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満月の夜、澪は鏡の前に立っていた。
部屋の灯りはいつもより少し暗くしてある。
窓の外には白く丸い月が浮かんでいた。
その光がカーテンの隙間から入り、花瓶の中の百合を淡く照らしている。
白い百合
黒いダリア
赤いアマリリス
この三つの花が部屋に並ぶようになってから、澪の部屋はただ眠るための場所ではなくなった。
帰ってくる場所
自分を戻す場所
自分の花を思い出す場所
そんな場所になっていた。
澪はクローゼットから選んだ服をもう一度見た。
アイボリーのワンピース。
派手ではない。
しかし身体の線を隠しすぎず、首元にはほどよい余白があり、歩くと裾が静かに揺れる。
以前の澪なら手に取ることさえなかった服だった。
白は目立つ。汚れる。自分には清楚すぎる。
誰かに何かを言われそう。そう思って、避けていた。
しかし今夜、澪はこの服を着ると決めていた。
秘密の花園の夜会。
花人として生きる女性たちが、それぞれの花と地獄を持ち寄る夜。
そこへ行くのに、自分の花を隠して行きたくなかった。
澪はワンピースに袖を通した。
耳には淡いゴールドのピアス。
唇には少し深めのローズ。
手首には百合の香りをひとしずく。
それから、花人手帖を開いた。
今日、魔女に持っていく一文。
何度も書き直して最後に残った言葉。
選ばれなかった私は、惨めな女ではない。
ようやく自分を選ぶ場所まで戻ってきた女である。
澪はその一文を指でなぞった。
まだ少し胸が痛む。
佐伯さんのことを完全に忘れたわけではない。
彼の名前を聞けば、心は少し揺れる。
奥さんの妊娠を思い出せば、胸の奥がきゅっと縮む。
しかしその痛みの中心に、以前のような絶望はなかった。
私は終わった。私には何もない。誰にも選ばれなかった。
そんな声が聞こえてきても、今の澪はそれをそのまま信じなくなっていた。
痛みは痛み。しかし真実ではない。
澪は鏡の中の自分を見た。
白石澪、三十九歳。
長い間、誰かに選ばれるのを待っていた女。
しかし今夜は自分で自分を連れて行く。
秘密の花園へ。
澪は小さく息を吸った。
「私は私を選ぶ」
その声は夜の部屋に静かに落ちた。
秘密の花園へ続く路地は、いつもより深い香りがした。
薔薇のような甘さ。百合のような白い香り。
樹木のような青さ。土のような湿り気。
満月の光を浴びた石畳は、水に濡れたように光っている。
澪は少し緊張しながら歩いた。
本当に夜会など開かれているのだろうか。
花人として生きる女性たちとは、どんな人たちなのだろう。
自分はそこにいていいのだろうか。
その問いが浮かぶたび、澪は鞄の中の花人手帖に触れた。
そこには自分が地獄から拾い上げた言葉が入っている。
誰かに認められるためではない。
自分が、自分の花を持って行くために。
路地の奥に黒い鉄の門が見えた。
今夜の門には、白い花と赤いリボンが飾られていた。
蔦の絡まる外壁には、小さな灯りがいくつも灯っている。
金色の文字が月明かりの中で浮かび上がっていた。
秘密の花園
澪は扉の前で一度立ち止まった。
鼓動が早い。
逃げようと思えば逃げられる。
今ならまだ、誰にも会わずに帰れる。
部屋に戻って、服を脱いで、眠ってしまえばいい。
しかし澪は扉を開けた。
からん、と鈴が鳴る。
その音はいつもより華やかに響いた。
温室の中には花が溢れていた。
白い百合
深紅の薔薇
艶やかな椿
紫の蘭
淡い芍薬
青いデルフィニウム
名前を知らない黒い花
大きなテーブルには燭台と紅茶、小さなお菓子、果物、そして蜜の入った硝子の器が置かれていた。
そこには数人の女性たちがいた。
澪は思わず足を止めた。
みんな、それぞれ違う美しさを持っていた。
深紅のワンピースを纏った女性は、薔薇のように華やかでどこか危うかった。
黒い髪をきちんと結い椿柄の着物を着た女性は、静かで近寄りがたいほど凛としていた。
紫のブラウスに身を包んだ女性は、蘭のように不思議な気配を放っていた。
淡いピンクのワンピースの女性は、芍薬のようにやわらかく微笑んでいるのに、瞳の奥に長い雨を知っているような影があった。
どの人も、ただ綺麗なだけではない。何かを越えてきた匂いがする。
痛みを知っている女性の美しさ。自分の闇と手を繋いだ女性の静けさ。
澪はその空間に圧倒された。
その時、奥から魔女が現れた。
今夜の魔女は黒のドレスを纏っていた。
夜空のような黒。歩くたびに布の奥に星のような光が見える。
首元には白い花の形をした古いブローチが月光を受けて静かに輝いていた。
「ようこそ、澪さん。」
魔女は澪に近づいた。
「よくいらっしゃいました。」
澪は少しだけ頭を下げた。
「来るのが少し怖かったです。」
魔女は微笑んだ。
「怖い扉ほど、開けた先に貴女の美しい未来があります。」
澪は胸に手を当てる。
その言葉が今夜の自分に少しだけ勇気をくれた。
魔女は澪の装いを静かに見た。
「百合がよく咲いていますね。」
澪は顔が熱くなった。
「まだ、満開ではありません。」
「ええ。」
魔女は頷いた。
「しかし、つぼみの頃とは違います。」
その言葉に澪の胸が温かくなった。
魔女は澪をテーブルへ案内した。
「皆さま。今夜の新しい友人、百合の花人さんです。」
女性たちが澪を見る。その視線に澪は緊張した。
以前ならすぐに自分を小さくしたかもしれない。
視線を避け、笑ってごまかし、心の中で自分を責めたかもしれない。
しかし今夜、澪は逃げなかった。
「百合の花人です。」
声は少し震えた。
「よろしくお願いいたします。」
深紅の薔薇の女性がふっと笑った。
「百合の花人さんね。素敵。」
椿の女性が静かに頷いた。
蘭の女性は、澪の手首の香りに気づいたように目を細めた。
芍薬の女性は何も言わず、澪の緊張をほどくように微笑んだ。
澪は席についた。
テーブルの上には小さなカードが置かれていた。
そこにはこう書かれている。
地獄を経験しない花人はいない。
しかし、地獄をそのまま終着点にする花人もいない。
澪はその文字を見つめた。
地獄を経験しない花人はいない。
自分だけではない。ここにいる女性たちもそれぞれ何かを抱えている。
そう思うと澪の身体の力が少し抜けた。
魔女はテーブルの中央に立った。
「今夜は満月の夜会です。」
その声は温室の隅々まで届いた。
「ここに集まった皆さまは、それぞれ違う花を持っています。薔薇、椿、蘭、芍薬、百合。花の名は違っても、ひとつだけ共通していることがあります。」
魔女はゆっくりと全員を見た。
「皆さま、一度はご自分の人生を諦めかけた方々です。」
空気が少しだけ静かになった。澪は息を呑む。
魔女は続けた。
「愛されなかった。選ばれなかった。傷つけられた。奪われた。報われなかった。遅すぎると思った。自分にはもう何も残っていないと思った。」
その言葉のひとつひとつが温室の花々に触れていく。
「しかしそれでもここへ来られました。」
魔女の声が少しやわらかくなる。
「地獄の中で、まだ咲きたいと願ったからです。」
澪の胸が震えた。
まだ咲きたい。
その言葉は澪の奥深くにあった本音だった。
美しくなりたい。愛されたい。人生を取り戻したい。自分の未来を諦めたくない。
その願いは恥ずかしいものではなかった。
魔女は、硝子の器に入った蜜を示した。
「花人は地獄を否定いたしません。地獄を経験したことを恥じません。痛みを隠して綺麗なふりをするのでもありません。」
そしてこう言った。
「花人は、地獄を蜜に変える女性です。」
澪はその言葉を胸の中で繰り返した。
地獄を蜜に変える女性。
魔女は、まず深紅の薔薇の女性に目を向けた。
「今夜、貴女から始めましょう。」
薔薇の女性はグラスを置いた。
彼女は澪より少し年上に見えた。
華やかな美しさがある。しかし、目元にほんの少しだけ疲れがあった。
彼女は静かに話し始めた。
「私は長い間、自分を雑に扱う恋をしていました。」
澪は思わず彼女を見る。
「相手には家庭がありました。最初はそれでもいいと思っていました。愛されていると思いたかったからです。誰かに必要とされるなら、二番目でもいいと思っていました。」
温室の空気が静かに重くなる。
薔薇の女性は少し笑った。
「でも、二番目でいいと言うたびに、私は自分を少しずつ殺していました。」
澪の胸が痛んだ。
自分を安く扱わない。魔女に何度も言われた言葉がよみがえる。
薔薇の女性は続けた。
「その関係が終わった時、私は捨てられたと思いました。しかし魔女に言われました。“貴女は捨てられたのではありません。ようやく自分を拾いに行ける場所まで来たのです”と。」
澪は息を止めた。
薔薇の女性は赤いカードを取り出した。
「私の一文はこれです。」
彼女はゆっくり読んだ。
二番目に置かれた私は、価値のない女ではない。
一番に扱われる器を、思い出すために地獄を経験した女である。
誰も拍手をしなかった。
その代わり、温室に深い沈黙が落ちる。
それは軽々しく称賛できないほど本当の言葉だった。
魔女は静かに頷いた。
「美しい言葉です。」
次に、椿の女性が話した。
彼女は夫との離婚を経験していた。
長い結婚生活の中で、自分の望みをずっと後回しにしてきたこと。
家庭を守るために、怒りも悲しみも飲み込み続けたこと。
離婚した時、周りから「我慢が足りない」と言われたこと。
しかし本当は我慢しすぎたのだと気づいたこと。
椿の女性は黒いカードを手に取った。
壊れた家庭を出た私は、失敗した女ではない。
自分の魂を置き去りにしないために、扉を閉めた女である。
蘭の女性は、少し不思議な声で言った。
彼女はずっと周囲に「普通」を求められてきたという。
普通に就職し、普通に結婚し、普通に子どもを産み、普通に幸せになる。
その「普通」から外れるたびに、自分を責めてきたこと。
しかし、蘭はそもそも普通の花壇に咲く花ではないと魔女に言われたこと。
蘭の女性は紫のカードを読んだ。
普通になれなかった私は、欠けた女ではない。
珍しい花として咲く場所を、まだ知らなかった女である。
澪はその言葉に胸を打たれた。
次に、淡いピンクのワンピースを着た芍薬の女性が静かに手を上げた。
彼女はそこにいるだけで場の空気をやわらかくするような人だった。
よく笑い、よく頷き、誰かが話す時は、まるでその人の痛みまで受け止めるように耳を傾ける。
澪は最初、その人を見て思った。きっと愛されてきた人なのだろう。
優しくて、柔らかくて、誰からも大切にされてきた女性。
しかし芍薬の女性が口を開いた時、その印象は静かに崩れた。
「私はずっと“いい人”でした。誰かが困っていたら助ける。頼まれたら断らない。相手が不機嫌になりそうなら、自分の気持ちは飲み込む。恋愛でも、仕事でも、家族の中でも、私はずっと“分かってくれる人”でいようとしていました。」
芍薬の女性は少しだけ微笑んだ。
「そうしていれば、いつか大切にされると思っていました。」
澪はその言葉に胸を掴まれた。
いい人でいれば。優しくしていれば。我慢していれば。いつか誰かが気づいてくれる。
その願いは澪にも分かる気がした。
芍薬の女性は続ける。
「しかし気づけば私は、誰かの都合のいい場所になっていました。」
温室の空気が静かになる。
「話を聞いてほしい時だけ連絡してくる人。私なら許してくれると思って雑に扱う人。自分の機嫌を私に取らせようとする人。私はそれでも、嫌われたくなくて笑っていました。」
彼女の指先が、膝の上で静かに重なった。
「ある日魔女に言われたんです。」
芍薬の女性は魔女を見た。魔女は静かに彼女を見返していた。
「“貴女の優しさは美しいものです。しかし差し出す相手を間違えれば、その優しさは貴女を枯らします”と。」
優しさが自分を枯らす。そんなことを、考えたこともなかった。
芍薬の女性は淡いピンクのカードを取り出した。
「私の一文はこれです。」
彼女は少し震える声で読んだ。
優しすぎた私は、弱い女ではない。
ただ自分の花を誰に差し出すかを、まだ知らなかった女である。
澪の目に涙が滲んだ。
その言葉は責める言葉ではなかった。誰かを恨む言葉でもなかった。
ただ、長い間自分を後回しにしてきた女性が、ようやく自分の優しさを取り戻す言葉だった。
魔女は芍薬の女性に向かって穏やかに頷いた。
「芍薬は柔らかく咲く花です。」
魔女の声が温室に静かに広がる。
「しかし、柔らかいことと無防備であることは違います。優しいことと何でも許すことは違います。愛される花であることと、誰にでも摘ませる花であることは違うのです。」
芍薬の女性は目を伏せた。その睫毛の先に光るものが見える。
魔女は続けた。
「貴女の優しさは貴女の蜜です。だからこそ、貴女を粗末に扱う者へ流してはなりません。」
その言葉に澪の胸の奥が震える。
蜜は、誰にでも与えるものではない。
花は、誰にでも摘ませるものではない。
自分の美しさも、優しさも、時間も、愛も、差し出す相手を選んでいい。
澪はまたひとつ花人という生き方を知った気がした。
それぞれの女性が、それぞれの地獄を経験している。
そしてその地獄を、自分を咲かせる言葉に変えている。
澪は自分の番が近づくのを感じた。
心臓が早くなる。手のひらに汗が滲む。
自分の言葉など、ここで読んでいいのだろうか。
みんなの痛みに比べたら、片思いで傷ついた自分など幼いのではないか。
三十九歳で、何も始まらなかった恋に泣いている自分など、笑われるのではないか。
その時魔女が澪を見た。まっすぐに。
逃げないで、と言われた気がした。
「澪さん」
魔女の声は、優しかった。
「貴女の言葉を」
澪は花人手帖を開いた。
ページが少し震えている。
澪は深く息を吸った。百合の香りが手首から立ち上がる。
白い服
淡いゴールドの光
花人手帖
秘密の花園
ここまで来た自分
澪は顔を上げた。
「私は、長い間職場の人に片思いをしていました。」
声は震えた。しかし止まらなかった。
「七年です。何も言えないまま、ただ近くにいるだけでした。彼が結婚すると知った時、私の人生が置いていかれたような気がしました。そして奥さんが妊娠していると知った時、本当に地獄だと思いました。」
澪の目に涙が浮かんだ。しかし今日は泣き崩れなかった。
「私は自分が惨めで、遅すぎて、何も持っていない女だと思いました。」
言葉にするとまだ痛い。
しかし、その痛みをここでは隠さなくていい。
澪は手帖の文字を見た。
「しかし、魔女に教わりました。選ばれなかった痛みを、自分を選ぶ力に変えることができると。」
澪はゆっくりと一文を読んだ。
選ばれなかった私は、惨めな女ではない。
ようやく自分を選ぶ場所まで戻ってきた女である。
読み終えた瞬間、澪の中で何かが静かに音を立てた。
それは鎖が外れる音のようだった。
誰かに選ばれなかったこと。何も始まらなかった恋。戻らない七年。
三十九歳という年齢。
そのすべてが、澪を責める材料ではなくなっていく。
完全に消えたわけではない。
しかし形が変わった。地獄が、少しずつ土になっていく。
薔薇の女性が静かに頷いた。
椿の女性が目を伏せた。
蘭の女性が澪に微笑んだ。
芍薬の女性はそっと胸元に手を当てた。
誰も笑わなかった。誰も軽く慰めなかった。
その沈黙の中で、澪は初めて思った。私の痛みも、ここに置いていいのだ。
魔女は澪の前に小さな百合を置いた。
「よく言葉にされました。」
澪は涙をこらえながら頷く。
「怖かったです。」
「ええ。」
魔女は微笑んだ。
「本当の言葉はいつも怖いものです。しかし本当の言葉だけが、貴女の人生を動かします。」
澪は胸に手を当てた。
そこに確かに自分の心臓がある。
今までより少し強く、動いている。
夜会はその後も続いた。
女性たちは紅茶を飲みながら少しずつ話をした。
どんな服を選ぶようになったか。
どんな香りを纏っているか。
どんな時に人間へ戻りそうになるか。
どんな言葉で自分を救っているか。
澪はただ聞いているだけでも胸がいっぱいだった。
こんな世界があったのか。
女性同士が、誰かの幸せを比べ合うのではなく、それぞれの花を持ち寄って座っている世界。
年齢を競うのでもない。
結婚しているかどうかを測るのでもない。
子どもがいるかどうかで価値を決めるのでもない。
痛みを消した人だけが美しいのではない。
痛みを抱えたまま、それでも自分を咲かせようとしている人が美しい。
澪は、初めて女性たちの集まりを怖いと思わなかった。
それどころか、ここにいると自分の花も育つ気がした。
魔女は夜会の終わりに小さな儀式をした。
テーブルの中央に空の器が置かれ、そこへ女性たちがそれぞれ花びらを一枚ずつ入れていく。
薔薇の赤
椿の白
蘭の紫
芍薬の淡い桃色
百合の白
澪は百合の花びらを一枚、そっと器へ落とした。
最後に魔女が、蜜をひとしずく垂らす。
花びらが蜜を受けて静かに光る。
魔女は言った。
「皆さまの地獄は、もうただの傷ではありません。」
その声は夜の底に届くようだった。
「それは花を育てる土になり、香りを深くする闇になり、蜜を濃くする記憶になります。」
澪は器の中の花びらを見つめた。
「この先も地獄は訪れます。」
魔女は静かに続けた。
「生きている限り痛みは消えません。思い通りにならない日も、選ばれない夜も、悔しさに震える朝もあります。」
澪はゆっくり息を吸った。
「しかし忘れないでください。」
魔女はひとりひとりの顔を見た。
「貴女が花人である限り、どの地獄も、貴女を咲かせる養分に変えることができます。」
温室の外で風が鳴る。
満月の光が、硝子の天井から降り注ぐ。
花々がいっせいに息をしているように見えた。
澪はその光の中で、自分が本当に秘密の花園にいるのだと感じた。
これは夢かもしれない。現実ではないのかもしれない。
しかしどちらでもよかった。
澪の人生は、確かにここから動き始めている。
夜会が終わり、女性たちは一人ずつ帰っていった。
薔薇の女性は澪に小さく手を振った。
「また会いましょう、百合の花人さん。」
椿の女性は静かに言った。
「白がよくお似合いです。」
蘭の女性は澪の手に小さな紫の花を渡した。
「怖い日は、珍しい花を思い出して。」
芍薬の女性は澪の手をやさしく包んだ。
「優しさは、まず自分に向けてもいいのですよね。」
澪はその言葉に小さく頷いた。
「はい。きっとそうなんだと思います。」
芍薬の女性は、花がほどけるように微笑んだ。
澪は胸がいっぱいになった。
「ありがとうございます。」
そう言って深く頭を下げた。
最後に残ったのは澪と魔女だけだった。
温室には夜会の余韻が残っている。
花の香り。蜜の甘さ。女性たちの本当の言葉。
澪は魔女に向き直った。
「魔女さん。」
「はい。」
「私、今日初めて思いました。」
「何をでしょう。」
澪は少しだけ笑った。
「私の人生はまだ終わっていないんだって。」
魔女は静かに微笑んだ。
「終わってなどいません。」
澪の目に涙が浮かんだ。しかしそれは昨日までの涙とは違っていた。
悔しさだけの涙ではない。喪失だけの涙でもない。
自分の未来に、まだ扉があると知った涙だった。
「私、まだ怖いです。」
「ええ。」
「また傷つくかもしれないし、また嫉妬するかもしれないし、また自分を責めたくなるかもしれません。」
「はい。」
「それでも……」
澪は手帖を抱きしめた。
「花人として生きてみたいです。」
魔女は満足そうに頷いた。
「それが、始まりです。」
「始まり……」
「はい。花人は完成した女性のことではありません。」
魔女は澪の前に立った。
「自分の花を知り、地獄を養分にし、美を選び続ける女性のことです。」
澪はその言葉を胸に刻んだ。
魔女は澪に一通の封筒を渡した。
白い封筒。封蝋には百合の印が押されている。
「これは?」
「次の扉です。」
澪は封筒を見つめた。
「開けてもいいですか?」
「お家に帰ってから。」
魔女は少しだけ悪戯っぽく微笑んだ。
「夜会の余韻が、貴女の部屋に届いた頃に。」
澪は封筒を大切に鞄へ入れた。
秘密の花園を出ると夜風が頬に触れた。
満月はまだ空にある。
行きに通った路地が、帰りには少し違って見えた。
同じ道。同じ石畳。同じ夜。
しかし澪の内側が変わると、世界の輪郭まで変わって見えた。
駅前のガラスに澪の姿が映る。
アイボリーのワンピース
淡いゴールドの光
少し深いローズの唇
鞄の中の花人手帖
そして、背筋を伸ばして歩く美しい女性。
澪はその姿を見てももう目を逸らさなかった。
「私は私を選ぶ。」
小さく呟く。
夜の街の中で、その声は誰にも聞こえなかった。
しかし澪には聞こえた。
自分の声が、自分の人生の中心へ戻っていく音が。
家に帰ると、澪はまず花瓶の水を替えた。
白い百合は、ほとんど満開になっている。
黒いダリアは深く、赤いアマリリスは燃えるように咲いている。
澪はその三つの花の前に座った。
そして魔女から渡された封筒を開けた。
中には一枚のカードが入っていた。
そこには、美しい文字でこう書かれている。
次は、蜜を育てる時です。
澪は息を止めた。
裏を見ると短い言葉が続いていた。
花は咲くだけでは終わりません。
花は蜜を持つことで、この世界に必要なものを誘引します。
貴女の蜜は何でしょうか?
澪は長いあいだそのカードを見つめていた。
蜜
それは外側の美しさの次にあるもの。
自分の中に育てるもの。
誰かに与えるためであり、自分を満たすためのもの。
愛
知性
感性
言葉
ぬくもり
祈り
生きる喜び
澪は、まだ自分の蜜が何なのか分からなかった。
しかし分からないことは怖くなかった。
これから探していけばいい。
魔女と共に。
花人手帖と共に。
自分の花と共に。
澪は手帖を開き、今日の最後にこう書いた。
私は終わった女ではない。
私はこれから蜜を育てる女である。
少し考えて、もう一行足した。
誰かに選ばれるために咲くのではない。
私が咲き、満ちることで、世界が私を見つける。
書き終えた時、澪は深く息を吐いた。
胸の痛みはまだ完全には消えていない。
佐伯さんのことを思い出せば、まだ少し泣きたくなる。
しかし澪はもう、その痛みだけを自分の物語の結末にしないと決めていた。
あれは結末ではなかった。始まりだった。
自分を見失っていた女が、秘密の花園へ迷い込み、百合としての自分を知り、地獄を見て、美を選び、花人たちの夜会で自分の言葉を取り戻した。
ここから先は、誰かに選ばれるまで待つ人生ではない。
自分を咲かせ、自分の蜜を育て、その香りにふさわしい世界を引き寄せていく人生。
澪は鏡の前に立つ。
夜会へ行く前の自分とは少し違っていた。
何かが劇的に変わったわけではない。
仕事も同じだし年齢も同じ。現実の問題もすべて残っている。
しかしひとつだけ決定的に違った。
澪はもう、自分の人生を他人の選択に預けていなかった。
鏡の中の女が澪を見つめ返す。
白石澪、三十九歳。
家と職場を往復するだけだった女。
長い片思いに破れ、地獄を見た女。
しかし今は、百合として咲き始めた女。
澪は鏡の中の自分に向かって微笑んだ。
「また明日。」
以前の澪は、明日が来ることを少し怖がっていた。
同じ日々の繰り返し。何も変わらない朝。過ぎていくだけの時間。
しかし今夜は違う。明日が少し楽しみだった。
自分がまた何を選ぶのか。どんな言葉を書くのか。どんな香りを纏うのか。
どんな地獄を、どんな美に変えるのか。
澪は灯りを消した。
月明かりの中で百合が静かに光っている。
その香りは、夜の部屋に満ちていた。
甘く、白く、少しだけ危うく。そして忘れられない香りだった。
眠りに落ちる直前、澪は夢とも現実ともつかない場所で魔女の声を聞いた。
澪さん、よく覚えておいてください。
花人として生きる女性に、遅すぎる春はありません。
咲くと決めたその日が、貴女の季節の始まりです。
この物語はフィクションです。
仕事をして、日々をこなし、それなりに大人として生きている。
しかし心の奥では、本当はもっと美しく生きたかった。もっと愛されたかった。もっと自分の人生に夢中になりたかった。
そんな声が静かに眠っていることがあります。
花人という生き方は、その声をもう一度すくい上げる生き方です。
花のような女性になるのではありません。
花そのものとして生きる。
自分の花を知り、外側を整え、内側に蜜を育て、痛みも嫉妬も孤独も、すべて自分を咲かせる養分に変えていく。
この世は地獄です。
思い通りにならないことも、選ばれない痛みも、戻らない時間もあります。
しかし地獄を見た女だからこそ、深い花を咲かせることができます。
シーズン1はここでひとつの扉を閉じます。
澪はまだ完成したわけではありません。
佐伯さんを完全に忘れたわけでも、すべての痛みが消えたわけでもありません。
しかし彼女はもう知っています。自分の花の名前を。
地獄を美に変える方法を。
そして、誰かに選ばれるまで自分の人生を止めなくていいということを。
貴女の花は何でしょうか?
貴女の地獄は、どんな養分になるのでしょうか?
貴女の中には、どんな蜜が眠っているのでしょうか?
花人という生き方に惹かれた方は、ぜひセッションやセミナーで貴女自身の花を見つけにいらしてください。
秘密の花園の扉は、咲くと決めた貴女の前にだけ開きます。

アーカイブ配信 5月31日(日)〜6月14日(日)
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1番人気の記事です。是非読んでみてください。

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