た。
そしてすぐに戻さなかった。
テーブルの上に並べたまま、 しばらく眺めた。
そこには終わった季節があった。でも失敗だけではなかった。
幸せだった瞬間。未来を信じた自分。
誰かを愛そうとした自分。形にならなかった約束。
そして、選ばれたかった自分。
すべてが混ざっていた。
菫は白いカードの最後にこう書いた。
――まだ、失敗じゃないとは言えない。
――でも、失敗だけではなかった気がする。
その二行を書いて、 菫は小さく息を吐いた。
それはまだ椿の言葉ではない。
魔女のような美しい言葉でもない。
澪のように、誰かの夜へ灯りを置く文章でもない。
でも菫自身の言葉だった。
不器用で、揺れていて、 まだ涙に濡れている言葉。
その夜、菫は箱の中身をすべて戻さなかった。
写真の何枚かは箱へ戻した。
けれど式場のパンフレットだけは、 テーブルの上に残した。
もう一度、ちゃんと見てみようと思った。
捨てるためではない。
抱きしめるためでもない。
自分が何を失ったのかを、 ちゃんと知るために。
翌日、菫は仕事を終えたあと、まっすぐ家へ帰るつもりだった。
けれど足は別の道へ向かっていた。
あの夜と同じ細い道。
古い住宅街を抜ける道。
小さな公園の横を通り、 閉店後の花屋の前を過ぎる。
菫は自分がまたあの門を探していることに気づいた。
秘密の花園。
黒い鉄の門。
魔女。
澪。
椿。
あれは夢ではなかったのだろうか。
白いカードはたしかに手元にある。
でも日常の中に戻ると、 あの花園は少しずつ夢のように感じられた。
菫は歩いた。
夜の空気が頬に触れる。
やがて、あの香りがした。
白い花のような香り。
雨上がりの土のような香り。
そして、今日はその奥に 深い赤い花のような、静かな香りが混じっていた。
菫は立ち止まった。
目の前に黒い鉄の門がある。
門の足元には小さな菫の花。
そしてその向こうには、 椿の赤が夜の中でぽつりと灯っていた。
菫は門の取っ手に手をかけた。
前回よりも手の震えは少なかった。
怖くないわけではない。
でも、もうこの門の向こうに何があるのか知っている。
菫は門を開けた。
温室へ向かう石畳を歩く。
その途中、赤い椿の花が一輪、地面に落ちていた。
花ごと落ちている。
菫は足を止めた。
以前ならその姿が怖かった。終わりそのもののように見えた。
けれど今夜は少し違って見えた。
落ちてもなお、花の形を保っている。
土の上にあってもその赤は濁っていない。
菫はしゃがみ込んだ。
触れることはできなかった。ただ、見つめた。
「花ごと落ちても、花なんだ」
思わずそう呟いた。
その声は自分でも驚くほど小さかったが、温室の扉の前に立っていた魔女には届いたようだった。
「ええ」
魔女は言った。
「落ちたからといって、咲いた事実は消えません」
菫は顔を上げた。
魔女は黒いドレスを着て 静かにこちらを見ていた。
その隣には澪がいた。
白いブラウス。
百合のような静かな気配。
菫はなぜかほっとした。
澪は何も言わなかった。ただ少しだけ微笑んだ。
その微笑みは、 「待っていました」と言っているようだった。
でも、急かすものではなかった。
菫は温室へ入った。
テーブルの上には、今日も椿が置かれていた。
深い赤。
艶のある葉。
少し重たげな花。
菫は椅子に座り、 白いカードを取り出した。
魔女はそれを見ると微笑んだ。
「書けましたか」
菫は首を横に振った。
「分かりません」
「分からない?」
「書いたけど答えではありません。 失敗以外の言葉は、まだ見つかりませんでした」
そう言いながら、菫はカードを差し出した。
魔女は受け取り、ゆっくり読んだ。
澪も少し離れた場所で静かに見守っている。
魔女は読み終えるとカードをテーブルに置いた。
「よく書けています」
菫は驚いた。
「これで、ですか?」
「ええ」
「でも、私は何も分かっていません。 失敗じゃないとも言えていないし、前向きにもなれていません」
「前向きになることが目的ではありません」
魔女は静かに言った。
「ご自分の立っている場所を正直に見ること。 それが始まりです」
菫は黙った。
魔女はカードの一文を指で示した。
――あの箱には、彼だけじゃなくてあの頃の私も入っている。
「これはとても大切な気づきです」
菫の胸が痛んだ。
「私は、彼にしがみついていると思っていました」
「ええ」
「でも、たぶん……あの頃の自分にもしがみついていました」
魔女は頷いた。
「未来を信じていた自分。 愛されると思っていた自分。 選ばれることでようやく自分を許せると思っていた自分」
菫の目に涙が滲んだ。
「そうです」
小さく頷く。
「私は、結婚したかったです。 彼とちゃんと未来を作りたかった。 それは本当です」
「ええ」
「でも、それだけじゃなかった。 結婚できたら、もう自分を責めなくて済むと思っていました」
声が震える。
「周りと同じになれる。 親にも安心してもらえる。 友人の報告を見ても胸が痛まなくなる。 私はちゃんと選ばれた女なんだって思える気がしていました」
涙がこぼれた。
「だから、終わった時、彼を失っただけじゃなくて…… その“ちゃんとした私”まで失った気がしたんです」
温室の中に静かな沈黙が降りた。
魔女は菫の涙を急かさなかった。
澪も、ただそこにいた。
菫は続けた。
「私は彼のことを愛していました。 でもそれだけじゃなくて、彼に選ばれることで自分を許されたかったんだと思います」
その言葉を言った瞬間、 菫の胸の奥で何かが崩れた。
それは苦しい気づきだった。愛が汚れたように感じた。
自分の恋が、 純粋な愛だけではなかったのだと認めることは とても痛かった。
けれど魔女は静かに言った。
「それでも、愛はなかったことにはなりません」
菫は顔を上げた。
「え……」
「人の愛は、いつも澄みきっているわけではありません」
魔女は椿を見つめながら言った。
「欲も混ざります。 不安も混ざります。 寂しさも、証明したい気持ちも、救われたい願いも混ざります」
菫は息を止めた。
「それでも、愛した時間がすべて嘘になるわけではありません」
涙がまた落ちた。
菫はずっと、自分の中にある証明欲や不安に気づくことが怖かった。
それを認めたら 彼への気持ちまで偽物になる気がしていた。
けれど魔女は、 混ざっていても愛は消えないと言った。
澄みきっていなくても、 それでも愛した時間は嘘ではないと言った。
澪が静かに口を開いた。
「私も、自分の恋の中にいろいろなものが混ざっていました」
菫は澪を見た。
澪は少しだけ苦笑するように言った。
「相手を好きだったのは本当です。 でも、その人に選ばれることで 自分の人生を許されたい気持ちもありました」
菫は澪の言葉に胸が震えた。
「それに気づいた時、少し苦しかったです。 自分の気持ちが汚れていたような気がして」
「はい……」
「でも今は思います。 混ざっていたからといって全部が嘘だったわけじゃない。 ただ、その恋の中で自分が何を求めていたのかを知る必要があったんだって」
菫は澪を見つめた。
この人も通ってきたのだ。
選ばれたい気持ち。認められたい気持ち。
誰かを通して自分を許されたい気持ち。
それを責めきれないほど、 人は愛の中で弱くなる。
菫は初めて少しだけ、自分を責める手を緩められた気がした。
魔女は椿の花を菫の前へ少し近づけた。
「菫さん」
「はい」
「終わりを認めることは、愛がなかったことにすることではありません」
菫の胸にその言葉が深く落ちた。
「終わりを認めることは、 その愛が咲いた季節をきちんと見送ることです」
菫は椿を見た。
花ごと落ちる花。その姿が少しだけ違って見えた。
落ちることは咲かなかったことではない。
終わることは愛がなかったことではない。
花ごと落ちるのは、 咲いた形を失わずに 季節を完了させること。
菫は小さく言った。
「私は、忘れたくなかったんです」
「ええ」
「彼のことも、あの時間も、あの頃の自分も」
「ええ」
「でも、忘れないことと終わらせないことは……違うんですね」
その言葉を言った瞬間、 菫自身が驚いた。
自分の中から出てきた言葉だった。
まだ不器用だった。でもさっきまでより少し深い場所に触れていた。
魔女は微笑んだ。
「その通りです」
菫は涙を拭った。
「忘れないまま、終わらせることはできますか?」
「できます」
「怖いです」
「怖くてよいのです」
魔女は言った。
「椿も軽やかに落ちるわけではありません。 ぽとり、と落ちる。 そこには重みがあります」
菫は温室へ来る途中に見た地面の椿を思い出した。
赤く、重く、形を保ったまま落ちていた花。
軽やかではなかった。でも、美しかった。
「手放すことは軽くなることだけではありません」
魔女は続けた。
「時には重みを認めることでもあります。 この季節は私にとって重かった。 大切だった。 だからこそ雑には捨てられない。 けれど、いつまでも胸に刺したままにはしない」
菫は深く息を吸った。
「胸に刺したまま……」
「ええ」
魔女は椿の花に触れた。
「椿は落ちる時、枝にしがみつきません。 けれど咲いた姿を崩してまで落ちることを拒みもしません」
菫は何も言えなかった。
自分はずっと枝にしがみついていたのかもしれない。
もう季節は終わったのに。もう花は枝を離れる時なのに。
落ちたら終わりだと思って必死に戻ろうとしていた。でも落ちることは敗北ではないのかもしれない。
花ごと落ちることは、 咲いた姿を持ったまま季節を終える勇気なのかも…
魔女は菫に小さな箱を差し出した。
それは手のひらに乗るほどの木箱だった。
黒に近い深い茶色。
蓋には小さな椿の模様が彫られていた。
「これは……」
「見送りの箱です」
菫はその箱を受け取った。
木の手触りが掌に温かい。
「捨てるためではありません」
魔女は言った。
「まずは、ご自分の中で“これは見送るもの”と決めるための箱です」
「見送るもの……」
「ええ。 思い出の品を、すべて捨てる必要はありません。 けれどすべてを同じ箱に入れておく必要もありません」
菫は白い箱を思い出した。
何でもかんでも入っている箱。
彼との写真。
未来のパンフレット。
半券。
カード。
カタログ。
捨てられないものたち。
未練も、愛も、恥ずかしさも、怒りも、 全部一緒に閉じ込められている箱。
魔女は言った。
「次の課題です」
菫は木箱を両手で持った。
「貴女の白い箱の中から、 “残すもの”と“見送るもの”を分けてごらんなさい」
菫の胸がぎゅっと縮んだ。
「捨てるんですか?」
「いいえ。 まずは分けるだけでいいのです」
魔女は静かに言った。
「残すもの。 見送るもの。 まだ決められないもの。その三つに分けてごらんなさい」
菫は少しだけ息がしやすくなった。
全部捨てなくていい。全部決めなくていい。
残すもの。見送るもの。まだ決められないもの。
それならできるかもしれない。
いや、できるかどうかは分からない。でも、やってみたいと思った。
澪がそっと言った。
「私もまだ全部はできていません」
菫は澪を見た。
「澪さんも?」
「はい」
澪は小さく笑った。
「終わったものを綺麗に見送れる日もあれば、 まだ心の中で握っている日もあります」
その言葉に菫は少し安心した。
澪はもう何もかもを乗り越えた人のように見えた。
けれど、そうではないのだ。
この人もまだ途中なのだ。途中のまま、咲いている。
それが菫には少し眩しかった。
魔女は二人を見て微笑んだ。
「花人は完了した女性ではありません」
その言葉に菫と澪は顔を上げた。
「季節の途中でも、自分の花として生きようとする女性です」
菫の胸に静かにその言葉が残った。
完了した女ではない。
途中でもいい。まだ手放せなくてもいい。まだ失敗以外の言葉が見つからなくてもいい。
それでも、自分の花を思い出そうとしているなら、 もう季節は動き始めているのかもしれない。
その夜、菫は木箱を持って花園を出た。
黒い鉄の門をくぐる時、 足元に落ちていた椿が夜露を受けて艶やかに光っていた。
菫はその花の前で少し立ち止まった。
「落ちても、咲いたことは消えない」
そう呟いた。
そして街へ戻った。
部屋に帰ると、白い箱はまだテーブルの上にあった。
昨日出したまましまえなかった箱。
菫は魔女からもらった木箱をその隣に置いた。
白い箱と椿の木箱。
並べるとまるで二つの季節が向かい合っているように見えた。
菫は深く息を吸う。そして白い箱の中身をひとつずつ出した。
写真。
半券。
カード。
式場のパンフレット。
指輪のカタログ。
レシート。
小さな封筒。
全部を一度に判断する必要はない。
残すもの。見送るもの。まだ決められないもの。
菫はまず写真を手に取った。
海辺で笑っている写真。これは、まだ決められなかった。
残すのか。見送るのか。分からない。
菫はそれを「まだ決められないもの」の場所へ置いた。
次に旅行の半券。
その旅行は楽しかった。でもこの半券自体に、今の自分が持ち続けたい何かがあるわけではなかった。
菫は迷いながらも、 それを椿の木箱の前に置いた。
見送るもの。そう決めると、胸が痛んだ。
でも息ができなくなるほどではなかった。
次に、式場のパンフレット。
菫はそれを手に取った瞬間、 胸がぎゅっと縮んだ。
これはまだ見送れない。でも、残したいとも違う。
菫はしばらく迷い、 「まだ決められないもの」の場所へ置いた。
指輪のカタログ。
これは、長い間見るだけで苦しかった。
菫はページを開いた。あの頃、どの指輪がいいか 一人でこっそり考えたことがある。
彼に言ったわけではない。でも心の中で何度も選んでいた。
その自分が少し恥ずかしくて、 少し愛おしかった。
菫はそのカタログを見つめた。
そして白いカードに書いた。
――私は、選ばれる日を本当に待っていた。
その言葉は痛かった。
でも、やっと認められた気がした。
菫はカタログを、「まだ決められないもの」の場所へ置いた。
全部を分け終えるまで、長い時間がかかった。
泣いた。何度も手が止まった。
やっぱり全部戻そうかと思った。
見送るものの場所へ置いた半券を、 何度も戻したくなった。
でも戻さなかった。
最後に、見送るものとして選んだのは三つだけだった。
旅行の半券。レストランのレシート。式場見学の日にもらった小さな案内カード。
たった三つ。それだけ。
けれど菫にとっては、 まるで大きな山を動かしたような夜だった。
菫はその三つを椿の木箱に入れた。
蓋を閉める前に、しばらく見つめた。
「ありがとう」
声に出してみた。
まだ心からではない。少しぎこちない。でも言ってみた。
「ありがとう。さようなら」
その言葉を言った瞬間、涙が落ちた。
さようなら。
それは彼に向けた言葉ではなかった。
あの半券を持っていた自分。あのレシートを捨てられなかった自分。
あの日の案内カードを、未来の証のように握っていた自分。
その自分へ向けた言葉だった。
ありがとう。さようなら。
菫は椿の木箱の蓋を閉じた。
まだ全部は終わっていない。むしろほとんど残っている。
写真もある。パンフレットもある。指輪のカタログもある。
でも、三つだけ見送った。それで今夜は十分だった。
菫は白いカードに最後の一文を書いた。
――全部は無理だった。 ――でも、三つだけ見送った。
それから少し迷って、もう一行だけ書いた。
――終わりは思っていたより重かった。
――でも、落ちても花の形は残っていた。
窓の外は夜だった。
どこか遠くで椿が一輪、 花ごと地へ還ったような気がした。
菫は椿の木箱をテーブルの上に置いたまま、 静かに目を閉じた。
終わりを認めることは、 愛がなかったことにすることではない。
その言葉が胸の中でゆっくりとほどけていく。
まだ完全には分からない。
でも、少しだけ信じてみたい。
菫は深く息を吐いた。
今夜彼女はすべてを手放したわけではない。
ただ、三つだけ見送った。
花ごと落ちる勇気は、 きっとこういう小さな夜から始まるのだと思った。
第四話では、菫が初めて終わった季節の箱と向き合いました。
前回、魔女は菫に課題を出しました。
終わったものを失敗と呼ばずに書いてごらんなさい。
けれど菫はすぐに 「失敗ではなかった」とは書けませんでした。
それはとても自然なことです。
深く傷ついた出来事を、 すぐに美しい言葉へ変えることはできません。
無駄ではなかった。
意味があった。
必要な経験だった。
そんなふうに言える日がいつか来るとしても、 その前には必ず、 まだそうは思えない時間があります。
だから菫はこう書きました。
失敗、以外の言葉がまだ見つからない。 でも、探してみたい。
この不器用な二行こそ、 菫にとっての本当の始まりでした。
今回、菫は気づきました。
自分が捨てられなかったのは、彼だけではなかったということに。
あの箱の中には、 彼との思い出だけでなく 「あの頃の自分」も入っていました。
未来を信じていた自分。
選ばれる日を待っていた自分。
結婚という形で自分の人生を許されたいと思っていた自分。
だから手放せなかった。
彼を忘れたくないだけではなく、 あの頃の自分まで愚かだったと切り捨てたくなかったのです。
これはとても繊細で大切な気づきです。
失恋や婚約破棄、終わった関係が苦しいのは相手を失うからだけではありません。
その人と一緒に進むはずだった未来。その未来の中にいた自分。
そこに込めていた希望や安心や証明。
それらも一緒に失ったように感じるからです。
菫は自分の恋の中に 「選ばれることで自分を許されたい」という願いが混ざっていたことにも気づきました。
それは痛い気づきでした。
手放しはいきなり全部を捨てることではありません。
自分の中で何を残し、何を見送り、何をまだ決められないのかを知ること。
そこから始まります。
菫はたった三つだけ見送りました。その正直さが、今の菫の美しさです。
終わりを認めることは、 愛がなかったことにすることではない。
菫は今、そのことを少しずつ身体で知り始めています。
次回、第五話。
「澪は誰かの入口になる」
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