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菫は白い箱をクローゼットの奥へ戻さなくなった。
以前は見るだけで苦しかったから奥へ隠していた。
見えない場所へ押し込み、普段の生活の中では存在しないもののように扱っていた。
けれど存在しないふりをしても、箱はいつもそこにあった。
仕事から帰って部屋の灯りをつけた時。
友人の結婚報告を見た時。
同僚の妊娠報告を聞いた時。
休日の午後、予定のない時間が広がった時。
クローゼットの奥にある白い箱は見えない場所から菫を呼び続けていたが、今は箱を棚の上に置いている。
その隣には椿の木箱がある。
魔女から渡された見送りの箱。
深い茶色の木箱。蓋には小さな椿の模様が彫られている。
白い箱と椿の木箱。
ふたつの箱は菫の部屋の片隅で静かに並んでいた。
白い箱にはまだ多くのものが残っている。
彼との写真。
式場のパンフレット。指輪のカタログ。
誕生日にもらったカード。彼の筆跡が残る封筒。
まだ見送れないもの。
まだ、見送るのか残すのかも決められないもの。
それらは今も白い箱の中にある。
椿の木箱には三つのものが入っていた。
旅行の半券。レストランのレシート。式場見学の日にもらった小さな案内カード。
菫は何度かその木箱を開けてみた。
そしてそのたびに胸が少し痛んだ。
しかし以前のように息ができなくなるほどではなかった。
痛みはある。
でも少し遠くなっている。
胸に刺さったままの痛みではなく、手のひらに乗せて見つめられる痛みに変わり始めていた。
それが見送りなのかもしれない。
ある夜、菫は白いカードを開いた。
魔女から渡されたカード。
そこには、これまでに書いた言葉が増えていた。
――失敗、以外の言葉がまだ見つからない。
――でも、探してみたい。
――あの箱には、彼だけじゃなくてあの頃の私も入っている。
――私は彼だけじゃなくて「選ばれた私」という未来を失ったのかもしれない。
――まだ失敗じゃないとは言えない。
――でも、失敗だけではなかった気がする。
――全部は無理だった。
――でも、三つだけ見送った。
――終わりは思っていたより重かった。
――でも、落ちても花の形は残っていた。
菫はその言葉たちを読み返した。
誰かに読ませるための言葉でもない。
途中で途切れているものもある。
同じところを何度も回っているような言葉もある。
けれどそれらは全部、菫自身の言葉だった。
澪の文章ではない。魔女の言葉でもない。
菫が自分の中を探りながら、ようやく見つけた言葉だった。
菫はペンを持つ。
しばらく何も書けなかった。
けれど今夜はどうしても、もう一行だけ書きたい気がした。
彼との恋を、まだ失敗以外の言葉で完全に呼ぶことはできない。
あの時間を全部よかったと言うこともできない。
傷つかなかったことにはできない。
選ばれなかった痛みが消えたわけでもないが、以前のように「私は女として失敗した」という一言だけで、自分の全部を閉じ込めることはもうできなかった。
菫は白いカードの一番下に書いた。
――私は、終わった恋だけでできている女ではない。
書いた瞬間手が震えた。
その言葉はまだ少し怖かった。
自分で書いたのにどこか信じきれないが嘘ではなかった。
彼との恋は菫の中にある。
終わった季節も確かにあるが、それだけではない。
椿の木箱を持って花園へ向かった自分。
三つだけ見送った自分。
澪の言葉に辿り着いた自分。
黒い鉄の門を自分の足でくぐった自分。
終わった恋だけで自分の全部を決めなくてもいい。
菫は初めてそう思った。
まだ小さな思いだったが、今夜の菫には十分だった。
鞄の中には椿の木箱と白いカードが入っている。
白い箱は持ってこなかった。
あの箱をどうするかはまだ決められないが、今日は白い箱ではなく自分の言葉を持って行きたいと思った。
黒い鉄の門はいつもの場所にあった。
門の足元には小さな菫の花。その奥には赤い椿。
そして少し離れたところに白い百合が静かに咲いていた。
菫はその三つの花を見つめた。
菫。椿。百合。
どれも違う。
けれどどれも同じ花園に咲いている。
そのことが今の菫には不思議に嬉しかった。
温室へ入ると魔女と澪が待っていた。
魔女は黒いドレス。
澪は白いブラウス。
テーブルの上には赤い椿と白い百合が並んでいた。
菫は椅子に座り、鞄から白いカードを取り出した。
「今日はこれを持ってきました」
魔女は静かに頷いた。
「読んでもよろしいですか?」
菫は少し迷ってから頷いた。
「はい」
魔女はカードを手に取り、ゆっくりと読み始めた。
澪も少し離れた場所で静かに見守っている。
温室の中には花の香りだけが満ちていた。
魔女は最後の一文まで読み終えると、カードをテーブルの上に置いた。
「よく、ここまでご自分の言葉で辿り着きましたね」
菫は目を伏せた。
「まだ全然です」
「ええ」
魔女は頷いた。
「まだ途中です」
その言い方が菫にはありがたかった。
大丈夫ですよと無理に励まされるよりも、よくできましたと完成したように言われるよりも、まだ途中です、と言われる方がずっと楽だった。
途中でいい。完了していなくていい。
そのままでも、ここにいていい。
そう言われたような気がした。
菫は小さく言った。
「私はまだ、彼とのことを失敗じゃなかったとは言えません」
「ええ」
「無駄ではなかったとも、まだ思いきれません」
「ええ」
「でも……」
菫は白いカードを見た。
「失敗だけではなかった気がします」
澪が静かに息を吸った。
菫は続けた。
「幸せだった時間もありました。未来を信じていた自分もいました。選ばれたくて苦しかった自分もいました。彼に愛されたかった自分も、結婚という形で自分を許されたいと思っていた自分もいました」
声は震えていた。
けれど菫は最後まで言った。
「それを全部、失敗という言葉だけで片づけるのは少し違う気がしてきました」
魔女は深く頷いた。
「それが、椿の見送りです」
菫は椿を見た。
深い赤。重みのある花。散る時でさえ花の形を失わない花。
以前なら怖かったその花が、今は少しだけ違って見える。
終わりを美しく飾る花ではない。終わりをなかったことにする花でもない。
終わりの重さを、そのまま抱えて咲く花。
菫は小さく言った。
「私は、椿みたいになれるでしょうか?」
魔女は微笑んだ。
「貴女はもう、椿を思い出し始めております」
魔女は続ける。
「椿は恐れのない花ではありません。終わりの重みを知ってなお、花の形を失わぬ花です」
菫の胸にその言葉が入ってくる。
恐れのない花ではない。怖くてもいい。重くてもいい。泣いてもいい。
それでも、咲いた事実をなかったことにせず、終わりを見送ることはできる。
菫は初めて椿を少し好きだと思った。
「私……」
菫は言葉を探した。
「私は、終わった恋に捨てられた女ではありません」
声が震えた。
澪は静かに菫を見つめた。
魔女も何も言わずに待っていた。
菫は深く息を吸う。
「でも、まだ“椿の女です”なんて、堂々とは言えません」
菫は少しだけ笑った。涙が滲んでいた。
「ただ……終わった恋だけでできている女では、もういたくありません」
それは宣言というより願いに近かった。
魔女は椿の花を菫の前へ置いた。
「それで十分です」
菫は椿を見つめる。
「十分……?」
「ええ。花は咲く前に完璧である必要はありません」
魔女は続けた。
「蕾は蕾のまま、すでに花です。迷いながらでも、貴女はもう椿の季節へ入っております」
菫は両手で顔を覆った。
涙がこぼれた。悲しみだけではない涙だった。
安堵。怖さ。悔しさ。少しの誇り。いろいろなものが混ざっていた。
澪はその涙を見ながら、前回魔女に言われたことを思い出していた。
涙が出たからといって、傷つけたとは限りません。泣くべき涙がようやく出たのでしょう。
菫の涙は今まさにそう見えた。
誰かに壊された涙ではない。自分の奥にあった花へ触れた涙。
澪はただそばにいた。
救うのではなく。答えを渡すのでもなく。
一輪の百合として、そこにいた。
「私は、またここへ来てもいいのでしょうか?」
魔女は微笑んだ。
「もちろんです」
菫はほっとしたように息を吐いた。
「でも、ここに来なくても、私は自分で続けていかないといけないんですよね」
その言葉に澪は菫を見た。
魔女も静かに頷いた。
「ええ」
「白い箱もまだ残っています。写真も、パンフレットも、まだ決められないものがたくさんあります」
「ええ」
「これからも、また戻ると思います。やっぱり失敗だったと思う日もあると思います」
「ええ」
魔女はそのすべてを受け止めるように頷いた。
菫は少しだけ笑った。
「それでも、もう一度ここへ戻ってこられるなら……少し安心します」
魔女は言った。
「秘密の花園は、いつも外側にだけある場所ではありません」
菫は顔を上げた。
「外側にだけ?」
「ええ。黒い鉄の門をくぐる日もあります。この温室へ来る日もあります。けれど、やがて貴女は気づくでしょう」
魔女は椿を見つめた。
「見送りの箱を開く時。白いカードに本当の言葉を書く時。自分の痛みを失敗以外の言葉で見つめようとする時。その時、貴女はすでにご自分の中の花園に入っているのです」
菫はその言葉をすぐには理解できなかったが、胸の奥に小さな種のように残った。
自分の中の花園。
まだ、そこがどこにあるのかは分からない。
けれど、もしかすると昨夜、白い箱の前で三つだけ見送った時、自分はすでにそこへ入っていたのかもしれない。
菫は椿の木箱を抱きしめた。
「また書いてみます」
魔女は頷いた。
「ええ」
「見送れないものは、まだ見送れないと書きます。残したいものは、残したいと書きます。分からないものは、分からないと書きます」
「それで良いのです」
菫は少しだけ胸を張った。
「そして、いつか……」
言いかけて止まった。
いつか何だろう。いつか完全に手放す。いつか彼を忘れる。いつか新しい恋をする。
どれも違う気がした。
菫は言葉を探した。
「いつか、あの恋のことを失敗だけではない言葉で呼べるようになりたいです」
魔女は微笑んだ。
「その日は、きっと来ます」
澪はその言葉を聞きながら、菫の背中に椿の赤が静かに灯っているような気がした。
冬の中でじっと熱を保っているような赤。
それは菫の奥に眠っていた本質の色だった。
テーブルの上には菫が置いていった言葉の余韻がある。
私は終わった恋に捨てられた女ではありません。でも、まだ“椿の女です”なんて堂々とは言えません。
ただ、終わった恋だけでできている女では、もういたくありません。
澪はその言葉を花人手帖に書き留めた。
菫の言葉として。大切に、そっと。
魔女は澪の向かいに座っていた。
「菫さんは変わりましたね」
澪が言うと魔女は微笑んだ。
「ええ。けれど、澪さん」
「はい」
「菫さんを変えたのは、貴女ではありません」
澪は頷いた。
「分かっています」
そう言ってから少しだけ笑った。
「前より分かるようになりました」
魔女は嬉しそうに目を細めた。
澪は、花人手帖を閉じる。
「菫さんは、自分で門をくぐったんですよね」
「ええ」
「自分で箱を開けて、自分で三つだけ見送って、自分で言葉を見つけた」
「ええ」
「私は入口に灯りを置いただけ」
魔女は頷いた。
「その灯りが必要な夜もあるのです」
澪は静かにその言葉を受け取った。
入口に灯りを置くだけ。それは何もしないことではない。
相手の人生を背負わないこと。相手の花を奪わないこと。相手の速度を尊重すること。
それでも自分の花としてそこにいること。
澪はこの度、その難しさと美しさを少しだけ知った。
「魔女さん」
「はい」
「私は、これからも書いていいのでしょうか?」
魔女は澪を見た。
「もちろんです」
「でも、また誰かが読んで、何かが動いてしまうかもしれない」
「ええ」
「それが少し怖いです」
魔女は微笑んだ。
「怖さを知っている方が、言葉は乱暴になりません」
澪はその言葉に目を伏せた。
怖さを知っている方が、言葉は乱暴にならない。それは今の澪に必要な言葉だった。
誰かに届くことを軽く考えない。でも、怖いからといって香りを閉じ込めない。
自分の言葉が誰かの門になることがある。
それを知った上で、それでも自分の花として書く。
澪は花人手帖をもう一度開いた。そして書いた。
――言葉が届くことを軽く扱わない。
――けれど、怖さを理由に香りを閉じ込めない。
――私の花として書く。
書き終えた時、温室の硝子に自分の姿が映った。
白いブラウスの澪。
その背後に黒いドレスの魔女。
二人の影が一瞬重なる。
澪はもう目を逸らさなかった。
魔女になる必要はない。
でも、魔女から受け取ったものが、自分の中で育っていることを否定しなくてもいい。
澪は硝子の中の自分を見つめた。
「私は、私の花として入口になる」
小さく呟いた。
魔女は何も言わなかった。
ただ静かに微笑んでいた。
澪は自宅で匿名の読書ブログを開いた。
澪の文章を読む人は少しずつ増えていた。拍手の数が以前より少し増えた。コメントも時々届くようになった。
それでも大きなブログではない。
誰もが知る場所ではないが、澪にとってはもうただの記録ではなくなっていた。
自分の蜜と香りを置く場所。
誰かの夜に小さな灯りが届くこともある場所。
澪は新しい記事を書き始めた。
タイトルはまだ決めていない。ただ、書きたいことはあった。
終わったものをすぐに失敗と呼ばなくてもいいこと。
手放すとは忘れることではないこと。
見送れないものはまだ見送れないと書いていいこと。
そして、誰かに選ばれなかった自分にも、まだ花は残っていること。
澪はゆっくりと言葉を打った。
終わった季節の中で、私たちは時々、自分のすべてが終わったように感じることがあります。
でも、終わったのは本当に人生そのものだったのでしょうか。
それともひとつの季節だったのでしょうか。
咲いた花が地へ還る時、その花が咲いた事実まで消えるわけではありません。
愛した時間が終わっても、愛した自分まで失敗になるわけではありません。
見送れないものは無理に見送らなくていい。
ただ、いつかそれを胸に刺したままではなく、季節として置ける日が来るかもしれません。
澪は手を止めた。
この文章は菫のためだけに書いているわけではない。
自分のためでもある。
そして、まだ名前も知らない誰かのためでもある。
終わった季節の中で、今もひとり箱を抱えている誰か。
終わった恋。終わった夢。終わった仕事。終わった家族。終わった約束。
もう戻らない季節の前で、自分を失敗と呼んでいる誰か。
澪は静かに続きを書いた。
もし今、貴女が終わった季節の中にいるのなら、どうか急いで自分を責めないでください。
終わったものをすぐに美しく意味づけられなくてもいい。
失敗以外の言葉が見つからない夜があってもいい。
それでも、探してみたいと思えたなら、その瞬間から貴女の中の花は静かに息を吹き返しているのだと思います。
書き終えたあと、澪はしばらく画面を見つめた。
投稿ボタンに指を置く。少し怖い。
この文章も、どこかの誰かに届くかもしれない。
届かないかもしれない。重いと言われるかもしれない。救われたと言われるかもしれない。
誰の心にも残らないかもしれない。それでも、澪は投稿した。
香りを閉じ込めないために。自分の花として書くために。
投稿後、澪はパソコンを閉じた。
窓辺の百合が静かに香っている。
その香りは部屋の中に留まっているようで、どこか遠くの誰かへ向かっているようでもあった。
澪のブログに新しいメッセージが届いた。
差出人の名前は知らない。
短い文章だったが、澪はその一文を読んだ瞬間、息を止めた。
――秘密の花園は、どこにありますか?
たった一文。それだけ。
けれど、その言葉の向こうにまたひとりの女性が立っている気がした。
顔は見えない。年齢も分からない。
何を終わらせ、何を抱え、何を失敗と呼んでいるのかも分からない。
けれどその人もきっと、どこかで門を探している。
終わった季節の外に、本当に別の場所があるのかを知りたがっている。
澪はそのメッセージを何度も読み返した。
秘密の花園は、どこにありますか?
胸の奥が静かに熱くなる。
菫だけではなかった。澪の香りに導かれて、また別の誰かが門の気配に気づき始めている。
澪は花人手帖を開いた。
そして書いた。
――秘密の花園へ招かれる女たちは、ひとりではない。
その瞬間、部屋の空気がふっと変わった。
百合の香りの奥に、薔薇のような香り。芍薬のような香り。椿のような香り。蘭のような香り。
そしてまだ名も知らない花々の香りが一瞬だけ重なった気がした。
澪は顔を上げた。
窓の外にはいつもの街がある。
けれどその向こうに、黒い鉄の門が静かに開いているような気がした。
その夜、澪は秘密の花園へ向かった。
門の前に立つといつもより花の香りが濃かった。
中へ入ると温室の灯りがやわらかく揺れている。
魔女は温室の中央に立っていた。
黒いドレス。静かな微笑み。
その手には白い封筒があった。
澪は息を呑んだ。
「魔女さん」
魔女はその封筒を澪へ差し出した。
「次の季節への招待状でございます」
澪は白い封筒を受け取った。
指先が少し震える。
封を開けると、中には一枚のカードが入っていた。
深い夜色のカード。金色の文字。
そこにはこう書かれていた。
――花人夜会。
澪の胸が大きく鳴った。
「花人夜会……」
澪が初めて参加したあの夜会。
薔薇の女性。椿の女性。蘭の女性。芍薬の女性。
さまざまな花人たちが集まり、それぞれの地獄を花として語った夜。
あの時の澪はただ圧倒されていた。
自分も花人として生きていいのだと知ったばかりで、まだ白い百合の蕾のようだった。
けれど今、澪の手元に再び夜会の招待状がある。
魔女は言った。
「次の季節では、貴女はさまざまな花人たちの中に立つことになります」
澪はカードを見つめた。
「私が……」
「ええ」
「私に、できるでしょうか」
魔女は微笑んだ。
「できるかどうかではなく、貴女はもう招かれております」
澪は深く息を吸った。
花人夜会。
それは華やかで美しい場所。同時に、自分の花を問われる場所。
薔薇は薔薇として。芍薬は芍薬として。椿は椿として。蘭は蘭として。
そして百合は、百合として。
誰かと比べるのではなく自分の花で立つこと。
澪はカードを胸に抱いた。
澪は誰かの入口になった。
菫が自分の花を思い出し始める瞬間に立ち会った。
けれど次の季節では、澪自身がもっと深く問われることになるのだろう。
自分の花を他の花と比べずに立てるのか。
華やかな花々の中で、百合としての白を信じられるのか。
澪は怖かった。でもその怖さの中に、懐かしい高揚もあった。
魔女は温室の扉を開ける。
夜の花園にさまざまな香りが満ちている。
遠くで誰かの笑い声が聞こえた気がした。
薔薇の香り。芍薬の甘さ。椿の深い赤。蘭の湿った気配。百合の白。
まだ見ぬ花々の香り。
秘密の花園へ招かれる女たちはこれから増えていく。
そして澪もまた、その中で自分の花をさらに深く知ることになる。
澪は花人手帖を開き、最後にこう書いた。
――私の香りは誰かを門へ導いた。
――けれど、その人が花を思い出したのはその人自身の力である。
――私は救うのではなく、入口に灯りを置く。
――そして次は、花人たちの中で私自身の花を問われる季節が来る。
書き終えると風がページを揺らす。
魔女が静かに言った。
「澪さん」
「はい」
「秘密の花園へ招かれる女たちは、皆、ご自分の花を思い出すために来るのです」
澪は頷いた。
「私もそうでした」
「ええ」
魔女は微笑んだ。
「そして今も、そうです」
澪は、少し驚いて魔女を見た。
今も。
自分はもう、花人として目覚めたと思っていた。
蜜を育て、香りを知り、誰かの入口にもなった。
けれど、まだ終わりではない。
花は一度咲けば終わりではない。季節ごとに何度も自分を知り直す。
澪は夜会の招待状を胸に抱きしめた。
温室の外で椿が静かに香っている。
門の近くでは小さな菫が揺れている。
そして窓辺には白い百合が咲いている。
次の季節へ向かって、花の香りが夜の中へ広がっていく。
Season4「秘密の花園へ招かれる女たち」が完結しました。
この季節は、澪ひとりの変容から、澪の香りに導かれて別の女性が花園へやって来る物語でした。
Season1で澪は花人として目覚めました。
Season2で自分の中に蜜があることを知りました。
Season3でその香りを薄めずに放つことを学びました。
そしてSeason4では、その香りが菫という女性を秘密の花園の入口へ導きました。
Season4で澪が学んだのは、誰かの入口になるということでした。
Season4の最後、澪のブログに新しいメッセージが届きました。
「秘密の花園はどこにありますか?」
菫だけではありません。
終わった季節の外にある門を探している女性たちが、これから少しずつ澪の香りに導かれていきます。
そして澪には次の季節への招待状が届きました。
花人夜会
Season5では、さまざまな花人たちが集まる夜会へ向かいます。
次に澪が学ぶのは、比較という毒。
そして自分の花で世界に立つこと。
Season5
「花人夜会」
どうぞお楽しみに。
※season5より、小説の更新は二週に一回とさせていただきます🙇♀️
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